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text:towazu:towazu2-09

とはずがたり

巻2 9 かくしつつ八月のころにや御所にさしたる御心地にてはなく・・・

校訂本文

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かくしつつ、八月のころにや、御所に、さしたる御心地にてはなく、そこはかとなく悩みわたり給ふことありて、供御を参らで、御汗垂りなどしつつ、日数重なれば、「いかなることにか」と思ひ騒ぎ、医師(くすし)参りなどして、御灸(やいとう)始めて、十所(ところ)ばかりせさせおはしましなどすれども、同じさまに渡らせおはしませば、九月の八日よりにや、延命供(ゑんめいく)始められて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御ことなれば、「いかなるべき御ことにか」と歎くに、さてもこの阿闍梨1)に御参りあるは、この春、袖の涙の色を見せ給しかば2)、御使に参る折々も言ひ出だしなどし給へども、まぎらはしつつ過ぎ行くに、このほど、細やかなる御文を給はりて、返事を責めわたり給ふ。いとむつかしくて、薄様の元結ひのそばを破りて、「夢」といふ文字を一つ書きて、参らするとしもなくて、うち置きて帰りぬ。

また参りたるに、樒(しきみ)の枝を一つ投げ給ふ。取りて、かたがたに行きて見れば、葉にもの書かれたり。

  樒摘む暁起きに袖濡れて見果てぬ夢の末ぞゆかしき

優(いう)におもしろく覚えて、この後、少し心にかかり給ふ心地して、御使に参るもすすましくて、御物語の返事もうちのどまりて申すに、御所へ入らせ給うて、御対面ありて、「かくいつとなく渡らせ給ふこと」など歎き申されて、「御撫物(なでもの)を持たせて、御時始まらんほど、聴聞所へ人を給はり候へ」と申させ給ふ。

「初夜の時始まるほどに、御衣(おんぞ)を持ちて聴聞所に参れ」と仰せあるほどに、参りたれば、人もみな、伴僧(ばむそう)に参るべき装束しに、おのおの部屋部屋へ出でたるほどにや、人もなし。ただ一人おはします所へ参りぬ。「御撫物、いづくに候ふべきぞ」と申す。「道場のそばの局(つぼね)へ」と仰せごとあれば、参りて見るに、げんてうげ3)に御灯明(あかし)の火に輝(かかや)きたるに、思はずに萎えたる衣にて、ふとおはしたり。

「こはいかに」と思ふほどに、「仏の御しるべは、暗き道に入りても」など仰せられて、泣く泣く抱(いだ)きつき給ふも、あまりうたてく思ゆれども、人の御ため、「こは何事ぞ」など言ふべき御人柄にもあらねば、忍びつつ、「仏の御心の内も」など申せども、かなはず。見つる夢の名残も、うつつともなきほどなるに、「時よくなりぬ」とて、伴僧ども参れば、後ろの方より逃げ帰り給ひて、「後夜のほどに今一度(いちど)、必ず」と仰せありて、やがて始まるさまは何となきに4)、参り給ふらんとも思えねば、いと恐し。

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ほにをかれたりしこそいとをかしかりしかかくしつつ八月の
ころにや御所にさしたる御心地にてはなくそこはかとなく
なやみわたり給事有てく御をまいらて御あせたりなと
しつつ日数かさなれはいかなる事にかとおもひさはきく
すしまいりなとして御やいとうはしめて十ところは
かりせさせおはしましなとすれともをなしさまにわた
らせをはしませは九月の八日よりにやゑんめいくはしめ
られて七日すきぬるに猶おなしさまなる御事なれは
いかなるへき御事にかとなけくにさてもこのあしやりに御参り
あるはこの春袖の涙の色をみせ給しかは御つかひにまいる
をりをりもいひ出しなとしたまへともまきらはしつつすき/s75r k2-20
ゆくにこのほとこまやかなる御ふみをたまはりて返事を
せめわたり給いとむつかしくてうすやうのもとゆいのそはをやり
て夢と云もしを一かきてまいらするとしもなくてうち
をきてかへりぬ又まいりたるにしきみの枝を一なけ給ふ
とりてかたかたにゆきてみれは葉に物かかれたり
   しきみつむあか月をきに袖ぬれてみはてぬ夢の末そゆかしき
いうにおもしろくおほえてこの後すこし心にかかり給ここち
して御つかひにまいるもすすましくて御物かたりの返事
もうちのとまりて申に御所へいらせたまふて御たいめむ
有てかくいつとなくわたらせたまふ事なとなけき申されて
御なて物をもたせて御時はしまらんほとちやうもん所へ/s75l k2-21

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/75

人を給はり候へと申させ給ふしよやの時はしまるほとに御そ
をもちてちやうもん所にまいれとおほせあるほとにまいりた
れは人もみなはむそうにまいるへきしやうそくしにをのをのへ
やへやへ出たるほとにや人もなしたたひとりおはします
所へまいりぬ御なて物いつくに候へきそと申すたうちやうの
そはのつほねへとおほせ事あれはまいりてみるにけんてう
けに御あかしの火にかかやきたるにおもはすになへたる衣
にてふとおはしたりこはいかにとおもふほとに仏の御しる
へはくらき道にいりてもなとおほせられてなくなくいたきつき給
もあまりうたてくおほゆれとも人の御ためこはなに事そ
なといふへき御人からにもあらねはしのひつつほとけの御心の/s76r k2-22
うちもなと申せともかなはすみつる夢のなこりもうつつとも
なきほとなるに時よく成ぬとてはむそうともまいれは
うしろのかたよりにけかへり給て後夜の程にいま一と
かならすとおほせ有てやかてはしまるさまはなにとなきよ
まいり給らんともおほえねはいとおそろし御あかしの光さへ/s76l k2-23

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/76

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1)
有明の月
2)
2-06参照。
3)
「顕証(けそう)」(角川文庫・集成、「厳重(げんでう)」新大系。
4)
「なきに」は底本「なきよ」。
text/towazu/towazu2-09.txt · 最終更新: 2019/05/21 18:23 by Satoshi Nakagawa