とはずがたり
巻1 20 明けはなるるほどに聖呼びにつかはせなど言ふ・・・
校訂本文
明けはなるるほどに、「聖呼びにつかはせ」など言ふ。七月のころ、八坂の寺の長老呼び奉りて、頂(いただき)剃り、五戒受けて、「れんせう」と名付けられて、やがて善知識と思はれたりしを、などいふことにか、三条の尼上1)、「河原院の長老浄光房といふ者に沙汰させよ」と、しきりに言ひなして、それになりぬ。「変はる気色あり」と告げたれども、急ぎも見えず。
さるほどに、「すでにと思ゆるに、起こせ」とて、仲光といふは仲綱が嫡子にてあるを、幼なくより生(おほ)し立てて、身放たず使はれしを呼びて、起こされて、やがて後ろに置きて、寄りかかりの前に、女房一人よりほかは人なし。
これはそばに居たれば、「手の首取らせよ」と言はる。取らへて居たるに、「聖の賜びたりし袈裟は2)」とて、乞ひ出でて、長絹(ちやうけん)の直垂の上ばかり着て、その上に袈裟かけて、「念仏、仲光も申せ」とて、二人して、時の半(なか)らばかり申さる。
日のちとさし出づるほどに、ちと眠(ねぶ)りて、左の方へ傾(かたぶ)くやうに見ゆるを、なほよくおどろかして、「念仏させ奉らん」と思ひて、膝をはたらかしたるに、きとおどろきて、目を見開くるに、あやまたず見合せたれば、「何とならんずらむは」と言ひも果てず、文永九年八月三日、辰の初めに、年五十にて隠れ給ひぬ。
念仏のままにて終らましかば、行く末も頼もしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言の葉にて息絶えぬるも心憂く、すべて、何と思ふばかりもなく、天に仰(あふ)ぎて見れば、日月地に落ちたるにや、光も見えぬ心地し、地に伏して泣く涙は、河となりて流るるかと思ひ、母には二つにておくれにしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生をうけて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五年の春秋を送り3)迎ふ。朝(あした)には鏡を見る折りも、「誰(た)が影ならむ」と喜び、夕には衣を着るとても、「誰が恩4)ならむ」と思ふき。五体身分を得しことは5)、その恩、迷廬八万(めいろはちまん)6)の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(やういくふぢ)の心ざし、母に代はりて切(せつ)なりしかば、その恩、また四大海(しだいかい)の水よりも深し。「何と報じ、いかに報ひてか、あまりあらむ」と思ふより、折々の言の葉は、思ひ出づるも忘れがたく、今を限りの名残は、身に代へてもなほ残りありぬべし。
「ただそのままにて、なり果てむさまをも見るわざもがな」と思へども、かぎりあれば、四日の夜ん、神楽岡7)といふ山へ送り侍りし。「むなしき煙(けぶり)にたぐひても、伴ふ道ならば」と、思ふもかひなき袖の涙ばかりを形見にてぞ帰り侍りし。
むなしき跡を見るにも、「夢ならでは8)」と悲しく、昨日の面影を思ふ。今とてしも勧められしことさへ、かへすがへす何と言ひ尽すべき言の葉なし。
わが袖の涙の海よ三瀬河に流れてかよへ影をだに見む
翻刻
とりのけぬあけはなるるほとにひしりよひにつかはせ なといふ七月のころやさかのてらの長老よひたてまつ りていたたきそり五かいうけてれんせうとなつけら/s26r k1-42
れてやかてせむちしきと思はれたりしをなといふ事にか 三条のあま上かはらの院の長老しやう光房といふものに さたさせよとしきりにいひなしてそれになりぬかはるけし きありとつけたれともいそきもみえすさる程にすてにと おほゆるにおこせとてなかみつといふはなかつなかちやくしにて あるをおさなくよりおほしたてて身はなたすつかはれし をよひてをこされてやかてうしろにをきてよりかか りのまへに女房ひとりよりほかは人なしこれはそはに ゐたれはてのくひとらせよといはるとらへていたるにひしり のたひたりしけさいとてこひいててちやうけんのひ たたれの上はかりきてその上にけさかけて念仏なかみつも/s26l k1-43
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/26
申せとて二人して時のなからはかり申さる日のちとさし いつる程にちとねふりて左のかたへかたふくやうにみ ゆるを猶よくおとろかして念仏させたてまつらんと 思てひさをはたらかしたるにきとおとろきてめをみあ くるにあやまたすみあはせたれはなにとならんすらむ はといひもはてす文永九年八月三日たつのはしめにとし 五十にてかくれ給ぬ念仏のままにてをはらましかは行末も たのもしかるへきによしなくおとろかしてあらぬことの葉 にていきたえぬるも心うくすへてなにと思はかりもなく 天にあふきてみれは日月地におちたるにや光もみえぬ 心地しちにふしてなくなみたは河となりてなかるるかと/s27r k1-44
思ひははには二にてをくれにしかとも心なきむかしは覚す してすきぬ生をうけて四十一日といふよりはしめて ひさのうへにゐそめけるより十五年の春秋をお(を歟)くりむかふ 朝にはかかみをみるおりもたかかけならむとよろこひ夕 には衣をきるとてもたかお(を歟)んならむと思きこたいみふん をえしか(こ歟)とはそのをんめいろ八まむのいたたきよりもた かくやういくふちの心さしははにかはりてせつなりしかは そのをん又したいかいの水よりもふかし何とほうしいか にむくひてかあまりあらむと思よりをりをりのことの葉は 思いつるもわすれかたくいまをかきりのなこりは身にかへ ても猶のこりありぬへしたたそのままにてなりはてむ/s27l k1-45
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/27
さまをもみるわさもかなと思へともかきりあれは四日のよか くらをかといふ山へをくり侍しむなしきけふりにたくひても ともなふみちならはと思ふもかひなき袖の涙はかりをかたみ にてそかへり侍しむなしきあとをみるにも夢ならて はとかなしく昨日のおもかけをおもふいまとてしも すすめられし事さへ返々なにといひつくすへきことの葉なし わか袖の涙のうみよみつせ河になかれてかよへかけをたにみむ/s28r k1-46