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text:tosanikki:se_tosa55

土佐日記

2月16日 到着

校訂本文

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十六日、今日の夜(よう)さつかた、京へ上(のぼ)る。ついでに見れば山崎の小櫃(こびつ)の絵も、曲りの大鉤(おほち)の形(かた)も1)変はらざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。

かくて京へ行(い)くに、島坂にて人饗応(あるじ)したり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちて行きし時よりは、来る時ぞ人はとかくありける。これにも返りごとす。

「夜になして京には入らむ」と思へば、急ぎしもせぬほどに、月出でぬ。桂川、月の明かきにぞ渡る。人々のいはく、「この川、飛鳥川(あすかがは)にあらねば、淵瀬(ふちせ)さらに変はらざりけり」と言ひて、ある人の詠める歌、

  ひさかたの月に生ひたる桂川底なる影も変はらざりけり

また、ある人の言へる、

  天雲(あまぐも)のはるかなりつる桂川袖をひてても渡りぬるかな

またある人詠めりし、

  桂川わが心にもかよはねど同じ深さに流るべらなり

京の嬉しきあまりに、歌もあまりぞ多かる。

夜更けて来れば、ところどころも見えず。京に入り立ちて嬉し。家に至りて、門(かど)に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破(やぶ)れたる。家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。

中垣(なかがき)こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、たよりごとに物も絶えず得させたり。こよひ、「かかること」と、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、心ざしはせむとす。

さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年六年(いつとせむとせ) のうちに千年(ちとせ)や過ぎにけむ、かたへは無くなりにけり。今生ひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、「あはれ」とぞ人々言ふ。

思ひ出でぬことなく、思ひ恋ひしきがうちに、この家にて生まれし女子(をんなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、

  生(む)まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

とぞ言へる。

なほ飽かずやあらむ、またかくなむ、

  見し人の松の千年(ちとせ)に見ましかば遠く悲しき別れせましや

忘れがたく口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破(や)りてむ。

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翻刻

十六日けふのようさつかた京へのほる
ついてにみれはやまさきのこひつの
ゑもまかりのおほちのかたもかはら
さりけりうりひとのこころをそ
しらぬとそいふなるかくて京へ
いくにしまさかにてひとあるし/kd-49l

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/49?ln=ja

したりかならすしもあるまし
きわさなりたちてゆきしとき
よりはくるときそひとはとかく
ありけるこれにもかへりことす
よるになして京にはいらむと
おもへはいそきしもせぬほとに
つきいてぬかつらかはつきのあかき
にそわたるひとひとのいはく
このかはあすかかはにあらねは/kd-50r
ふちせさらにかはらさりけり
といひてあるひとのよめるうた
ひさかたのつきにおひたるかつら
かはそこなるかげもかはらさり
けり またあるひとのいへる
あまくものはるかなりつるかつら
かはそてをひててもわたりぬる
かなまたあるひとよめりし
かつらかはわかこころにもかよ/kd-50l

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/50?ln=ja

はねとおなしふかさになか
るへらなり京のうれしきあ
まりにうたもあまりそおほかる
よふけてくれはところところも
みへす京にいりたちてうれし
いへにいたりてかとに
いるにつきあかけれはいと
よくありさまみゆききし/kd-51r
よりもましていふかひなく
そこほれやふれたるいへに
あつけたりつるひとのこころも
あれたるなりけりなかかきこ
そあれひとついへのやうなれ
はのそみてあつかれるなりさる
はたよりことにものもたへす
えさせたりこよひかかる
     こととこわたかに/kd-51l

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/51?ln=ja

ものもいはせすいとはつらく
みゆれとこころさしはせむ
とすさていけめいてくほま
りみつつけるところありほとり
にまつもありきいつとせむとせ
のうちに千とせやすきにけむ
かたへはなくなりにけりいま
おひたるそましれるおほかたの/kd-52r
みなあれにたれはあはれと
そひとひといふおもひいてぬこと
なくおもひこひしきかうち
にこのいへにてうまれしをん
なこのもろともにかへらねは
いかかはかなしきふなひとも
みなこたかりてののしるかか
るうちになほかなしきに
 たへすしてひそかにこころ
          しれる/kd-52l

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/52?ln=ja

ひとといへりけるうた むまれ
しもかへらぬものをわかや
とにこまつのあるをみるかかな
しさとそいへるなほあか
すやあらむまたかくなむ
みしひとのまつのちとせに
みましかはとほくかなしき
わかれせましやわすれかたく
くちをしきことおほかれと
えつくさすとまれかうまれ/kd-53r
とくやりてむ/kd-53l

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/53?ln=ja

1)
「やまさきのこひつのゑもまかりのおほちのかたも」は解釈に諸説あり。
text/tosanikki/se_tosa55.txt · 最終更新: 2023/10/20 12:41 by Satoshi Nakagawa