2月16日 到着
校訂本文
十六日、今日の夜(よう)さつかた、京へ上(のぼ)る。ついでに見れば山崎の小櫃(こびつ)の絵も、曲りの大鉤(おほち)の形(かた)も1)変はらざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。
かくて京へ行(い)くに、島坂にて人饗応(あるじ)したり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちて行きし時よりは、来る時ぞ人はとかくありける。これにも返りごとす。
「夜になして京には入らむ」と思へば、急ぎしもせぬほどに、月出でぬ。桂川、月の明かきにぞ渡る。人々のいはく、「この川、飛鳥川(あすかがは)にあらねば、淵瀬(ふちせ)さらに変はらざりけり」と言ひて、ある人の詠める歌、
ひさかたの月に生ひたる桂川底なる影も変はらざりけり
また、ある人の言へる、
天雲(あまぐも)のはるかなりつる桂川袖をひてても渡りぬるかな
またある人詠めりし、
桂川わが心にもかよはねど同じ深さに流るべらなり
京の嬉しきあまりに、歌もあまりぞ多かる。
夜更けて来れば、ところどころも見えず。京に入り立ちて嬉し。家に至りて、門(かど)に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破(やぶ)れたる。家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。
中垣(なかがき)こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、たよりごとに物も絶えず得させたり。こよひ、「かかること」と、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、心ざしはせむとす。
さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年六年(いつとせむとせ) のうちに千年(ちとせ)や過ぎにけむ、かたへは無くなりにけり。今生ひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、「あはれ」とぞ人々言ふ。
思ひ出でぬことなく、思ひ恋ひしきがうちに、この家にて生まれし女子(をんなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、
生(む)まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
とぞ言へる。
なほ飽かずやあらむ、またかくなむ、
見し人の松の千年(ちとせ)に見ましかば遠く悲しき別れせましや
忘れがたく口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破(や)りてむ。
翻刻
十六日けふのようさつかた京へのほる ついてにみれはやまさきのこひつの ゑもまかりのおほちのかたもかはら さりけりうりひとのこころをそ しらぬとそいふなるかくて京へ いくにしまさかにてひとあるし/kd-49l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/49?ln=ja
したりかならすしもあるまし きわさなりたちてゆきしとき よりはくるときそひとはとかく ありけるこれにもかへりことす よるになして京にはいらむと おもへはいそきしもせぬほとに つきいてぬかつらかはつきのあかき にそわたるひとひとのいはく このかはあすかかはにあらねは/kd-50r
ふちせさらにかはらさりけり といひてあるひとのよめるうた ひさかたのつきにおひたるかつら かはそこなるかげもかはらさり けり またあるひとのいへる あまくものはるかなりつるかつら かはそてをひててもわたりぬる かなまたあるひとよめりし かつらかはわかこころにもかよ/kd-50l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/50?ln=ja
はねとおなしふかさになか るへらなり京のうれしきあ まりにうたもあまりそおほかる よふけてくれはところところも みへす京にいりたちてうれし いへにいたりてかとに いるにつきあかけれはいと よくありさまみゆききし/kd-51r
よりもましていふかひなく そこほれやふれたるいへに あつけたりつるひとのこころも あれたるなりけりなかかきこ そあれひとついへのやうなれ はのそみてあつかれるなりさる はたよりことにものもたへす えさせたりこよひかかる こととこわたかに/kd-51l
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ものもいはせすいとはつらく みゆれとこころさしはせむ とすさていけめいてくほま りみつつけるところありほとり にまつもありきいつとせむとせ のうちに千とせやすきにけむ かたへはなくなりにけりいま おひたるそましれるおほかたの/kd-52r
みなあれにたれはあはれと そひとひといふおもひいてぬこと なくおもひこひしきかうち にこのいへにてうまれしをん なこのもろともにかへらねは いかかはかなしきふなひとも みなこたかりてののしるかか るうちになほかなしきに たへすしてひそかにこころ しれる/kd-52l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/52?ln=ja
ひとといへりけるうた むまれ しもかへらぬものをわかや とにこまつのあるをみるかかな しさとそいへるなほあか すやあらむまたかくなむ みしひとのまつのちとせに みましかはとほくかなしき わかれせましやわすれかたく くちをしきことおほかれと えつくさすとまれかうまれ/kd-53r
とくやりてむ/kd-53l