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1月9日 大湊〜奈半の泊
校訂本文
九日のつとめて、大湊より「奈半の泊(とまり)を追はむ」とて漕ぎ出でけり。これかれ互ひに、「国の境のうちは」とて見送りに来る人あまたが中に、藤原のとざさね・橘のすゑひら・長谷部のゆきまさらなむ、御館(みたち)より出で給(たう)びし日より、ここかしこに追ひ来る。この人々ぞ、心ざしある人なりける。この人々の深き心ざしは、この海にも劣らざるべし。これより今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。
かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなり、船の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌を独り言にしてやみぬ。
思ひやる心は海を忘れども文(ふみ)しなければ知らずやあるらむ
かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数いくそばく、いく千年(ちとせ)経たりと知らず。もとごとに波うち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るにたへずして、舟人(ふなびと)の詠める歌、
見渡せば松のうれごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる
とや。この歌は所を見るに、えまさらず。
かくあるを見つつ漕ぎゆくまにまに、山も海もみな暮れ、夜更けて西東(にしひんがし)も見えずして、天気(てけ)のこと、楫取(かぢと)りの心にまかせつつ、男(をのこ)も習はぬはいとも心細し。まして女は船底(ふなぞこ)に頭(かしら)を突き当てて、音(ね)をのみぞ泣く。
かく思へば舟子・楫取りは舟歌(ふなうた)歌ひて、何とも思へらず。その歌ふ歌は、
春の野にてぞ音(ね)をば泣く
わが薄(すすき)に手切る切る
摘んだる菜を親や守(まぼ)るらん
姑(しうとめ)や食ふらん
かへらや
夜(よん)べのうなゐもがな
銭乞はむ
虚言(そらごと)をして
おぎのりわざをして
銭も持て来ず
おのれだに来ず
これならず多かれども書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども、心は少し凪ぎぬ。
かく行き暮らして、泊(とまり)に至りて、翁人(おきなびと)一人、専女(たうめ)一人、あるがなかに、心地悪しみして、物もものし給(た)ばで、ひそまりぬ。
翻刻
九日のつとめておほみなとよりなは/kd-17l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/17?ln=ja
のとまりをおはむとてこきいてけり これかれたかひにくにのさかひのうち はとてみおくりにくるひとあまたか なかにふちはらのときさねたちは なのすゑひらはせへのゆきまさら なむみたちよりいてたうひしひより ここかしこにおひくるこのひとひとそ こころさしあるひとなりけるこの ひとひとのふかきこころさしはこの/kd-18r
うみにもおとらさるへしこれよりいま はこきはなれてゆくこれをみお くらむとてそこのひとともはおひ きけるかくてこきゆくまにまにうみ のほとりにとまれるひともとほくなり ふねのひともみへすなりぬきしに もいふことあるへしふねにもおもふ ことあれとかひなしかかれとこのうた をひとりことにしてやみぬ おもひ/kd-18l
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やるこころはうみをわすれとも ふみしなけれはしらすやある らむかくて宇多のまつはらをゆき すくそのまつのかすいくそはくいく ちとせへたりとしらすもとことに なみうちよせえたことにつるそ とひかよふおもしろしとみるにたへ すしてふなひとのよめるうた み わたせはまつのうれことにすむつるは/kd-19r
ちよのとちとそおもふへらなるとや このうたはところをみるにえまさ らすかくあるをみつつこきゆくまにまに やまもうみもみなくれよふけてにし ひんかしもみへすしててけのことかち とりのこころにまかせつつをのこも ならはぬはいともこころほそしまし てをんなはふなそこにかしらをつ きあててねをのみそなくかくおもへは/kd-19l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/19?ln=ja
ふなこかちとりはふなうたうたひて なにともおもへらすそのうたふうたは はるののにてそねをはなくわかすす きにてきるきるつんたるなをおやや まほるらむしうとめやくふらむかへらやよんへ のうなゐもかなせにこはむそらこと をしておきのりわさをしてせに ももてこすおのれたにこすこれなら すおほかれともかかすこれらをひとの/kd-20r
わらふをききてうみはあるれとも こころはすこしなきぬかくゆきく らしてとまりにいたりておきなひと ひとりたうめひとりあるかなかにここ ちあしみしてものもものしたはてひ そまりぬ/kd-20l