沙石集
巻10第6話(124) (松島法心上人の事)
校訂本文
1)奥州松島の長老法心房は、晩出家の人にて、一文不通なりけれども、渡宋して径山の無準2)和尚の下にて、円相の中の丁(てい)の字の公案を得て、坐禅すること多年、尻に瘡(かさ)出でて、膿み腐り、虫なんどの出づるほどなりけれども、九年まて常生しけり。公案の丁字、よろづの物の中に見えけるを、もち破りて心は地はありと言ひける。
その後帰朝して、松島の寺にて行ひけり。「臨終のこと、七日ありて終るべし」と侍者に告ぐるに、ことなる労なきゆゑに信ぜず。その日になりて、斎了(さいれう)に倚座に座して、侍者に辞世の頌を書かす。「来し時も明々たり。去る時も明々たり。これすなはち何物ぞ」と書けと言ふに、侍者、「今一句足り候はず」と言へば、喝すること一喝して、やがて入滅す。
されば、真実の悟入のところは、文字を知らぬにもよらざるべし。末代なりとも、頼みあるは、大乗の修行なり。ただ道に志ありて、名聞利養の心なく、多聞広学の暇(いとま)をやめて、真の善知識の辺にて、信心誠ありて、身命を捨て、寝食を忘れて、行住座臥に怠らずは、大事を発明せんこと、疑ひあるべからず。
経には、「但正其意不学余事。(但その意を正しくして余事を学せざれ。)」と言へり。されば、調達3)が六万蔵の経を誦せし、奈落をまぬがれず。慈童が一念の悲願をおこし、都率に生れき。真実に道に入ること、摂意の二字を行ずるにあり。身口、ひとり過(とが)をなさず。意、内に動いて外に顕(あら)はる。意、もしおさまらば、身口、おのづからおさまるべし。一心不生ならば、万事みなやみなん。
老子の家、なほ絶学無為と言へり。学を絶ち為を戒む。このゆゑに、「学をなすものは日々に益す。道をなすものは日々に損ず」と言ひて、「礼儀等の才覚を習ふは、妄念日々に増し、虚無の大道を守れば、妄念日々に損ず」と言へり。
虚無に相応する、なほ妄心を絶つ。仏法を修行せん、その意知りぬべし。しかれば、大乗の行人、文字を執し、学解を頼みて、心地修行にうとくば、菩提遠かるべし。南山4)いはく、「解蔵、苦を救はずとて、法蔵を心得たるばかりは、苦をまぬがれず」と言へり。当処湛然(たうしよたんねん)の心地を得て、本来無事の理を達すべし。
永嘉5)いはく、「不離当処常湛然、不見則知君不可見。(当処を離れず常に湛然、見ざればすなはち君見るべからざるを知る。)」。これ修行の肝要、親切の指事なり。西天の祖師いはく、「心随万境転。転処実能幽。随流認得性。無喜亦無憂。(心は万境に随ひて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流に随ひて得性を認ずれば、喜も無くまた憂も無し。)」云々。永嘉の言葉、まことにあひかなへり。
当処はすなはち万境虚妄の流注するところなり。湛然はすなはち万境のまことの性なり。水動きて流れとなる。流れの所すなはち水なり。誰か此所を信ぜさらん。ここに、なほなほ疑はば、われまた語らじ。大慧禅師6)いはく、「世間の法を学するは、口議心思(くぎしんし)を用ゐざればあたはず。出世の法を学するは、口議心思を用ゐるは遠し。口に言ひ、心に思ふ、みな世間の虚妄なり。仏法は言語道断し、心行所滅す。これ出世の道なり」。智論7)にいはく、「有念はすなはち魔網、無念はすなはち涅槃なり」。道人たらん人、よくよく思ひ分くべき道理なるをや。
法心房の上人、仏法の心地を得し、文字にかからず。ひとへに志の深きにあり。かれもつともしたふべきをや。愚鈍の身なりとかへりみて、大乗の修行を退すべからず。
東福寺開山、一眼労によりて、盲(めし)ひておはしける時、松島より法心房上人、一首を送り進ず。
本来の面目得たらば水母殿(くらげどの)蝦(えび)の眼(まなこ)は用事なかりけりやな
これを世間の人をかしく思ひて、開山は讃められける。心地ある歌なり。
経に「水母(くらげ)の食を求むるに、海蝦(えび)を借りて目とす」と言へり。水母、目無きままに、海蝦とつれて、かの目を借りて食を求むることなり。「本来の面目あらば、この四大和合の仮の眼(まなこ)何かせん。仮物なり」と詠めるにや。まことに心ある和歌なり。
また、ある時の歌には、楞厳経8)の心にもかなへり。
足なくて雲の走るもあやしきに何を踏まへて霞立つらん
これもいみじき歌なり。万法のそのまことなくして、運為する心なるをや。仏法の意を得て、おのづからかくのごとく詠じけるにこそ。
また、近年以来の諸寺の長老の入滅、いづれもめでたく聞こえ侍りき。つぶさに注(しる)すにあたはず。みな知りあへり。これを残しつ。近代諸寺長老のこと、当代なれば、人みな知れり。よつて記さず。大覚禅師・聖一和尚・仏光禅師・仏眼禅師・無関禅師、辞世頌等これあり。追つてこれを記すべきか。
翻刻
奥州松嶋ノ長老法心房ハ晩出家ノ人ニテ一文不通也ケ レトモ渡宋径山ノ無準和尚ノ下ニテ円相ノ中ノ丁ノ字ノ 公案ヲ得テ坐禅スル事多年尻ニ瘡出テウミクサリ虫ナント ノ出ル程成ケレトモ九年マテ常生シケリ公案ノ丁字ヨロツ ノ物ノ中ニ見ヘケルヲモチヤフリテ心ハ地ハアリトイヒケル其 後帰朝シテ松嶋ノ寺ニテヲコナヒケリ臨終ノ事七日有テヲハ ルヘシト侍者ニツクルニコトナル労ナキ故ニ信セズ其日ニナリ テ斉了ニ倚座ニ坐シテ侍者ニ辞世ノ頌ヲカカス来シ時モ明/k10-383l
明タリ去ル時モ明々タリ此則何物ソトカケトイフニ侍者今 一句タリ候ハストイヘハ喝スル事一喝シテヤカテ入滅スサレハ 真実ノ悟入之処ハ文字ヲシラヌニモヨラサルヘシ末代也トモ タノミアルハ大乗ノ修行ナリ只道ニ志アリテ名聞利養ノ心 ナク多聞広学ノイトマヲヤメテ真ノ善知識ノ辺ニテ信心誠 有テ身命ヲステ寝食ヲ忘テ行住坐臥ニオコタラスハ大事ヲ 発明セン事疑アルヘカラス経ニハ但正其意不学餘事ト云 リサレハ調達カ六万蔵ノ経ヲ誦セシ奈落ヲマヌカレス慈童 カ一念ノ悲願ヲオコシ都率ニ生キ真実ニ道ニ入事摂意 ノ二字ヲ行スルニアリ身口ヒトリトカヲナサス意内ニウコヒテ 外ニ顕ル意若オサマラハ身口ヲノツカラオサマルヘシ一心不 生ナラハ万事皆ヤミナン老子ノ家猶絶学無為ト云リ学ヲ/k10-384r
タチ為ヲイマシム此故ニ学ヲナスモノハ日々ニ益ス道ヲナスモ ノハ日々ニ損スト云テ礼儀等ノ才覚ヲ習フハ妄念日々ニ マシ虚無ノ大道ヲ守レハ妄念日々ニ損ストイヘリ虚無ニ 相応スル猶妄心ヲタツ仏法ヲ修行セン其意シリヌヘシ然ハ 大乗之行人文字ヲ執シ学解ヲタノミテ心地修行ニウトク ハ菩提トヲカルヘシ南山云解蔵苦ヲスクハストテ法蔵ヲ心ヱ タル計ハ苦ヲマヌカレスト云リ当処湛然ノ心地ヲ得テ本来 無事ノ理ヲ達スヘシ永嘉云不離当処常湛然不見則知 君不可見是修行ノ肝要親切ノ指事也西天ノ祖師云心 随万境転転処実能幽随流認得性無喜亦無憂云々永嘉 ノ詞誠ニ相叶ヘリ当処ハ則万境虚妄ノ流注スル処也湛 然ハ則チ万境ノマコトノ性也水動テ流トナル流ノ所則水/k10-384l
也誰カ此所ヲ信セサラン爰ニ猶々疑ハハ我マタカタラシ大 慧禅師云世間ノ法ヲ学スルハ口議心思ヲ用ヰサレハアタハ ス出世ノ法ヲ学スルハ口議心思ヲモチヰルハトヲシ口ニイヒ 心ニ思フ皆世間ノ虚妄也仏法ハ言語道断シ心行所滅 ス是出世ノ道也智論云有念ハ則魔網無念ハ則涅槃ナ リ道人タラン人能々思ワクヘキ道理ナルヲヤ法心房ノ上 人仏法ノ心地ヲエシ文字ニカカラス偏ニ志ノ深キニアリ彼 尤シタフヘキヲヤ愚鈍ノ身也トカヘリミテ大乗ノ修行ヲ退ス ヘカラス東福寺開山一眼労ニヨリテ盲テオハシケル時松嶋 ヨリ法心房上人一首ヲ送リ進ス 本来ノ面目ヱタラハ水母殿蝦ノ眼ハ用事ナカリケリヤ ナ是ヲ世間ノ人ヲカシク思テ開山ハ讃ラレケル心地アル歌/k10-385r
也経ニ水母ノ食ヲ求ニ海蝦ヲカリテ目トストイヘリクラケ目 ナキママニヱヒトツレテカノ目ヲカリテ食ヲモトムル事也本来ノ 面目アラハ此四大和合ノカリノマナコ何カセンカリ物ナリト ヨメルニヤ誠ニ心有和歌也又或時ノ歌ニハ楞厳経ノココロ ニモカナヘリ 足ナクテ雲ノ走モアヤシキニ何ヲフマヘテ霞タツラン是モ イミシキ歌ナリ万法ノ其マコトナクシテ運為スル心ナルヲヤ仏 法ノ意ヲヱテヲノツカラ如此詠シケルニコソ又近年以来ノ 諸寺ノ長老ノ入滅何レモ目出聞侍キ具ニ注スニアタハス皆 シリアヘリ此ヲノコシツ近代諸寺長老ノ事当代ナレハ人皆 シレリ仍不記 大覚禅師 聖一和尚 仏光禅師 仏眼禅師 無関禅師 辞世頌等有之追可記之歟/k10-385l