沙石集
巻10第3話(121) 建仁寺本願の僧正の事
校訂本文
故建仁寺の本願僧正1)、戒律を学し威儀を守り、天台・真言・禅門、いづれも学し行じ給ひ、念仏をも人に勧められけり。遁世の身ながら、僧正になり給ひけることは、「遁世の人をば非人とて、いふかひなく名僧の思ひあひたるゆゑに、仏法のため」と思ひ給ひて、「名聞にはあらず、遁世の光を消たじ」となり。
おほかたは三衣一鉢を持し、乞食頭陀を行ずること、仏弟子のもとにて侍れ。釈尊、すでにその跡を残す。釈子として本師の風をそむかんや。さるままに、名僧の振舞、かへて在家の行儀を貴(たと)くす2)。おほきに仏弟子の儀にそむけり。
しかれども、末代の人の心、乞食法師とて、いふかひなく思ひ、仏法を軽しむることを悲しみて、僧正になり出仕ありければ、世もて軽くせず。菩薩の行、時に従ふ。定まれる方なし。これすなはち、格にかかはらぬ振舞なり。
いまだ葉上房の阿闍梨と申しける時、宋朝に渡りて、如法の衣鉢を受て仏法を伝ふ。帰朝の後、寺を建立の志おはしけるに、天下に大風吹きて損亡のことありけり。世間の人の申しけるは、「この風は、異国の様とて、大袈裟大衣着たる僧ども、世間に見え候ふ。かの衣の袖の広く袈裟の大きなるが、風は吹かするなり。かくのごとくの異体の仁、都の中をはらはるべきなり」と申しけるにつきて、果ては、公卿、僉議に及びて、京中を罷り出づべきよし、宣旨ありければ、弟子の僧ども、あさましく思ひけるところに、「今日は吉日なり。わが願、成就すべし」とて、堀川にて材木買ふべきことなんど下知して、宣旨の御請申されたる言葉の中にいはく、「風はこれ天の気なり。人のなす処にあらず。栄西、風神にあらず。何ぞ風を吹かしめん。もし風神にあらずして風を吹かしむる徳あらば、明王、何ぞ捨て給はん」と云々。
これによりて、「この僧は子細あるものなりけり。申す旨あらば聞こし召し入らるべき」よし、重ねて宣下ありければ、寺建立の志を申されけるによりて、建仁寺を立てられけり。鎌倉に寿福寺、鎮西に聖福寺なんど、創草禅院の始めなり。
しかれども、国の風儀にそむかずして、教門をひかへて、戒律・天台・真言なんどあひ兼て、一向の唐様を行ぜられず。時を待つゆゑにや。また、西天も昔は経論あひ兼ねたり。漢土も上代は三学隔てなかりければ、深き心あるべし。ことに、真言を面(おもて)として、禅門は内行なりけり。
たけの無下に低(ひき)くおはしければ、「出仕に憚りあり」とて、はるかに年たけて後行ひて、たけ四寸高くなりておはしけり。「わが滅後五十年に、禅法興すべき」よし、記し置き給へり。興禅護国論といふ文を作り給へり。その中にあり。
果たして、相州禅門3)、建長寺を立てて、大覚禅師4)、叢林の軌則、宋朝を移し行ひ始めらる。滅後五十年にて当たる。建仁・建長、文字あひ似たり。年号をもつて寺号とする風情も、昔にたがはず。相州禅門をば、かの僧正の後身のごとく申しあへりき。
仏法の興廃、時によることなれば、時節の因縁を待たれけるにや。上宮太子5)は観音の垂迹ながら、戒律はなほ興し給はで、鑑真和尚、始めて戒壇を立つ。如法受戒の作法、わが朝に始まる。これも時機をかがみ給ひけるにや。
さて、かの僧正6)、鎌倉の大臣殿7)に暇(いとま)申して、「京に上りて、臨終つかまつらん」と申し給ひければ、「御年たけて、御上洛わづらはしく侍り。いづくにても御臨終あれかし」と仰せられけれども、「遁世聖を世間に卑しく思ひあひて候ふときに、往生して、京童部に見せ候はん」とて上洛して、年号は覚悟し侍らず、六月晦日の説戒に、最後の説戒のよしありけり。
七月四日、明日終るべきよし披露し、説法めでたくし給ひけり。人々、最後の遺戒と、あはれに思へり。次の日、勅使立ちたりけるに、今日入滅すべきよし申さる。門徒の僧どもは、「よしなき披露かな」と危ぶみ思ひけるほどに、その日の日中、倚座に座して、安然として化し給ひけり。勅使、道にて紫雲の立つを見けり。
委細の事、これあれども、略して記す。ありがたく、めでたかりけり。
翻刻
建仁寺本願僧正事 故建仁寺ノ本願僧正戒律ヲ学シ威儀ヲ守リ天台真言 禅門イツレモ学シ行シ給ヒ念仏ヲモ人ニススメラレケリ遁世 ノ身ナカラ僧正ニナリ給ケル事ハ遁世ノ人ヲハ非人トテイフ 甲斐ナク名僧ノ思アヒタル故ニ仏法ノタメト思給テ名聞ニ ハアラス遁世ノ光ヲケタシトナリオホカタハ三衣一鉢ヲ持シ 乞食頭陀ヲ行スルコト仏弟子ノ本ニテ侍レ釈尊ステニ其 跡ヲノコス釈子トシテ本師ノ風ヲソムカンヤサルママニ名僧ノ 振舞カヘテ在家ノ行儀ヲタトヘス大ニ仏弟子ノ儀ニソムケ リ然レトモ末代ノ人ノ心乞食法師トテイフカヒナクオモヒ仏/k10-380l
法ヲ軽シムル事ヲカナシミテ僧正ニナリ出仕有ケレハ世モテ カルクセス菩薩ノ行時ニシタカフサタマレル方ナシコレスナハチ 格ニカカハラヌ振舞也イマタ葉上房ノ阿闍梨ト申ケル時 宋朝ニ渡テ如法ノ衣鉢ヲ受テ仏法ヲ伝帰朝ノ後寺ヲ建 立ノ志御坐ケルニ天下ニ大風吹テ損亡ノ事アリケリ世間 ノ人ノ申ケルハ此風ハ異国ノ様トテ大袈裟大衣キタル僧 共世間ニ見ヘ候彼衣ノ袖ノヒロク袈裟ノ大キナルカ風ハフ カスル也如此ノ異体ノ仁都ノ中ヲハラハルヘキ也ト申ケルニ ツキテハテハ公卿僉議ニヲヨヒテ京中ヲ罷出ヘキ由宣旨有 ケレハ弟子ノ僧共浅猿ク思ケル処ニ今日ハ吉日也吾願成 就スヘシトテ堀川ニテ材木買ヘキ事ナント下知シテ宣旨ノ御 請申サレタル詞ノ中ニ云ク風ハ是天ノ気也人ノナス処ニ非/k10-381r
ス栄西風神ニアラス何ソ風ヲフカシメン若風神ニ非スシテ風 ヲフカシムル徳アラハ明王何ソステ給ハント云々是ニヨリテ此 僧ハ子細有者也ケリ申旨アラハ聞食入ラルヘキ由重テ 宣下アリケレハ寺建立ノ志ヲ申サレケルニヨリテ建仁寺ヲ 立ラレケリ鎌倉ニ寿福寺鎮西ニ聖福寺ナント創草禅院ノ 始也然トモ国ノ風儀ニソムカスシテ教門ヲヒカヘテ戒律天台 真言ナントアヒカネテ一向ノ唐様ヲ行セラレス時ヲ待ユヘニ ヤ又西天モ昔ハ経論アヒ兼タリ漢土モ上代ハ三学ヘタテナ カリケレハ深キ心アルヘシ殊ニ真言ヲ面トシテ禅門ハ内行也 ケリ長ノ無下ニヒキクオハシケレハ出仕ニ憚リアリトテ遥ニ年 タケテ後ヲコナヒテ長四寸高ク成テオハシケリ我滅後五十 年ニ禅法興スヘキ由記シヲキ給ヘリ興禅護国論トイフ文/k10-381l
ヲ作給ヘリ其中ニ有ハタシテ相州禅門建長寺ヲ立テ大 覚禅師叢林之軌則宋朝ヲウツシオコナヒハシメラル滅後五 十年ニテアタル建仁建長文字相似リ年号ヲ以寺号トスル 風情モ昔ニタカハス相州禅門ヲハ彼僧正ノ後身ノコトク申 アヘリキ仏法ノ興廃時ニヨル事ナレハ時節之因縁ヲマタレケ ルニヤ上宮太子ハ観音ノ垂跡ナカラ戒律ハ猶興シタマハテ 鍳真和尚始テ戒壇ヲ立如法受戒ノ作法我朝ニハシマル 是モ時機ヲカカミ給ケルニヤサテ彼僧正鎌倉ノ大臣殿ニ 暇申テ京ニ上テ臨終仕ラント申給ケレハ御年タケテ御上洛 ワツラハシク侍リイツクニテモ御臨終アレカシト仰ラレケレ共 遁世ヒシリヲ世間ニイヤシク思アヒテ候トキニ往生シテ京童部 ニ見セ候ハントテ上洛シテ年号ハ不覚悟侍六月晦日説戒ニ/k10-382r
最後ノ説戒ノ由有ケリ七月四日明日終ルヘキヨシ披露シ 説法目出シ給ケリ人々最後之遺戒ト哀ニ思ヘリ次日勅 使タチタリケルニ今日入滅スヘキヨシ申サル門徒ノ僧共ハヨ シナキ披露カナトアヤフミ思ケル程ニ其日ノ日中倚座ニ坐シテ 安然トシテ化シ給ケリ勅使道ニテ紫雲ノ立ヲ見ケリ委細事 コレアレトモ略シテ記ス有カタク目出カリケリ/k10-382l