沙石集
巻9第3話(112) 俗士の遁世門の事
校訂本文
丹後の国に、なにがしとかやいふ俗ありけり。名も承りしが忘れ侍り。小名ながら、家中貧しからずして、年たけて失せにける。遺言に、所分の状は、中陰過ぎて開くべきよし、言ひ置きてけり。
子息、その義にて開き見るに、男女の子あまたありけるに、嫡子には宗(むね)と譲りて、次男より次第に少しづつ減じて1)、むらなく譲りてけり。
嫡子、申しけるは、「故殿の譲りの上は、子細申すべきにあらねども、所存の旨、いかでか申さざるべき。故殿は、果報もさることにて、はからひもかしこくおはせしかば、京・鎌倉の宮仕・公役なども、かひがひしく沙汰せられき。この所領を、かくあまたに分けて、面々に安堵申し宮仕(みやづか)はれんこと、ゆゆしき大事なり。身苦しく、人目見苦し。されば、一人を面にして、家を継がせて、余人は便宜の所に庵室作りて、入道になりて、念仏申して、一期身やすく、後世も頼もしくて過ごしたく侍り。わが身、嫡子に当りて侍れども、器量もなく、身ながら覚ゆれば、この中に一人選(え)りて、家を継がせ申したく侍れば、おのおの評定して、はからひ給ふべし」と言ふに、「しかるべし」といふ弟なし。
「おのおの用ゐ給はずは、力なし。いかさまにも、某(それがし)は入道になり候ふべし。この中には、五郎殿ぞ器量の人にておはする。されば、家を継ぎ給へ。おのおのは一向その影にて、田作りて引き入りて候はん」と、まめやかにうちくどき言へば、余人もその義になりて、みな遁世門にてありりと聞こゆ。かしこき心なるべし。
世間の人の楽と思へること、よくよく思ひとけば、顛倒(てんだう)の心にて、苦を楽と思ふなり。楽といふは、まづ心をもつて本(もと)とす。たとひ、身貴くとも、心苦しくはよしなし。身貧しくとも、心安くは楽しみなるべし。されば経には、「知足の人は、地の上に臥せども安楽なり。不知足の者は、天堂に処すれども心にかなはず。小欲の人は、貧といへども富めり。多欲の人は、富といへども貧し」と言へり。
まことに、財(たから)多けれども、不足に思はば貧しき人なり。わづかに身を助くる衣食のことあるを、不足なく思ひて望む心なくば、これ富めるなるべし。古人いはく、「財多ければ身を害し、名高ければ神を害す」と言へり。
国を知り、財多くとも、妻子・眷属をかへりみ、公私の大事を営む時は、国も狭(せば)く財も足らず。不足の心は、貧しき人にもすぐれたり。貧しき者は、求むるところ少なきゆゑに、かの富める者よりこと少なし。竜の頭多ければ、毒も大きがごとしと言へり。
大きなる人と言はるる、名聞をいみじきことと思ひなしたるばかりなり。身大なれば、こと多し。家にありて、人多く騒がしく、道を行くには、道連れ多くして、塵灰(じんかい)を蹴かけらるるばかりなり。夢の中の名聞、よしなくこそ。さりにつけては、身命も保ちがたく、人を悩まし、物を費し、心ならず罪業のみ積もれば、当来の苦果逃れがたし。身も暇(いとま)なく、心も暇(ひま)なければ、仏法修行の志も退しやすく、浄土菩提の浄業もなしがたし。今生・後世楽なきは、ただ身大きに富貴なる人なり。
しかるに、遁世の門に入りて、夏冬の肌(はたへ)を隠す衣、朝夕の飢ゑを助くる糧(かて)、天運に任せて、心やすく身自在にして一生を送らんと思へる、まめやかにかしこき心なるべし。
鹿を捕りて、檻(おり)にこめ繋ぎて、居所をいみじくし、食物を甘うして養へども、その身、必ず痩すと言へり。鹿は山をのみ思ひて、心を留めず。もし、ただ心をやすくして山に臥す時は、草と水とばかり食へども、身も肥えたり。これは、心やすければ肥え、心苦しきは痩するにこそ。されば、心のやすく、思ふことなきほどの楽しみなし。このゆゑに、貧しき子の孝養の志ありけるが、母はその身肥え、富める子の不孝なるが、母はその身痩せたりと言へり。
ただこの世に心やすきのみにあらず。罪障なく妄念なくして仏道を修行せば、当来も頼みあり。楽天2)いはく、「富貴にしても苦あり。苦は心の危憂にあり。貧賤にしても楽あり。楽は身の自由にあり」と言へり。まことにその理(ことわり)疑ひなし。されば万事を忘れ、よろづのわづらひなき身とならんばかりの楽しみあらじ。
賢なりし許由(きよいう)、帝王より九州の長になさるべき宣旨を蒙りて、穎川に行きて、耳を洗ひけり。巣父(そうほ)、牛を引きて、穎川へ行きて、水飼はんとす。許由が帰るに行きあひぬ。許由がいはく、「九州の長になさるべき宣旨を聞きて、耳汚れて覚えつれば、穎川に行きて、すすぎて帰るなり」と言ふ。「さては、その水は汚れぬるにこそ。牛に飼はじ」とて、牛を引きて帰りぬ。「許由耳を洗ひ、巣父牛を引く」と申し伝へたるはこのことなり。末代は、かかる耳をば、かたじけなく思ひて、綿にても包み、錦にてもまとひ、よその人も拝み尊(たと)びぞせまし。
しかるに、当世の人の中に、遁世門に入こと、ありがたくこそ思ゆれ。まことの道に入りて、世間のあだなる理(ことわり)を知らば、何事は心をとどめ、何なる縁にか障(さ)へらるべき。昔の大王は位を捨てて、一乗の御法を習ひ、菜を摘み、水を汲み、薪を採り、千歳の給仕をだにもし給ひけるぞかし。わづかなる世間に心を留めて、道に入る人のなき習ひこそ愚かなれ。
わが朝には、花山院3)こそ、まことに御遁世ありけれ。小野の宮殿4)の御女(むすめ)、弘徽殿の女御5)におくれさせ給ひて、御歎き浅からず、世の中御心細く思し召し、乱れたりけるころ、粟田関白6)、いまだ殿上入にておはしける時、もち給へる扇に、「妻子珍宝及王位。臨命終時不随者。唯戒及施不放逸。今世後世為伴侶」と書き給ひけるを御覧じて、御心を発し、「世の楽しみは夢幻のほどなり。国の位もよしなし」と思し召し取りて、たちまちに十善万乗の位を捨て、永く一乗菩提の道にぞ入7)らせ給ひける。
すでに内裏を出でさせ給ひける夜は、寛和二年六月二十三日、有明の月くまなかりけるに、さすがに御名残も残りけるにや。むら雲の月にかかりければ、「わが願すでに満てり」とてぞ、貞観殿の高妻戸より下りさせ給ひける。それよりかの妻戸をは打ち付けられけるとぞ。ありがたき御発心にこそ。はるかに承るも、あはれに侍り。
覚鑁(かくばん)上人の言葉にも、「三界に安きことなし。なほ火宅の如し。王宮もなほ火宅の中なり。常に8)生老病死憂患有り。玉体もまた無常の形也」とこそ申されけれ。まことに、心賢からん人、虚妄転変の世間を捨てて、実相常住の仏道に入るべきをや。
故少納言入道信西9)の十三年の仏事、その子孫、名僧上綱達、寄り合ひて、一門八講と名づけて、ゆゆしき仏事、醍醐にて行はるることありけり。開白(かいびやく)は聖覚法印、結願は明遍僧都と定めて、覚憲僧正・澄憲法印・証憲僧正・静憲法印等、使者を高野へつかはして、このよし申さるるに、「遁世の身にて侍れば、え参らじ」と、明遍僧都返事せられたりけるを、兄の僧正たち、大きに心得ぬことに思ひて、「されば、遁世の身には親の孝養せぬことか。さばかりの智者学生といふ御房の返事、かへすがへす思はずなり」とて、おし返し使者をもつてこのよしを申さる。
また返事に、「この仰せ、かしこまりて承り候ひぬ。遁世の身なれば親の孝養せじと申すには侍らず。おのおの御中へ参ずることをはばかり申すなり。そのゆゑは、遁世と申すことは、いかやうに御心得ども候ふやらん。身に存じ候ふは、世をも捨て、世にも捨てられて、人員(ひとかず)ならぬこそ、その姿にて候へ。世にすてられて世を捨てぬは、ただ非人(ひにん)なり。世を捨つとも、世に捨てられずは、遁れたる身にあらず。しかるに、おのおのは南北二京の高僧名人にておはします。御中に参じて、一座の講行をも勤め候ひなば、もし公家より召されん時は、いかが申し候ふべき。かかる山の中に籠居して候ふ本意、たがひ候ひなんず。孝養をせじと申すにては候はねば、代官を参らせ候ふべし」とて、慧智房をもつて勤められけり。
兄の僧正たち、この返事を聞きて、「小禅師にてありし時も人を詰めしが、当時も詰むるや」とぞ、申しあはれける。故少納言入道、兄たちの事教訓の時は、この僧都の小禅師の時、使ひとして、責めふせられけることを思ひ出だして、申されけるなるべし。
翻刻
俗士之遁世門事 丹後ノ国ニナニカシトカヤ云俗アリケリ名モ承シカワスレ侍ヘ/k9-334r
リ小名ナカラ家中マツシカラスシテ年タケテウセニケル遺言ニ所 分ノ状ハ中陰スキテヒラクヘキヨシイヒヲキテケリ子息其義ニ テ開キ見ルニ男女ノ子アマタ有ケルニ嫡子ニハ宗トユツリテ 次男ヨリ次第ニスコシツツ咸シテムラナクユツリテケリ嫡子申ケ ルハ故殿ノ譲リノ上ハ子細申ヘキニアラネトモ所存ノ旨イカ テカ申サルヘキ故殿ハ果報モサル事ニテハカラヒモカシコクオハ セシカハ京鎌倉ノ宮仕公役ナトモカヒカヒシク沙汰セラレキコ ノ所領ヲカクアマタニ分テ面々ニ安堵申宮仕ハレンコトユユ シキ大事ナリ身クルシク人目見苦サレハ一人ヲ面ニシテ家ヲ ツカセテ餘人ハ便宜ノ所ニ庵室作テ入道ニナリテ念仏申テ 一期身ヤスク後世モタノモシクテスコシタク侍ヘリ我身嫡子 ニアタリテ侍レトモ器量モナク身ナカラ覚ユレハ此中ニ一人/k9-334l
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ナリワツカニ身ヲタスクル衣食ノ事有ヲ不足ナク思テ望ム心 ナクハコレ冨ルナルヘシ古人云財多ケレハ身ヲ害シ名タカケ レハ神ヲ害ストイヘリ国ヲシリ財多トモ妻子眷属ヲカヘリミ 公私ノ大事ヲ営ム時ハ国モセハク財モタラス不足ノ心ハ貧 キ人ニモスクレタリ貧キ者ハモトムルトコロスクナキユヘニ彼冨 メル者ヨリ事スクナシ龍ノ頭オホケレハ毒モオホキカ如シトイ ヘリ大ナル人ト云ルル名聞ヲイミシキ事ト思ナシタルハカリナ リ身大ナレハ事多シ家ニ有テ人多クサハカシク道ヲ行ニハミ チツレ多クシテ塵灰ヲケカケラルルハカリナリ夢ノ中ノ名聞ヨシ ナクコソサリニ付テハ身命モタモチカタク人ヲナヤマシ物ヲツヰ ヤシ心ナラス罪業ノミツモレハ当来ノ苦果ノカレカタシ身モイ トマナク心モヒマナケレハ仏法修行ノ志シモ退シヤスク浄土/k9-335l
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