沙石集
巻8第15話(108) 耳を売る人の事
校訂本文
奈良の僧の学生、説経なんどもする人、坂東にある所の学頭にて侍るに、ある上人、申しけるは、「二日路の所に請用(しやうやう)あり。老体の身、ものうく侍り。挙し申さん。おはしなんや。ただし、仏事慣れぬ所にて、布施物なんどは、かひがひしからじ。二・三十貫には過ぎじ。また、ある社の神主、有徳なるが、逆修(ぎやくしゆ)すべきこと侍り。子息、とりどりに仏事営みて、七日勤行すべし。それも請じ候ふ。ものぐさく侍り。挙し申さんに相違あらじ。それは一日に、無下なりとも五貫はせんずらん。よくせば十貫づつもせんずらん。おはせかし。これは一日の路なり。いづれも一所、御心にてあるべし」と言ふに、「仰せにや及び候ふ。二日路まかりて三十貫取り候はんよりは、一日路まかりて七十貫をこそ取り候はめ」と言ふ。
さて、一日路の所、海を渡りて行きぬ。子息ども申しけるは、「老体の上、病日久しくして、頼みなく侍れども、親子恩愛の道、思ひ捨てがたく侍り。まづ、祈祷に大般若1)を読み候ひて、逆修は用意つかまつりて候へば、やがてひき続けてつかまつるべし」と言ふに、「参り候ふほどにては、ともかくも仰せに従ふべし」とて、大般若、弟子ども同じく始めけり。
「逆修の他に布施もあらんずらん」と思ひて、開白(かいびやく)して読むに、「御酒は参り候ふやらん」と問ふに、極めたる上戸の愛酒なれども、「『酒飲む』なんど思はば、無下に落ちぶれたり。貴げに思はれて、布施のかさも取らばや」と思ひて、『断酒にて候ふ』と答ふ。「さらば」とて、餅を取り出だして勧めければ、これをちと食ひ始めて、「これは般若の法味、不死の良薬なり。ことさら食ひ始めて候ふ。病者に参らせ給へ」と言ふ。
病者、悦びて、「これは、三宝より給はり候ふ大明神の、御はからひにてこそ」と、「かたじけなく候ふ」とて一口食ふに、八旬に余れる老病の不食久しきが、これを食ふほどに、むせてきちきちとするを、女房どもかかへて、うなじを打ち喉(のんど)をさすれどもかなはず。やがて息絶えて、こと切れにければ、子ども、「力及ばず。何様にも頼みなく候ひつれば、とく御帰りこそ候はめ。孝養の時こそ案内申し候はめ」と言ふ。
さて、苦(にが)りかへりて帰るほどに、すでに船に乗りて押し出だすほどに、「さるにても、この僧、むなしく帰すも無下なり。ちと孝養のよしにて、布施取らせん」とて、使者をやる。馬に鞭打ちて追ひ付きて、「しばらく御とどまり候へ」と言ふを、「『人殺し』とて、咎めかこたれんずるにや」と心得て、「耳にな聞入れそ。漕げや、漕げや」とて、返事もせず漕ぐほどに、風荒く波高くして、すでに入海しつべかりけり。衣装なんどはみな濡らして、死なぬばかりにて帰りたるよし、人づてならず、かの人語り侍りき。
さて、「一所の布施は、五十貫ありけりと、後に聞きけり」と言へり。「これわが身の不運のこと」とて、語りて笑ひ侍りき。
南都にて、ある人、「某(それがし)が耳を買はう」と申すに、用途一貫文ばかりの雑掌(ざつしやう)すべきこと侍りしを、「さらば、このこと営みてたべ。この耳は売らう」とて、売りおはりぬ。
その後、相人のありしに、件(くだん)の耳買ひたる僧とつれて行く。耳買ひを相せさするに、「させる御福分、見え給はず」と言ふに、「あの御房の耳は買取りて侍り。あの耳を某(それがし)が耳にして相して」と言ふに、「さては、明年の春のほどには御悦び候ふべし」と言ふ。耳売りの僧を相するに、「御耳こそ御福分は見え給ひ候へ。そのほか福分おはしまさず」と申ししこと、思ひ出でられ候ふ。「耳売りたるゆゑに、かかる不幸のことありと覚え候ふ」と語りき。
夢をも売り買ふことなれば、かかることもありぬべきなり。宇治殿2)にさぶらはれける、宰相の局といふ女房の、あひ住まれ候ふ友だちが夢に、三日月を懐(ふところ)にいだくと見たるよし、語りければ、「いで、その夢買はう」と言ひて、衣を脱ぎて買ひてけり。それゆゑに、宇治殿に思はれ参らせて、めでたかりけり。
かかることもあれば、耳も売り買ふしるしありけり。さて、かの耳買ひたる僧は、次年の春、所帯まうけてけり。
翻刻
耳売人事 奈良之僧ノ学生説経ナントモスル人坂東ニアル所ノ学頭 ニテ侍ニ或上人申ケルハ二日路ノ所ニ請用有老体ノ身モ ノウク侍リ挙シ申サン御坐ナンヤタタシ仏事ナレヌ所ニテ布 施物ナントハカヒカヒシカラシ二三十貫ニハスキシ又或社ノ 神主有徳ナルカ逆修スヘキ事侍子息トリトリニ仏事営ミテ 七日勤行スヘシソレモ請シ候物クサク侍挙シ申サンニ相違 アラシソレハ一日ニ無下ナリトモ五貫ハセンスランヨクセハ十 貫ツツモセンスラン御坐カシ是ハ一日ノ路ナリ何モ一所御 心ニテ有ヘシト云ニ仰ニヤ及候二日路マカリテ三十貫トリ/k8-315r
候ハンヨリハ一日路マカリテ七十貫ヲコソ取候ハメトイフサ テ一日路ノ所海ヲワタリテユキヌ子息共申ケルハ老体ノ上 病日久シテタノミナク侍レ共親子恩愛ノ道思ヒステカタク侍 リ先ツ祈祷ニ大般若ヲヨミ候テ逆修ハ用意仕テ候ヘハヤカ テヒキツツケテ仕ヘシトイフニ参リ候程ニテハトモカクモ仰ニシ タカフヘシトテ大般若弟子トモ同ク始ケリ逆修ノ他ニ布施 モアランスラント思テ開白シテヨムニ御酒ハマイリ候ヤラント問 ニキハメタル上戸ノ愛酒ナレトモ酒ノムナントオモハハ無下ニ オチフレタリ貴ケニ思ハレテ布施ノカサモトラハヤト思テ断酒 ニテ候ト答フサラハトテ餅ヲトリイタシテススメケレハ是ヲチトクヒ ハシメテ是ハ般若ノ法味不死ノ良薬也コトサラクヒハシメテ 候病者ニ参ラセ給ヘト云病者悦テ是ハ三宝ヨリ給ハリ候/k8-315l
大明神ノ御計ニテコソトカタシケナク候トテ一 口クフニ八旬ニアマレル老病ノ不食久キカ是ヲクフホトニム セテキチキチトスルヲ女房トモカカヘテウナシヲウチノントヲサスレ トモカナハスヤカテ息絶ヱテ事キレニケレハ子トモ力ヲヨハス何 様ニモタノミナク候ツレハトク御帰リコソ候ハメ孝養ノ時コソ 案内申候ハメト云サテニカリカヘリテカヘル程ニ既ニ船ニノリ テヲシ出スホトニサルニテモ此僧ムナシク帰スモ無下也チト孝 養ノ由ニテ布施トラセントテ使者ヲヤル馬ニムチウチテヲヒツキ テシハラク御トトマリ候ヘト云ヲ人殺シトテトカメカコタレンス ルニヤト心得テ耳ニナ聞入ソコケヤコケヤトテ返事モセスコクホト ニ風アラク波タカクシテ既ニ入海シツヘカリケリ衣装ナントハ皆 ヌラシテシナヌ計ニテ帰タルヨシ人ツテナラス彼人語リ侍キサテ/k8-316r
一所ノ布施ハ五十貫有リケリト後ニキキケリトイヘリコレワ カ身ノ不運ノコトトテ語テワラヒ侍キ南都ニテ或人某カ耳 ヲカハフト申ニ用途一貫文計ノ雑掌スヘキ事侍シヲサラハ 此事イトナミテタヘ此耳ハウラフトテウリヲハリヌ其後相人 ノアリシニ件ノ耳カヒタル僧トツレテ行耳カヒヲ相セサスルニサセ ル御福分見ヘ給ハストイフニアノ御房ノミミハカヒトリテ侍リ アノミミヲ某カミミニシテ相シテトイフニサテハ明年ノ春ノホトニハ 御悦候ヘシト云ミミ売ノ僧ヲ相スルニ御ミミコソ御福分ハ 見ヘ給候ヘ其外福分オハシマサスト申シ事思出ラレ候ミミ 売タル故ニカカル不幸ノ事有ト覚候トカタリキ夢ヲモウリカ フ事ナレハカカル事モアリヌヘキナリ宇治殿ニサフラハレケル 宰相ノ局トイフ女房ノアヒスマレ候トモタチカ夢ニ三日月ヲ/k8-316l
フトコロニイタクト見タルヨシ語リケレハイテソノ夢カハフト云テ 衣ヲヌキテカヒテケリソレ故ニ宇治殿ニ思ハレ参ラセテ目出 カリケリカカル事モアレハミミモウリカフシルシアリケリサテ彼ミミ カヒタル僧ハ次年ノ春所帯マウケテケリ/k8-317r