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沙石集
巻8第5話(98) 鳥獣の恩を知る事
校訂本文
中ごろ、伊豆国のある所の地頭に若男ありけり。狩しけるついでに、猿を一匹生け捕りにして、これを縛りて、家の柱に結ひ付けたりけるを、かの母の尼公、慈悲ある人にて、「あらいとほし。いかにわびしかるらん。あれ解き許して山へやれ」と言へども、郎等・冠者ばら、主(しう)の心を知りて、恐れてこれを解かず。「いで、さらばわれ解かん」とて、これを解き許して、山へやりぬ。
これは春のことなりけるに、夏、覆盆子(いちご)の盛りに、覆盆子を柏の葉につつみて、隙(ひま)を伺ひて、この猿、尼公に渡しけり。あまりにあはれにいとほしく思ひて、布の袋に大豆を入れて、猿に取らせつ。
その後、栗の盛りに、先の布の袋に栗を入れて、隙にまた持て来たる。このたびは猿を捕へておきて、子息を呼びて、この次第を語りて、「子々孫々までも、この所に猿を殺さしめじ」と起請をかけ、「もし、さらずは、母子の儀あるべからず」と言ひ、正(ただ)しく誓状しければ、子息、起請書きて、当時までもこの所に猿を殺さぬよし、ある人語りき。所の名までは書かず。
まして、人として恩を知らざらんは、げに畜類にもなほ劣れり。近代は、父母を殺し、師匠を殺す者、聞こえ侍り。悲しき濁世(ぢよくせ)の習ひなるべし。
翻刻
鳥獣恩知事 中比伊豆国ノ或所ノ地頭ニ若男アリケリ狩シケルツヰテニ 猿ヲ一匹イケトリニシテ是ヲ縛テ家ノ柱ニ結付タリケルヲ彼母 ノ尼公慈悲アル人ニテアライトオシイカニワヒシカル覧アレトキ ユルシテ山ヘヤレト云ヘトモ郎等冠者原主ノ心ヲ知テ恐レテ 是ヲトカスイテサラハ我トカントテ是ヲトキユルシテ山ヘヤリヌ是 ハ春ノ事ナリケルニ夏覆盆子ノサカリニ覆盆子ヲ柏ノ葉ニツ ツミテ隙ヲ伺ヒテ此猿尼公ニワタシケリアマリニアハレニイトオ シク思ヒテ布ノ袋ニ大豆ヲ入テ猿ニトラセツ其後栗ノサカリ ニサキノ布ノ袋ニ栗ヲ入テ隙ニ又持テ来ル此度ハ猿ヲトラヘ/k8-295r
テヲキテ子息ヲヨヒテ此次第ヲカタリテ子々孫々マテモ此所 ニ猿ヲコロサシメシト起請ヲカケモシサラスハ母子ノ儀アルヘカラ ストイヒタタシク誓状シケレハ子息起請カキテ当時マテモ此 所ニサルヲコロサヌヨシ或人カタリキ所ノ名マテハカカスマシテ人 トシテ恩ヲシラサランハケニ畜類ニモ猶オトレリ近代ハ父母ヲコ ロシ師匠ヲコロス者聞ヘ侍リカナシキ濁世ノナラヒナルヘシ/k8-295l
text/shaseki/ko_shaseki08a-05.txt · 最終更新: 2019/02/19 17:46 by Satoshi Nakagawa