沙石集
巻7第9話(86) 蛇の人の妻を犯す事
校訂本文
中ごろ、遠江の国のある山里に、所の政所(まんどころ)なる俗ありけり。さかさかしき者なりけり。他行の隙に、妻、昼寝して久しくおどろかず。
夫、帰りて寝屋(ねや)へ入りて、見れば、五・六尺ばかりなる蛇、まとはりて、口さし付けて臥したり。杖を用ゐて、打ちはなて申しけるは、「親の敵、宿世の敵と言ひつれば、子細に及ばず殺害すべきなれども、今度ばかりは許す。自今以後、かかる僻事(ひがごと)あらば、命を断つべし」と言ひて、杖にて少し打なやして、山の方へ捨てつ。
その後、五・六日ありて、家内の男女、驚き騒ぐ。「何事ぞ」と問へば、「蛇のおびただしく集まり候ふ」と言ふ。主、「な騒ぎそ1)」とて、直垂(ひたたれ)着、紐(ひも)さして、出で居に居たり。
一・二尺の蛇、頭を並べて、間もなく四方を囲みて、庭の際(きは)まで来たる。さしまさりたる蛇、続きて幾千万といふ数を知らず。果てには、一丈二・三尺ばかりなる蛇、左右に五・六尺ばかりなる蛇十ばかり具して来たる。みな、頭を上げ舌を動かす。恐しなんどいふばかりなし。女どもは、肝魂もなき体なり。
「今はかうにこそ」と思ひて、主、申しけるは、「おのおの、何として、かく集り給へるぞ。おほかた存知しがたく侍り。一日、女童部が昼眠したりしを、蛇の犯したること侍りき。まのあたり見付けて侍りしかば、宿世の敵(かたき)なる上は、命を断つべかりしを、慈悲をもつて助けて、『後にかかることあらば、命を断つべし』とて、杖にて少し打ちなやして捨たること侍りき。このことを、おのおの聞き給ひて、某(それがし)が僻事ばし思ひておはしたるか。人畜異なりといへども、物の道理はよも変り侍らじ。妻を犯されて、恥ぢがましきことにあひ、情けありて、命を助けながら、なほ僻事になりて、よこざまに損ぜられんことこそ無慚次第(むざんしだい)にて侍れ。このこと、冥衆・三宝も知見を垂れ、天神地祇・梵王帝釈・四大天王・日月星宿も御照覧あるべし。一事も虚誕なし」と、ことうるはしく、かひつくろひて、人に向ひて申すやうに言ひければ、大蛇より始めて、頭を一度に下げて、大蛇のそばに居たる、一日の件の蛇とおぼしきを、一噛み噛みて、引き返へる。これを見て、あらゆる蛇、一口つづ噛みて、みそみそと噛みなして、山の方へみな隠れて後、すべて別事なかりけり。
さかさかしく道理を申し述べて、災ひをのがれけるこそ、賢く思ゆれ。道理をも申し述べずして、とかく防がましかば、ゆゆしき災ひなるべし。
然れば、ものの命を左右なく害すること、よくよくつつしむべきものなり。
翻刻
蛇之人之妻犯事 中比遠江ノ国ノ或山里ニ所ノ政所ナル俗有ケリサカサカシキ 者ナリケリ他行ノ隙ニ妻ヒル寝シテ久ク不驚夫帰テネヤヘ入 テ見レハ五六尺ハカリナル蛇マトハリテ口サシ付テ臥タリ杖 ヲ用テ打ハナテ申ケルハ親ノ敵宿世ノ敵トイヒツレハ子細 ニ不及殺害スヘキナレトモ今度ハカリハ許ス自今以後カカル ヒカ事アラハ命ヲタツヘシト云テ杖ニテ少シ打ナヤシテ山ノ方ヘ/k7-276r
ステツ其後五六日有テ家内ノ男女驚サハク何コトソト問ハ 蛇ノオヒタタシクアツマリ候ト云主ナキハセソトテ直垂キヒモサ シテ出居ニヰタリ一二尺ノ蛇頭ヲナラヘテ間モナク四方ヲカコ ミテ庭ノキハマテ来ルサシマサリタル蛇ツツキテ幾千万ト云数 ヲ知スハテニハ一丈二三尺ハカリナル蛇左右ニ五六尺ハカ リナル蛇十ハカリ具シテ来ルミナ頭ヲアケ舌ヲウコカスオソロシ ナント云計ナシ女共ハ肝魂モナキ体也今ハカフニコソト思テ 主申ケルハ各何トシテカク聚リタマヘルソ大方存知シカタク侍 リ一日女童部カ昼眠シタリシヲ蛇ノ犯シタル事侍リキマノア タリ見ツケテ侍シカハ宿世ノカタキナル上ハ命ヲタツヘカリシヲ 慈悲ヲ以タスケテ後ニカカル事アラハ命ヲタツヘシトテ杖ニテ スコシ打ナヤシテ捨タルコト侍キ此コトヲ各キキ給テ某カ僻事/k7-276l
ハシ思テオハシタルカ人畜異ナリトイヘトモ物ノ道理ハヨモ カハリ侍ラシ妻ヲオカサレテ恥カマシキ事ニアヒナサケアリテ命 ヲタスケナカラ猶ヒカ事ニ成テヨコサマニ損セラレン事コソ無慚 次第ニテ侍レ此事冥衆三宝モ知見ヲタレ天神地祇梵王 帝釈四大天王日月星宿モ御照覧アルヘシ一事モ虚誕 ナシト事ウルハシクカヒツクロヒテ人ニ向テ申様ニイヒケレハ大 蛇ヨリ始テ頭ヲ一度ニサケテ大蛇ノソハニ居タル一日ノ件ノ 蛇トオホシキヲ一カミカミテ引返ル是ヲ見テアラユル蛇一口ツ ツカミテミソミソトカミナシテ山ノ方ヘ皆カクレテ後スヘテ別事ナ カリケリサカサカシク道理ヲ申ノヘテ災ヲノカレケルコソ賢ク覚ユ レ道理ヲモ申ノヘスシテトカクフセカマシカハユユシキ災ナルヘシ然 レハ物ノ命ヲ左右ナク害スル事ヨクヨクツツシムヘキモノナリ/k7-277r