沙石集
巻7第6話(83) 嫉妬の心無き人の事
校訂本文
ある殿上人、田舎下りのついでに、遊女をあひ具して上られけるば、使(つかひ)を先立てて、「人を具して上り侍るなり。むつかしくこそ思し召さんずらめ。御心なり。出でさせ給へ」と、女房のもとへ情けなく申されけり。
女房、少しも恨みたる気色なくして、「殿の、人を具して上らせ給ふなるに、御まうけせよ」とて、こまごまと下知して、見苦しきものばかり取りしたためて、よろづあるべかしく用意して、わが身はかり出で給ひぬ。
遊女、このことを見聞きて、おほきに恐れて、殿に申しけるは、「御前の御振舞ひ、ありがたき御心ばへにておはしますよし承り、かつ、ことのさま見参らせ候ふに、いかがかかる御住居の所には候ふべき。身の冥加も、よも候はじ。ただ御前を呼び参らせて、もとのごとくにて、この身は別の所に候ひて、時々召されんは、しかるべく侍りなん。さらでは、一日も、いかでかかくて侍るべき」と、おびただしく誓状しければ、殿もことわりに1)折れて、北方の情けもわりなく思えて、使をやりて、北方を呼び奉る。
すべて返事もなかりけれども、たびたびとかく申されければ、帰り給ひぬ。遊女も心ある者にて、互ひに遊び戯(たはぶ)れて、隔てなきことにてぞありける。ためし少なき心ばへにこそ。
遠江国にも、ある人の女房去られて、すでに馬に乗りて出でけるを、人の妻の去らるる時は、家の中の物、心にまかせて取る習ひにて侍るなれば、「何物も取り給へ」と、夫、申しける時、「殿ほどの大事の人をうち捨てて行く身の、何物か欲しかるべき」とて、うち笑みて、にくいげもなく言ひける気色、まめやかにいとほしく思えて、やがてとどめて、死の別れになりにけり。人に憎まるるも、思はるるも、先世のことといひながら、ただ心がらにてよるべし。
常陸国ある所の地頭、京の名人、歌道、人に知られたる女房を語らひて、年久しくあひ住みけるが、鎌倉へ送りて後、年月経て、さすが昔の名残のありけるにや、衣・小袖など色々に調じて送りたりける。
返事、別のことはなくて、
つらかりし涙に袖は朽ち果てぬこの嬉しさを何につつまん
これを見て、さめざめとうち泣きて、「あらいとほし。その御前、とくとく迎へよ」とて、呼び下して。死の別れとなりにけり。さらに近くは、ままあるべし。
同じ国に、ある人の女房、鎌倉の官女にてありけり。歌の道も心得て、やさしき女房なりけり。心ざしや薄かりけん、「ことのついでを求めて、鎌倉へ送らばや」と思ひて、この前栽(せんざい)の鞠(まり)のかかりの四本の木を、一首に詠み給へ。ならずは送り奉るべし」と男に言はれて、
桜咲くほどはのきばの梅の花もみぢまつこそひさしかりけれ
これを感じて、送ること思ひ留まりにけり。人の心は、やさしく色あるべし。当時2)ある人なり。
ある人、妻を送りけるが、雨の降りければ、色代に、「今日は雨降れば、留まり給へ」と言ふを、すでに出で立ちて、出でつつ、かくこそ詠みける。
降らば降れ降らずば降らず降らずとて濡れて行くべき袖ならばこそ
あまりにあはれに、いとほしく思えて、やがて留めて、死の別れになりにけり。和歌の徳に、人の心をやはらぐると言へり。まことなるかな。
「西施が江(かう)を愛し、嫫母(ぼも)は鏡を嫌ふ」と言ひて、わが形(かたち)良かりし西施は、江に 影の映るを見て、これを愛しき。わが貌(かほ)みにくかりし嫫母は、鏡に映る影見にくきままに、鏡を嫌ひき。これ江の良きにあらず。わが形の良きなり。形の悪(わろ)きにあらず。わか顔のみにくきなり。しかれば、人の良きは、わが心の清きなり。あたみ恨めしきは、わが見の過(とが)なり。たとひ今生に、ことなる過なきに、人の憎みあたむも、先世のわが過なり。おのづから人に愛せらるるも、先世のわが情けなるべし。されば、人を恨むることなくして、わが身の過去・今生の業因縁、心からと思ひて、怒(いか)り恨むべからず。
世間の習ひ、多くは嫉妬の心深くして、怒り、腹立ち、推し疑ひて、人をいましめ、失なひ、色を損じ、目をいからかし、語を激しくす。かかるにつけては、いよいようとましく思えて、鬼神の心地こそすれ。いかでか、いとほしくなつかしからむ。あるいは霊となり、あるいは蛇となる。かへすがへすもよしなくこそ。されば、かの昔の人の心ある跡を学ばば、現生には敬愛の徳を施し、当来には毒蛇の苦をまぬかるべし。
ある人、もとの婦(め)をも家におきながら、また婦を迎へてあひ住みけり。今の妻と一所に居て、垣一重隔ててもとの妻ありけるに、秋の夜、鹿の鳴く声聞こえけるを、夫。「聞き給ふか」と、もとの妻に言ひければ、返事に、
われもしかなきてぞ人に恋ひられし今こそよそに声ばかり聞け
と言はれければ、わりなく思えて、今の妻を送りて、また還りあひにけり。嫉妬の心深くして情なくば、かくはあらじかし。ただ嫉(そね)み妬(ねた)まず、あたを結ばずして、まめやかに色深くば、おのづからしもあるべきにや。
信濃の国に、ある人の妻(つま)のもとに、まめ夫(をとこ)のかよふよし、夫聞きて、天井の上にてうかがひけるに、例のまめ夫来たりて、物語し戯(たはぶ)れけるを、天井にて見るほどに、あやまちて落ちぬ。腰打ち損じ絶入しければ、間男、これを返て看病し、とかく扱ひ助けてけり。心ざま、互ひにおだしかりければ、許してけり。
洛陽にも、天文博士が妻を、朝日の阿闍梨といふ僧、かよひて住みけり。ある時、夫、他行の隙と思ひて、うちとけて居たる所に、夫、にはかに来たる。逃るべき方なうして、西の方の遣戸(やりど)を開けて、逃げけるを見付けて、かくぞ言ひける。
あやしくも西に朝日の出づるかな
阿闍梨、とりもあへず、
天文博士いかが見るらん
さて、呼びとどめて、酒盛り連歌なんどして許してけり。
ある人の妻、間男寝たりける時、夫、にはかに屋根の内へ入らんとす。「いかにしてか逃がさん」と思ひて、「衣の蚤取るよしにて逃がさん」とて、間男の裸なるを、むしろにかいまいて、「衣の蚤取らむ」とて、炭櫃(すびつ)を飛び越えけるほどに、すべらかして、炭櫃にどうと落しつ。男、これを見て、目見のべ、口おほひして、のどかなる気色にて、「あら、いしの蚤の大きさや」と言ひて、何ともせざりければ、勢は大なれども、小蚤のごとくも跳ばずして、裸にて這ひ逃げにけり。あまりに肝すぎてしてけるにこそ。夫の心、おだしかりけり。
遠江国、池田のほとりに、庄官ありけり。かの妻、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて、あからさまにもさし出ださず。所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、見参のため、宿へ行かんとするを、例の許さず。「地頭代、知音なりければ、いかが見参せざらん。許せ」と言ふに、「さらば、符(しるし)を付けん」と、隠れたる所に摺粉(すりこ)を塗りてけり。
さて、宿へ行きぬ。地頭、みな子細知りて、「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて遊び給へ」と言ふに、「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符付けられて候ふ」と言うて、「しかじか」と語りければ、「冠者ばらに見せて、もとのごとく塗るべし」とて、遊びて後、もとのやうにたがへず摺粉を塗りて、家へ帰りぬ。
妻、「いでいで、見ん」とて、摺粉をこそげて、舐めてみて、「さればこそしてけり。わが摺粉には塩を加へたるに、これは塩がなき」とて、引き伏せて縛りけり。心深さ、あまりにうとましく思えて、やがてうち捨てて、鎌倉へ下りにけり。近きことなり。
旧き物語にある男、他行の時、間男持てる妻を、「符(しるし)付けん」とて、隠れたる所に牛を描きてけり。さるほどに、まめ男の来たるに、「かかることなんあり」と語りければ、「われも絵は描けば、描くべし」とて、さらば、よくよく見て、元のごとくも描かで、まことの男は臥せる牛を描けるに、間男は立てる牛を描きてけり。
さて、夫、帰りて、見て、「さればこそ、間男の所為にこそ。わが描ける牛は臥せる牛なるに、これは立てる牛なり」と叱りければ、「あはれや給へ。臥せる牛は、一生臥せるか」と言ひければ、「さもあるらん」とて許しつ。男の心は、浅くおほやうなる習ひにや。をこがましきかたもあれども、情量の浅きかたは、罪も浅くや。池田の女人には、ことのほかに似ざりけり。
ある山の中に、山臥と巫女(みこ)と行き逢ひて、物語しけるが、人もなき山中にて、凡夫の習ひなれば、愛欲の心起こりて、この巫女に落ちぬ。この巫女、山沢の水にて垢離(こり)かきて、鼓(つづみ)とうとうと打ち、数珠押し摺りて、「熊野白山三十八所、なほもかかる目にあはせ給へ」と祈りけり。山臥、また垢離かきて、数珠押し摺りて、「魔界の所為にや、かかる悪縁にあひて、不覚をつかまつりぬる。南無悪魔降伏、大聖不動明王、今はさてあれと、制せさせ給へ」と言ひて、二人、行き分かれにけり。
これも、男子は愛執の薄き習ひなるべし。
翻刻
沙石集巻第七 下 無嫉妬之心人事 或殿上人田舎下リノ次ニ遊女ヲ相具シテノホラレケルカ使ヲ サキタテテ人ヲ具シテ上リ侍也ムツカシクコソ思食サンスラメ御 心ナリイテサセ給ヘト女房之許ヘ情ナク申サレケリ女房スコ シモ恨タル気色ナクシテ殿ノ人ヲ具シテ上セ給ナルニ御マウケセ ヨトテコマコマト下知シテ見クルシキ物ハカリトリシタタメテヨロツ アルヘカシク用意シテ我身ハカリイテ給ヌ遊女コノ事ヲ見キキテ オホキニオソレテ殿ニ申ケルハ御前ノ御フルマヒ有カタキ御心 ハヘニテオハシマスヨシ承リ且事ノ様見マイラセ候ニイカカカカ ル御栖居ノ所ニハ候ヘキ身ノ冥加モヨモ候ハシタタ御前ヲヨ ヒマイラセテ本ノコトクニテ此身ハ別ノ所ニ候テ時々メサレン/k7-269l
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