沙石集
巻7第2話(79) 愚痴の僧、文字を知らざる事
校訂本文
ある山寺に、所の習ひとして、法華1)・仁王2)の二経、僧ごとに暗誦しつけたる中に、文字にも向はで覚えたる愚僧多し。
その中にある若き僧、師の譲り与へたる大般若3)を、虫払はんとて取り広げたるを、隣房の若き僧来たりて、「何経ぞ」と問ふ。「いざ、何経やらん。先師が譲りて侍るなり」と言ふに、「賜べ、その経十巻。法師が法華経を持たぬに、法華経にせん」と言へば、「とく取り給へ」と言ふ。一帙取りて帰りぬ。
また隣房の僧来て、この経を問ふに、「隣の某(それがし)房がもとにあまた見えつれば、『法華経にせん』とて、取りて来たれり」と言ふ。「法花経は八巻こそあれ。賜べ。二巻は法師が仁王経持たぬに、仁王経にせん」と言ふに、「とく取り給へ」と言ふ。さて、二巻は取りて帰りてけり。
文字にかかはらず、手にまかせて取り来たることはこれに似たれども、愚痴のほど、をかしくこそ。
ある在家に、大般若読ませける中に、愚僧ありて、経を逆さまに持ちたるを、奉行しける俗、「あの御房の持ち給へる経の、逆さまに候は」と言へば、よく持ちたる僧、取り直して逆さまに持ちてけり。さて、逆さまに持ちたる僧は、われはよく持ちたる気色にて、そばの僧ををこがましく思て、「さ見候ひつる」と言ひけり。
また、大文字を知らで、「またふりのやうなる文字は何ぞ」と問へる僧ありけり。また、「大」とうちあげて、般を見知らで、「船から」とぞ言ひける。かかる僧のありけるこそ、あまりに不思議に侍れ。末代いよいよかかりぬへし。
月蔵分4)の中に説きていはく、「有戒・無戒・破戒、ないし頭を剃り、袈裟の片端(かたはし)をも着たらん僧をば、緊縛(けばく)し、鞭打(べんちやう)し、禁閉すべからず。かくのごとくの僧、清浄の比丘の中にあらば、ただ法によりて寺を出だすべし。もしこれを悩ませば、国に災起こり、善神国を守らず、隣国あひ戦ひ侵し、賢聖捨て来たらず」と言へり。されば、俗人、この心を存ずべし。僧は信施を恐れ、おのれが得失をかへりみて、請に趣くべし。俗は仏語を守りて、たやすく治罰すべからず。十輪経・大集経の教へはかくのごとし。
涅槃経には、「破戒の僧、持戒の僧を悩まさば、国王・大臣、かの破戒の比丘を殺害し、正法 を守るべし。五戒を持(たも)たずして、兵仗を帯して、仏法を護持すべし」と見えたり。昔、覚徳比丘、持戒清浄にして、大乗を弘通せしを、破戒の比丘、これをそねみて殺害せんとせしに、有徳王、軍(いくさ)を起こして、破戒の比丘と戦ひて、みな殺害しおはりぬ。さて王、疵(きず)をかぶりて死す。この功徳によりて、東方仏国の第一の弟子と生まれ、覚徳比丘は第二の弟子と生ると説けり。
先徳、これを会(ゑ)するに、二つの義を立つ。一つには、十輪経は在家を教へ、涅槃経は出家をいましむ。一つには、十輪経は先の説なり、涅槃経は終窮(じゆうぐう)の極説(ごくせつ)とす。涅槃によりて正法を守るをもととすと言へり。真実の正法のため、私の執情なくば、涅槃の説、まことにその益あるべきにや。
翻刻
愚痴之僧文字不知事 有山寺ニ所ノ習トシテ法華仁王ノ二経僧コトニ暗誦シツケ タル中ニ文字ニモ向ハテ覚ヘタル愚僧多シ其中ニ或ワカキ 僧師ノ譲リアタヘタル大般若ヲ虫ハラハントテトリヒロケタルヲ 隣房ノワカキ僧キタリテナニ経ソト問イサ何経ヤラン先師カ ユツリテ侍ナリトイフニタヘソノ経十巻法師カ法華経ヲモタヌ ニ法華経ニセントイヘハトクトリ給ヘト云一帙トリテ帰ヌ又 隣房ノ僧来テ此経ヲ問ニ隣ノ某房カモトニアマタ見ヘツレハ/k7-255r
法花経ニセントテトリテ来レリト云法花経ハ八巻コソアレタ ヘ二巻ハ法師カ仁王経モタヌニ仁王経ニセント云ニトク取 給ヘト云サテ二巻ハトリテ帰テケリ文字ニカカハラス手ニマカ セテ取来コトハ是ニ似タレトモ愚痴ノ程オカシクコソ或在家 ニ大般若ヨマセケル中ニ愚僧アリテ経ヲサカサマニ持タルヲ奉 行シケル俗アノ御房ノモチ給ヘル経ノサカサマニ候ハトイヘハ ヨク持タル僧トリナヲシテサカサマニモチテケリサテサカサマニモチタ ル僧ハ我ハヨク持タル気色ニテソハノ僧ヲオコカマシク思テサ 見候ツルトイヒケリ又大文字ヲシラテマタフリノヤウナル文字 ハナニソト問ル僧アリケリ又大ト打アケテ般ヲ見シラテ船カラ トソイヒケルカカル僧ノ有ケルコソ餘リニ不思議ニ侍レ末代イ ヨイヨカカリヌヘシ月蔵分ノ中ニ説テ云ク有戒無戒破戒乃/k7-255l
至頭ヲソリ袈裟ノカタハシヲモキタラン僧ヲハ緊縛シ鞭打シ禁 閉ヘカラスカクノコトクノ僧清浄ノ比丘ノ中ニアラハタタ法 ニヨリテ寺ヲ出スヘシ若シ是ヲ悩セハ国ニ災起リ善神国ヲ 守ラス隣国アヒタタカヒヲカシ賢聖捨テ来ラストイヘリサレハ 俗人此心ヲ存スヘシ僧ハ信施ヲ恐レヲノレカ得失ヲカヘリミ テ請ニ趣クヘシ俗ハ仏語ヲ守リテタヤスク治罰スヘカラス十 輪経大集経ノヲシヘハカクノ如シ涅槃経ニハ破戒ノ僧持 戒ノ僧ヲナヤマサハ国王大臣彼破戒ノ比丘ヲ殺害シ正法 ヲ守ルヘシ五戒ヲタモタスシテ兵仗ヲ帯シテ仏法ヲ護持スヘシト 見ヘタリ昔シ覚徳比丘持戒清浄ニシテ大乗ヲ弘通セシヲ破 戒ノ比丘是ヲソネミテ殺害セントセシニ有徳王軍ヲ起シテ破 戒ノ比丘トタタカヒテミナ殺害シ畢ヌサテ王疵ヲカフリテ死ス/k7-256r
此功徳ニヨリテ東方仏国ノ第一ノ弟子ト生レ覚徳比丘 ハ第二ノ弟子ト生トトケリ先徳是ヲ会スルニ二ノ義ヲ立ツ 一ニハ十輪経ハ在家ヲオシヘ涅槃経ハ出家ヲイマシム一ニ ハ十輪経ハ先ノ説ナリ涅槃経ハ終窮ノ極説トス涅槃ニヨ リテ正法ヲ守ヲ本トスト云ヘリ真実ノ正法ノタメ私ノ執情 ナクハ涅槃ノ説実ニソノ益有ヘキニヤ/k7-256l