沙石集
巻6第16話(74) 身を売りて母を養ふ事
校訂本文
去りにし文永年中、炎旱(ひでり)日久しくして、国々飢饉おびただしく聞こえし中にも、美濃・尾張ことに餓死せしかば、多く他国へぞ落ち行きける。
美濃国に、貧しくして母子ありけり。もとより頼りなき上、かかる世にあひて、飢ゑ死ぬべかりければ、「たちまちに心憂きことを見んよりは、身を売りて、母を助けん」と思ひて、母にこのやうを言ひければ、ただ一人持ちたる子なりける上、孝養の志ありければ、離れんこと悲しく思えて、「死すとも同所にて、手をも取らへて臥し、頭をも並べてこそ死なめ。いくほどもあるまじき世に、生き長らはなれんも口惜しきことなり」とて、母、ふつと許さざりけれども、もし命あらば、おのづから巡り会ふこともありなん。たちまちに飢ゑ死なんことも、さすが悲しく思えて、母はかく制しけれども、身を売りて、代りを母に与へて、泣く泣く別れて、吾妻の方へぞ行きける。
三河国矢作の宿に、あひ知りたる者語りしは、「商人の、人あまた具して下りける中に、若き男の、人目もつつまず音を立てて泣くありけり。人、怪しみて、『なにゆゑに、さしも泣くぞ』と問ひければ、『美濃国の者にて侍るが、母を助けんがために、身を売りて、いづくにとどまるべしともなく、吾妻の方へ下り侍るなり。母の、あまりに別るることを悲しみて、もだへこがれ候ひつるが、日を数へてこそ、思ひおこすらめ。命あらば巡り会ふこともありなんと、こしらへ置きつれども、また再び母の姿を見ずして、吾妻の奥の山の奥、野の末にかさすらひ行きて、夕(ゆふべ)の煙、朝(あした)の露と消えて、また母を見ずしてややみなん』と、くどき立てて泣きければ、見聞く人も袖をしぼらぬはなかりなりけり。
至孝の志、まめやかに昔に恥ぢず。ありがたく思えて、かへすがへすもあはれに侍り。
翻刻
身売母養事 去シ文永年中炎旱日久クシテ国々飢饉オヒタタシク聞ヱシ 中ニモ美濃尾張殊ニ餓死セシカハ多ク他国ヘソヲチユキケル 美濃ノ国ニ貧シテ母子有ケリ本ヨリタヨリナキ上カカル世ニア ヒテウヘシヌヘカリケレハ忽ニ心ウキ事ヲミンヨリハ身ヲ売テ母/k6-235r
ヲ助ケント思テ母ニコノ様ヲ云ケレハ只一人モチタル子ナリケ ル上孝養ノ志シアリケレハハナレン事カナシク覚テ死トモ同所 ニテ手ヲモトラヘテフシ頭ヲモナラヘテコソ死メイクホトモアルマシ キ世ニイキナカラハナレンモ口惜キ事也トテ母フツトユルササリ ケレトモ若イノチアラハヲノツカラメクリアフコトモアリナン忽ニウ ヘシナン事モサスカ悲シク覚テ母ハカク制シケレトモ身ヲ売テカ ハリヲ母ニアタヘテ泣々ワカレテアツマノ方ヘソユキケル三河国 矢作ノ宿ニアヒシリタル者語シハ商人ノ人アマタ具シテ下ケル 中ニワカキ男ノ人目モツツマス音ヲタテテナクアリケリ人アヤシ ミテナニユヘニサシモ泣ソトトヒケレハ美濃ノ国ノモノニテ侍カ 母ヲ助ケンカタメニ身ヲ売テイツクニトトマルヘシ共ナクアツマ ノカタヘ下リ侍也母ノアマリニワカルルコトヲ悲テモタヘコカレ/k6-235l
候ツルカ日ヲカソヘテコソ思オコスラメ命アラハメクリアフ事モ 有ナントコシラヘヲキツレトモ又フタタヒハハノ姿ヲ見スシテアツマ ノヲクノ山ノオク野ノスヱニカサスラヒユキテユフヘノ煙朝ノ露ト 消テ又母ヲ見スシテヤヤミナントクトキタテテナキケレハ見キク人 モソテヲシホラヌハナカリナリケリ至孝ノ志マメヤカニ昔ニハチス有カ タク覚テ返々モ哀ニ侍リ/k6-236r