沙石集
巻6第13話(71) 亡父、夢に子に告げて借物を返す事
校訂本文
中ごろ武州に、境(さかひ)間近きほどに住みて、互ひに言ひむつぶる俗ありけり。一人は貧しく、一人は豊かなりける。さるままに、常に借物(しやくもつ)なんどしけり。
さて、ともに死去して後、二人の子ども、親どものむつびしかごとく言ひかよはしけり。貧しかりけるが子、夢に見けるは、亡父来たりて、よにもの歎かしき気色にて言ひけるは、「それがし、殿の物を、いくいくら借りて返さざりしゆゑ、あの世にて責めらるる。かの子息のもとへ返すべし」と告ぐ。夢覚めて、親の時の後見にことの子細を尋ねければ、「さること侍りき。御夢に違(たが)はず」と言ふ。「さては、不思議のことなり」とて、急ぎ員数(ゐんずう)のごとく沙汰して、かの子息のもとへ、かかる子細侍れば、かの借物沙汰し進ずるよし、申し送りけり。
かの子息の返事に申しけるは、「この物、いかでかわが身には給ふべき。あの世にて、それがしが父、責め参らせん上は、また重ねて給ふべからず」とて返しけり。また押し返し送りていはく、「この世にて、沙汰し参らせざらんにつきてこそ、あの世にては責められ参らせ候へ。親の歎きをやすめ、夢の告を違へじと思ひ侍り。まげて留め給へ」とて、またやりてけり。また言ひけるは、「親のことを重くも思ひ、いたはしくも存ずることは、誰も劣り参らすべからず。されば、あの世にて、親にこそ取らせたく思ひ候へ。ここにて、わが身に給ふべきこと候はず」とて返しけり。
たびたび問答往復して、ことゆかざりければ、鎌倉に上りて対決しけり。奉行の人々より始めて、上にも下にも、聞き及ぶたぐひ、かかるめづらしくあはれなる沙汰、いまだ聞かず。「至孝の志も深く、世間のことわりもわきまへ存ぜるにこそ」とて、讃めののしりけり。心ある人は、涙を流してぞ感じける。
さて、「件(くだん)の物をもつて、両人の亡父の菩提を弔(とぶら)ふべき」とぞ、下知せられければ、国に下りて、両人あひ合ひて、二人の亡父のために、仏事いとなみける。まことに、ありがたき賢人なり。
されば、人の物を借り置ひたらんをば、あひかまへて、怠りなく返すべきものなり。責むることなほざりなれば、とかく延びて、年月を経て、もしその主死ぬれば、無沙汰なることも世に多く見聞こゆ。一旦この世にては嬉しき心ちありとも、生を経ても、つひに返し果たすべき道理、違ふことなし。この道理をわきまへて、あひかまへて、人の物をばとく返しつぐなふべし。ゆめゆめ心あらん人、怠りを存ずべからず。
翻刻
亡父夢子告借物返事 中比武州ニサカイマチカキ程ニスミテ互ニイヒムツフル俗有ケ リ一人ハマツシク一人ハユタカナリケルサルママニ常ニ借物ナン/k6-231r
トシケリサテトモニ死去シテ後二人之子共親共ノムツヒシカ如 クイヒカヨハシケリマツシカリケルカ子夢ニ見ケルハ亡父来テヨ ニモノナケカシキ気色ニテイヒケルハソレカシトノノ物ヲイクイクラ カリテカヘササリシ故アノ世ニテセメラルル彼子息ノモトヘ返 スヘシトツク夢サメテ親ノ時ノ後見ニ事ノ子細ヲタツネケレハ サル事侍リキ御夢ニタカハストイフサテハ不思議ノ事ナリトテ イソキ員数ノ如ク沙汰シテ彼子息ノモトヘカカル子細侍レハカ ノ借物沙汰シ進スルヨシ申送ケリカノ子息ノ返事ニ申ケル ハコノ物争カ我身ニハ給ヘキアノ世ニテソレカシカ父責マイラ センウヘハ又カサネテ給ヘカラストテ返シケリ又オシカヘシヲクリ テ云ク此世ニテサタシマイラセサランニツキテコソアノ世ニテハセ メラレマイラセ候ヘ親ノナケキヲヤスメ夢ノ告ヲタカヘシト思侍/k6-231l
ヘリマケテ留メ給ヘトテ又ヤリテケリ又云ケルハ親ノ事ヲオモクモ 思イタハシクモ存スルコトハ誰モヲトリマイラスヘカラスサレハア ノ世ニテ親ニコソトラセタク思候ヘ爰ニテ我身ニ給ヘキ事候 ハストテ返シケリ度々問答往復シテ事ユカサリケレハ鎌倉ニ上 テ対決シケリ奉行ノ人々ヨリ始テ上ニモ下ニモ聞及類ヒカカ ルメツラシク哀ナル沙汰未タキカス至孝ノ志モフカク世間ノコ トハリモワキマヘ存セルニコソトテホメノノシリケリ心アル人ハ涙 ヲナカシテソ感シケルサテ件ノ物ヲ以両人ノ亡父ノ菩提ヲトフ ラフヘキトソ下知セラレケレハ国ニ下リテ両人相合テ二人ノ 亡父ノ為ニ仏事イトナミケル実ニ有カタキ賢人ナリサレハ人ノ 物ヲカリヲイタランヲハ相構テオコタリナク返スヘキ者也セムル 事ナヲサリナレハトカクノヒテ年月ヲヘテモシ其主死ヌレハ無/k6-232r
沙汰ナルコトモ世ニオホク見キコユ一旦此世ニテハウレシキ心 チ有共生ヲ経テモツヰニカヘシハタスヘキ道理タカフコトナシコノ 道理ヲワキマヘテアヒカマヘテ人ノモノヲハトクカヘシツクノフヘシ ユメユメ心アラン人ヲコタリヲ存スヘカラス/k6-232l