沙石集
巻6第9話(67) 正直の女人の事
校訂本文
近ごろ、奥州のある山寺の別当なる僧、本尊を造立せんと、年ごろ思ひ企てて、金を五十両、守(まぼり)の袋に入れて、首にかけて上洛しけるほどに、駿河の国原中の宿にて、昼、水浴びける家にて、この袋を忘れて、菊川にて思ひ出でたりけり。口惜しく、あさましかりけれども力及ばず。「今は人の物にこそなりぬらめ。帰て尋ぬともあらじ」と思ひて、上洛してむなしく下向せんも本意なく思えて、形のごとく本尊を描き奉りてぞ下りける。
さて、原中の宿にて、下人に、「この家とこそ覚ゆれ」と言ひて、見入りて通りけるを、家の内に若き女人ありて、「何ごとを仰せらるるぞ」と言ふ。「上洛の時、物を忘れたりしが、この御宿と覚え候ふことを申すなり」と言ふ。「何を御忘れ候ひける」と問ふ。その時あやしくて、馬より下りて、「しかじかの願を起こして、金を五十両入れて候ひし守袋を忘れたり」と、ありのままに語りければ、「わらはこそ見付て候へ」とて、したためたりしままにて取り出だして、取らせければ、あまりのことにて、あさましかりけり。
さて、「これは失せたるものにてこそ候へ。十両は参らせん」と言へば、「十両欲しくば、五十両ながらこそ引きこめ候はめ。仏の御物なり。いかが少しも給ふべき」と言ひければ、なかなかとかくの子細に及ばず。
「下向の時、よくよく申すべき旨(むね)あり」とて、やがてそれよりまた上洛して、本尊、思ひのごとく造立して、下りざまに、この女人を尋ねて、「そもそも、いかなる人にておはするぞ」なんど語らひ聞こえければ、「京の者にて侍るが、親しき者みな失せて、縁にふれて下りて侍るが、あからさまと思ひしほどに、この宿に一両年住み侍り」と言ふ。「さては、いづくも同じ御旅にこそ。いざさせ給へ。小所領(こじよりやう)なんど知行する身なれば、世間後見(うしろみ)てたべ」といへば、「承はりぬ」とて、やがて具せられて、下りて世間後見て、楽しく心やすくて、当時ありと聞こゆ。
上古には、かかるためしもあり。当世には、まめやかにありがたき正直の賢人なり。去んぬる文永年中のことなれば、無下に近きことなり。ある人、物語し侍りしが、随喜の心切にして、「かかるためし、人にも聞かせ、世の末までも言ひ伝へて、人の心の曲れるをもひき直す端(はし)ともせん」と思ひて、書き付け侍り。
この女人、金を引き隠したらば、非分のことなれば、盗賊にもかすめられ、よしなく失ふこともあるべし。たとひありとも、いくほどかあらん。後生はまた仏物を犯す罪深かるべし。すでに仏を作る功徳を得べし。かたがたありがたくこそ。
正直の者をば、天これを助け、幸ひを得せしめ、謟曲の者をば、冥これを罰して、災ひを与ふ。「生死の稠林(ちうりん)を出づるには、心直くして、出でやすし」と言へり。曲れる木は、稠林出でがたし。直きは出でやすきがごとくなり。
正直なれば神明も頭(かうべ)にやどり、貞廉なれば仏陀も心を照らす。現当二世、無為安楽なるべきこと、正直には過ぎず。法華1)には、「柔和質直者、則皆見我身。」と説きて、「心やはらかに直(す)ぐなる者、わが身を見るべし」と釈尊2)も説き給へり。いかにも、謟曲の心を捨て、正直の道に入るべきをや。
翻刻
沙石集巻第六 下 正直之女人事 近比奥州ノ或山寺ノ別当ナル僧本尊ヲ造立セント年来 思企テテ金ヲ五十両守ノ袋ニ入テクヒニカケテ上洛シケルホ トニ駿河ノ国原中ノ宿ニテヒル水アヒケル家ニテコノフクロヲ ワスレテ菊川ニテ思出タリケリ口惜ク浅猿カリケレトモチカラ 不及今ハ人ノ物ニコソナリヌラメ帰テタツヌトモアラシト思テ 上洛シテ空ク下向センモ本意ナク覚ヘテ如形本尊ヲカキタテ マツリテソ下リケルサテ原中ノ宿ニテ下人ニコノ家トコソ覚レ トイヒテ見入テトヲリケルヲ家ノ内ニワカキ女人アリテ何コトヲ 被仰ソトイフ上洛ノ時物ヲワスレタリシカコノ御宿トオホヘ 候事ヲ申ナリトイフナニヲ御ワスレ候ケルト問ソノ時アヤシクテ/k6-224l
馬ヨリオリテシカシカノ願ヲ起シテ金ヲ五十両入テ候シ守袋ヲ ワスレタリトアリノママニカタリケレハワラハコソミツケテ候ヘトテ シタタメタリシママニテ取出シテトラセケレハアマリノコトニテ浅猿 カリケリサテコレハウセタル物ニテコソ候ヘ十両ハマイラセントイ ヘハ十両ホシクハ五十両ナカラコソヒキコメ候ハメ仏ノ御物 也イカカ少シモ給ヘキトイヒケレハ中々トカクノ子細ニヲヨハス 下向ノ時能々申ヘキ旨有トテヤカテ其ヨリ又上洛シテ本尊 思ノ如ク造立シテクタリサマニ此女人ヲタツネテ抑イカナル人ニ テヲハスルソナントカタラヒキコヱケレハ京ノ者ニテ侍ルカ親キ者 ミナウセテ縁ニフレテ下テ侍ルカ白地ト思ヒシホトニ此宿ニ一 両年スミ侍リト云サテハイツクモ同ジ御旅ニコソイササセ給ヘ 小所領ナント知行スル身ナレハ世間ウシロミテタヘトイヘハ承/k6-225r
ヌトテヤカテ具セラレテ下テ世間ウシロミテタノシク心ヤスクテ 当時アリトキコユ上古ニハカカルタメシモアリ当世ニハマメヤカ ニアリカタキ正直ノ賢人ナリ去文永年中ノ事ナレハ無下ニ チカキ事ナリ或人物語シ侍シカ随喜ノ心切ニシテカカルタメシ 人ニモキカセ世ノスヱマテモ云伝テ人ノ心ノマカレルヲモヒキナ ヲス端トモセント思テカキツケ侍ヘリコノ女人金ヲヒキカクシタ ラハ非分ノ事ナレハ盗賊ニモカスメラレ由ナク失ナフ事モアル ベシタトヒ有トモイクホトカアラン後生ハ又仏物ヲ犯スツミフ カカルヘシステニ仏ヲツクル功徳ヲウヘシカタカタアリカタクコソ正 直ノ者ヲハ天コレヲタスケ幸ヲ得セシメ謟曲ノ者ヲハ冥是ヲ 罰シテワサハイヲアタフ生死ノ稠林ヲイツルニハ心ナヲクシテ出ヤス シト云リ曲レル木ハ稠林出カタシ直キハ出ヤスキカ如クナリ/k6-225l
正直ナレハ神明モ頭ニヤトリ貞廉ナレハ仏陀モ心ヲ照ス現 当二世無為安楽ナルヘキ事正直ニハスキス法花ニハ柔和 質直者則皆見我身ト説テ心ヤハラカニスクナル者我ガ身ヲ 見ルヘシト釈尊モ説給ヘリイカニモ謟曲ノ心ヲステ正直ノ 道ニ入ルヘキヲヤ/k6-226r