沙石集
巻6第1話(59) 説経師の強盗発心せしむる事
校訂本文
洛陽に説経師ありけり。一説には聖覚法印、一説には清水法師。某(それがし)請用して、布施物多く取りて、夜陰に入りて帰りけるを、河原にて、賊どもあまた待ちかけて、あるほどの物、みな取りてけり。
張本の男、矢うちはげて、輿の前に立ちて、物取どものばしけるほどに、この僧、思ひけるは、信心の施主、三宝に供養する志をもつて、施物をささぐ。これをもつて、仏事にも用ゐ、利益あらんことに用ふべきよし思ふに、この賊ども、よこざまにかすめ取ること、同じ盗みといひながら、ことに罪業重くして、悪道に入りなんとすること、悲しくあはれに思えて、わが難にあへることは忘れて、心を澄まし、声うち上げていはく、「何ぞ電光朝露の小時のこの身のために、阿僧祇耶長時(あそうぎやぢやうぢ)の苦因を造らん」と澄める音をもつて、両三返詠じけるを、心は知らねども、なにとなく貴く思えて、この盗人、身の毛もよだちて、矢さし外して、「これほどの難にあひ給ひて、何事を御心澄まして、かくのどかに仰せ候ふぞ。そもそも、これは何といふ心にて候ふぞ。よに心肝に染みて、尊(たつと)く覚え候ふ」と言ひければ、この僧、もとよりいみじき弁説の人なりければ、生死無常の道理より申し立てて、「一期は夢幻(ゆめまぼろし)のごとし。電光朝露に異らず。因果の道理、遁れがたく、苦楽の報を受く。三宝の物をかすめ取りて、妻子を養ひ、身命をつがんとする、凡夫の習ひといひながら愚かなり。罪なくして、世を渡るわざ多かるに、かかる大罪を作りて、大地獄に落ちて、無量劫の苦を受けんことの悲しさに、わが身のことは忘れて、かく言ふなり」と泣く泣く申されければ、この賊も、袖をしぼりて去りぬ。
さて、その次日の夕方、月代(さかやき)ある入道、この房に来たりて、ひそかに申し入れけるは、「夜部(よべ)の強盗、入道になりて参りて候ふ。夜部の御説法に発心して、同じ悪党ども、あまた入道になりて候ふ」とて、髻(もととり)ども少々持て来たれり。「ことごとしく候へば、さのみは参らず候ふ」とて、夜部取る所の布施物、みな持ちて返し奉りてけり。
これ、真実の心より、仏法の道理を言ひ立てけるゆゑに、かかる悪人も発心しけるにこそ。かへすがへすも、ありがたきことなり。
この言葉は、玄奘三蔵、天竺に渡りて、仏法を漢土へ伝へんとし給ひけるに、邪神を祭る国を過ぎ給ふに、かの国の者、三蔵を取りて、神に祀らんとす。見目形(みめかたち)、世にすぐれたる人を取りて、牲(いけにえ)にする習ひなるに、三蔵の見目形すぐれて見え給ひければ、国の者、悦びて捕へつ。仏法弘通の志を述べ給へども、もとより仏法を信ぜされば用ゐず。弟子の僧ども、師に代らんといへども、形三蔵に及ばざれは許さず。
すでに俎板(まないた)に三蔵を伏せ奉り、切り砕くべきよそほひを見て、「時のほどの暇(いとま)を得させよ。観念せん」とて、暇を得て、そのの間入定して、都率の内院へ参りて、弥勒1)を拝し給ふ。その間に、にはかに大雨・大風・震動・雷電、おびただしかりければ、「神のうけ給はぬにこそ」とて、諸人おほきに恐れをののく。三蔵、入定の間なれば、これも知り給はず。
定より立ちて、「今は、とくとく」とのたまへば、諸人、恐れ入りて、頭を叩きて、過(とが)を懺悔し、「われらを助け給へ」と申しける時、三蔵、仏法を説きて勧め給ひける言葉に、「何ぞ電光朝露の小時のこの身のため、阿僧祇耶長時の苦因を造らん。一期の身命は露のごとく、電光のごとし。永劫2)の苦因を作り、長夜の 苦果を受けんことの悲しさ、真実に妙なる仏法を信ぜずして、鬼神を崇(あが)めて、悪道に沈まんこと、愚かなり。たまたま人身を受けながら、仏法の道理わきまへざること、悲しきことなり」と、智慧深く慈悲ある三蔵なれば、いみじく説き給ひければ、国の者、みな発心して、邪神に仕ふることをやめて、仏の弟子となり、五戒を受け、三宝に帰しけり。
かかる言葉の末にて、はるかに時代隔つといへども、なほ徳用ありて、さしもつたなき強盗までも発心しけるにこそ。「弁説は無間の業を転ず」と言へり。まことなるかなや。まして、心あらん人、この言葉を聞きて、発心せざらんや。人みな仏性あり。縁にあひ、時至らば発心せんこと、かたからじ。
昔、漢土に戴淵(たいえん)といひける海賊も、若機といふ大臣の河を下るを、われは岸に立ちて、下知して、悪党どもをもつて、大臣の財物をかすめ取りけるを、器量ゆゆしく見えければ、「あはれ、いみじき器量をもて、つたなきわさを振舞ふ者かな」と大臣に言はれて、たちまちに心を改めて、悪行をやめ、このの大臣に付きて、帝王の見参に入りて、将軍の位にのぼりてけり。
人ごとに心あり。その心の、「わが身を安楽ならしめん」とのみ思へり。しかれども、今生も後生も、安楽なるべき心も、振舞ひもなきは、人の常の習ひなり。
まづ、今生の安楽は、仁儀礼智信を守りて、その身を辱め破らず、つつがなく家を保ち国を保つ。しかるに、仁義を行ふ人まれなり。身を安穏に保つことかたし。後生の安楽を思はば、道行をもつぱらにすべし。
仏法の中にも、小乗の行は、なほ十二頭陀を行じ、三生六十劫の修行久しく苦し。当来の果ありといへども、今生の因、苦しみあり。大乗の修行は、ただ心に染着なく、身に縁務少なくして、名利貪求(みやうりとんぐ)の心やみ、煩悩妄念のわづらひなく、本来安楽の性にかなひて、無為常住の道に入るべし。今生もわづらひなく、当来も安楽なるは、大乗の修行なり。たとひ、身心苦しくとも、当来安楽なるべくは、なほ行ずべし。いはんや、身心やすからんをや。
また、世間の悪業名利は、当来の苦果のみにあらず。今生も身苦しく、わづらひ多し。あながちにこれを好みなさんや。ただ業障のゆゑに捨てがたかるべし。しかるを、わが身の安楽を思ひながら、今世も後世も身を苦しむるわざ、かへすがへすも愚かなるべし。あはれなるかな。万劫に一度(ひとたび)得たる人身をいたづらに捨て、多生にまれにあへる仏法を信じ行ぜざること。しかる間、流転生死の業因は、なせどもはなせども飽き足らずしてこれを愛し、出離解脱の方便は、教ふれども教ふれども倦(ものう)くして、かつて進まず。人間怱々として、日月の過ぐるも覚えず、世事忙々として、身命のつづまるをもわきまへず、無義の戯論(けろん)に日を暮らし、無益の雑談に暇を入れて、惜むべき光隠を惜しまず、なすべき善因をなさずして、三途の旧里に帰り、八難の嶮岨に迷はんこと、慧心3)の往生要集にいはく、「麁強の煩悩、人をして覚せしむ。ただ無義の談話のみ、覚えずして、常に道を障ふ」と言へり。道人の言葉、存知すべし。
摩訶止観の中に、「世間の縁務をやむべきことを言へるには、このことなほ捨つべし」とて、学問までもやめ給へり。いはんや世間のことをや。嘉祥大師4)、同法の僧の学問をもつぱらにして、修行のおろそかなるを戒め給ひていはく、「百年命朝露非奢。須為道緩所急々所緩。豈非一生自誤耳」。文の意は、「学は行のためなり。緩なるべし。行は出離の要道なるべし。急なるべきに、さかさまに用意せんこと、まことに誤りなり」と言へり。
南山の宣律師5)のいはく、「仏教の本意は、ただ奉行の為なり。若伹文を談ずるは本意にあらざるなり」と言へり。ただし四箇の大乗なんどは、教門広ければ、学せずば解行も立ちがたし。禅門は不立文字の宗、念仏は一向専称の行。この二つは、ことに学をむねとすべからず。
しかるに、心を得ざる人、あるいは古人の言句を愛し、学して工夫をもつぱらとせず。あるいは聖道浄土を分別し、是非して、念仏の功を入れぬにや。いづれも祖師の本意にかなはずこそ侍るらめ。
西山にいにしへ、遁世門の人ありけるが申しけるは、「双紙形脇にはさみて学問するほどの浄土門の人の、臨終の良きを見ず」と言へり。ただ念仏は、学をやめて、一向信を立て、厭離穢土・欣求浄土の志(こころざし)深くして、真実の心にて、念々に捨てず、功を入るるほかの義なし。
しかるに、唯除五逆誹謗正法の文を読みながら、余教をそしり軽しめ、是非偏執あるゆゑにこそ、臨終も悪しかるらめと思え侍り。よく学し、よく行せば、学によるべからず。
圭峯禅師6)いはく、「解は通達して隔つることなかれ。行は一門によつて功を入れよ」と。これめでたき教へなり。禅源の中にこれあり。般舟讃(はんじゆさん)の文のごとく、余教余行をば、ただ随喜して謗ぜず、一行に功を入るべし。近代、浄土門の人の中に、余宗を謗ること多し。祖師の誡にそむけり。
祖師の意(こころ)は、「貪瞋7)等来しまじはらば、念を隔てず、時を隔てず、日を隔てず、懺悔すべしと釈して、一心称名のほかは余行をまじへざれ」となり。余行はただ一心専念のためにこれをさし置く。行体の悪しきにあらず。
ある学者の義には、「悪は凡夫の位なれば力及ばず。除くべからず。余善は雑業なり。これを行ずるは、念仏を軽しむる失(とが)あり」と言ひて、おほきにこれを謗る。もし、この意ならば、余善は懺悔すべし。失重きゆゑに、悪行は廻向すべし。「凡夫の位に失なし」と許すゆゑに、これおほきに仏教祖意にそむけり。
一向専修の本意は、凡夫の心、散ずるゆゑに、余事をまじへず、一行をもつぱらになさしむ。これは、行体の悪にはあらず。行人の用心乱るるゆゑなり。真言の行者も、「一尊に付きて、悉地をなせんとする時、余尊を行ずれば、余尊すなはち魔となる」と言へり。これも、諸尊の魔たるにあらず。行者の心乱るるを魔と言へり。浄土門もかくのごとし。地想観を行じて成ぜんとする時、水想観を思ひ出ださば、邪観と言はる。例するに同じ意なり。ただ一心に勤め行ひて、是非偏執あるべからず。
仏法は、おのおのの宗の教へを聞くに、かやうにこそ見え侍れ。聞かず習はぬ宗も、「さこそ尊(たつと)かるらめ」と仰ぎて信じて、「ただわが有縁の宗、わがため利益あるべし」と思ひて、道念ありて、一心に勤め行ふべきなり。わが有縁の行をも勤めずして、しかも、よろづの法を謗りては何かせん。
龍樹のいはく、「人身を受けながら道行をなさずば、禽獣と異らず。かれも五欲の楽をのみ思ふ。道を行ぜず。人として善事をなさざるは、ただ畜類に同じ」と言へり。善導和尚も、「三福分なきものは、人の皮を着たる畜生なり」と釈し給へり。よくよく祖師の教誡を信じて、道に入るべし。
仏性、もとよりこれあり。智鑑またあきらかなり。かのつたなき強盗に及ばさらんや。過(とが)を知りて、心を改むるは、かしこき人なるべし。
翻刻
沙石集巻第六 上 説経師之強盗令発心事 洛陽ニ説経師有ケリ一説ニハ聖覚法印一説ニハ清水法 師某請用シテ布施物多クトリテ夜陰ニ入テ帰ケルヲ河原ニテ 賊共アマタ待カケテ有ホトノ物皆取テケリ張本ノ男矢ウチハ ケテ輿ノ前ニ立テ物取共ノハシケルホトニ此僧思ヒケルハ信 心ノ施主三宝ニ供養スル志ヲ以テ施物ヲササク此ヲ以テ仏 事ニモモチヰ利益アラン事ニ用フヘキヨシ思ニ此賊共ヨコサマ ニカスメ取ル事同ジヌスミトイヒナカラコトニ罪業ヲモクシテ悪道 ニ入ナントスル事カナシク哀ニ覚テ我カ難ニアヘル事ハワスレテ 心ヲスマシコヱウチアケテイハク何ソ電光朝露ノ小時ノ此ノ 身ノタメニ阿僧祇耶長時ノ苦因ヲ造ラントスメル音ヲ以両/k6-206l
三返詠シケルヲ心ハシラネトモナニトナク貴ク覚ヘテコノヌス人 身ノ毛モヨタチテ矢サシハツシテコレホトノ難ニアヒ給テ何事ヲ 御心スマシテカクノトカニ仰候ソ抑此ハナニトイフ心ニテ候ソ ヨニ心肝ニソミテタツトク覚ヘ候トイヒケレハコノ僧本ヨリイミ シキ弁説ノ人也ケレハ生死無常ノ道理ヨリ申立テテ一期 ハ夢マホロシノ如シ電光朝露ニコトナラス因果ノ道理遁カタ ク苦楽ノ報ヲウク三宝ノ物ヲカスメ取テ妻子ヲヤシナヒ身命 ヲツカントスル凡夫ノ習ト云ナカラヲロカナリ罪ナクシテ世ヲワタ ルワサオホカルニカカル大罪ヲ作テ大地獄ニオチテ無量劫ノ 苦ヲ受ケン事ノカナシサニ我身ノ事ハワスレテカク云ナリト泣 泣申サレケレハ此賊モ袖ヲシホリテサリヌサテソノ次日ノ夕方 月代有ル入道コノ房ニ来テヒソカニ申入ケルハ夜部ノ強盗/k6-207r
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習也先今生ノ安楽ハ仁儀礼智信ヲ守テ其ノ身ヲハツカシ メヤフラスツツカナク家ヲタモチ国ヲタモツ然ニ仁義ヲ行フ人 希也身ヲ安穏ニタモツ事カタシ後生ノ安楽ヲ思ハハ道行ヲ 専ニスヘシ仏法ノ中ニモ小乗ノ行ハ猶十二頭陀ヲ行シ三 生六十劫ノ修行久ククルシ当来ノ果有トイヘトモ今生ノ 因苦シミアリ大乗ノ修行ハタタ心ニ染著ナク身ニ縁務スク ナクシテ名利貪求ノ心ヤミ煩悩妄念ノワツラヒナク本来安楽 ノ性ニカナヒテ無為常住ノ道ニ入ルヘシ今生モワツラヒナク 当来モ安楽ナルハ大乗ノ修行ナリタトヒ身心クルシクトモ当 来安楽ナルヘクハ猶行スヘシ況ヤ身心ヤスカランヲヤ又世間 ノ悪業名利ハ当来ノ苦果ノミニアラス今生モ身クルシクワツ ラヒ多シアナカチニ此ヲコノミナサンヤタタ業障ノ故ニステカタカ/k6-209r
ルヘシ然ヲ我身ノ安楽ヲ思ナカラ今世モ後世モ身ヲクルシム ルワサ返々モヲロカナルヘシ哀哉万劫ニ一タヒヱタル人身ヲイ タツラニステ多生ニ希ニ値ル仏法ヲ信シ行セサル事然ル間流 転生死之業因ハナセトモハナセトモアキタラスシテ是ヲ愛シ出離解脱 之方便ハヲシフレトモヲシフレトモ倦クシテカツテススマス人間 怱々トシテ日月ノスクルモ覚ヘス世事忙々トシテ身命ノツツマ ルヲモワキマヘス無義ノ戯論ニ日ヲクラシ無益ノ雑談ニ暇ヲ 入テ可惜ム光隠ヲオシマスナスヘキ善因ヲナサスシテ三途ノ旧 里ニ帰リ八難ノ嶮岨ニマヨハン事慧心往生要集云麁強ノ 煩悩人ヲシテ覚セシム只無義ノ談話ノミ覚ヘスシテ常ニ道ヲ障 トイヘリ道人ノ詞存知スヘシ摩訶止観ノ中ニ世間ノ縁務ヲ ヤムヘキ事ヲイヘルニハ是ノ事猶スツヘシトテ学問マテモヤメ給/k6-209l
ヘリ況ヤ世間ノ事ヲヤ嘉祥大師同法ノ僧ノ学問ヲ専シテ修 行ノヲロソカナルヲイマシメ給テイハク百年命朝露非奢須為 道緩所急々所緩豈非一生自誤耳文ノ意ハ学ハ行ノタメナ リ緩ナルヘシ行ハ出離ノ要道ナルヘシ急ナルヘキニサカサマニ 用意セン事誠ニアヤマリナリト云リ南山ノ宣律師ノ云仏教 ノ本意ハ只為奉行若伹談文非本意ナリト云リタタシ四 箇ノ大乗ナントハ教門ヒロケレハ学セスハ解行モ立チカタシ 禅門ハ不立文字ノ宗念仏ハ一向専称ノ行コノ二ハコトニ 学ヲムネトスヘカラス然ルニココロヲ得サル人或ハ古人ノ言句 ヲ愛シ学シテ工夫ヲ専セス或ハ聖道浄土ヲ分別シ是非シテ念 仏ノ功ヲ入レヌニヤイツレモ祖師ノ本意ニカナハスコソ侍ルラメ 西山ニ古遁世門ノ人有ケルカ申ケルハ双紙形脇ニハサミ/k6-210r
テ学問スルホトノ浄土門ノ人ノ臨終ノヨキヲミストイヘリ只念 仏ハ学ヲヤメテ一向信ヲ立テ厭離穢土欣求浄土ノ志シフ カクシテ真実ノ心ニテ念々ニステス功ヲ入ルル外ノ義ナシ然ルニ 唯除五逆誹謗正法ノ文ヲ乍読餘教ヲソシリ軽シメ是非 偏執アル故ニコソ臨終モアシカルラメト覚ヘ侍ヘリヨク学シヨク 行セハ学ニヨルヘカラス 圭峯禅師云解ハ通達シテ隔ツル事ナカレ行ハ一門ニヨツテ功 ヲ入ヨトコレ目出キヲシヘナリ禅源ノ中ニ有之般舟讃ノ文ノ コトク餘教餘行ヲハタタ随喜シテ謗セス一行ニ功ヲ入ヘシ近 代浄土門ノ人ノ中ニ餘宗ヲソシルコトオホシ祖師ノ誡ニソム ケリ祖師ノ意ハ貧瞋等来シマシハラハ念ヲ不隔テ時ヲヘタテ ス日ヲヘタテス懺悔スヘシト釈シテ一心称名ノ外ハ餘行ヲマシ/k6-210l
ヘサレトナリ餘行ハ只一心専念ノタメニ是ヲサシヲク行体ノ 悪キニアラス或ル学者ノ義ニハ悪ハ凡夫ノ位ナレハ力不及ノ ソクヘカラス餘善ハ雑業也是ヲ行スルハ念仏ヲ軽ムル失カ 有ト云テオホキニコレヲソシル若コノ意ナラハ餘善ハ懺悔スヘ シ失カ重キ故ニ悪行ハ廻向スヘシ凡夫ノ位ニ失カナシトユル ス故ニ是オホキニ仏教祖意ニソムケリ一向専修之本意ハ 凡夫ノ心散スル故ニ餘事ヲマシヘス一行ヲ専ニナサシム是ハ 行体ノ悪ニハ非ス行人ノ用心ミタルル故也真言ノ行者モ 一尊ニ付テ悉地ヲ成セントスル時餘尊ヲ行スレハ餘尊即 チ魔トナルトイヘリ是モ諸尊ノ魔タルニ非ス行者ノ心乱 ルルヲ魔トイヘリ浄土門モ如此地想観ヲ行シテ成セントスル 時水想観ヲ思出サハ邪観ト云ハル例スルニ同シ意ナリ只一/k6-211r
心ニツトメ行テ是非偏執有ルヘカラス仏法ハ各々ノ宗ノ教 ヘヲキクニカヤウニコソ見ヘ侍ヘレ聞ス習ハヌ宗モサコソタツトカ ルラメト仰テ信シテ只我カ有縁ノ宗我タメ利益アルヘシト思テ 道念有テ一心ニ勤メ行フヘキ也我有縁ノ行ヲモツトメスシテ シカモヨロツノ法ヲソシリテハ何カセン龍樹ノ云人身ヲ受ナカ ラ道行ヲナサスハ禽獣トコトナラスカレモ五欲ノ楽ヲノミ思フ 道ヲ行セス人トシテ善事ヲナササルハ只畜類ニ同シトイヘリ善 導和尚モ三福分ナキモノハ人ノ皮ヲキタル畜生ナリト釈シ給 ヘリ能々祖師ノ教誡ヲ信シテ道ニ入ヘシ仏性元ヨリ是有リ 智鍳又アキラカ也彼ツタナキ強盗ニ及ハサランヤ過ヲシリテ心 ヲアラタムルハカシコキ人ナルヘシ/k6-211l