沙石集
巻5第20話(56) 行基菩薩の歌の事
校訂本文
行基菩薩は、和泉国に降誕し、薬師いふ下女の腹に宿り給へり。心太(こころぶと)のやうにて生まれたりければ、怪しみて、鉢に入れて、門の榎のまたにさし上げて置く。乞食の沙門、かの家に望みて聞くに、鉢の中に大仏頂陀羅尼の音してければ、「この鉢の中の物、やうあるべし」とて、教へて、よく置かしむ。日ごろ経て後、美しき童子、一人出で来たる。すなはち成人して、東大寺大仏殿などの勧進聖となり給へり。
かの御誕生の所に、昔より講行(かうぎやう)なんど1)行ひて、和讃を作り誦し侍りける初めの詞(ことば)に、「薬師御前御誕生、心太2)にぞ似たりける。すりこ鉢にさし入れて、榎本にぞ置きてける」と侍るよし、ある人語りき。ことはまことに奇特不思議なれども、和讃の詞は、いとよろしからず。信心もさむる心地せり。霊仏の見目悪(わろ)きに、戸帳をかくるごとく、この和讃も箱の中に収むべきをや。
先年、かの御事、御遺誡の文見侍りしに、めでたきことども侍りき。「浄土にあらざれば、心にかなふ所なく、聖衆にあらされば、思にしたがふ伴(とも)なし。世にしたがへば、望みあるに似たり。俗に背(そむ)けば、狂人のごとし。あな憂(う)の世間や。いづれの所にか、この身を隠さん。口虎、身を害し、舌剱、命を断つ。口をして鼻のごとくしぬれば、死して後も科(とが)なし。口を守り、心を接して、身に犯すことなかれ。このごとく行なふ者、世を渡ることを得(う)」と書き給ひて、御詠にいはく、
かりそめに宿借るわれぞ今さらにものな思ひそ仏と同じ
大聖(たいしやう)の御詠なれば、深き心侍らん。まことには知りがたし。ただし、うち見る所は、凡聖の形、異なれども、有為の身命は、みな仮(かり)なり。かりそめの宿借る者は妄心、借らるる宿は幻身なり。身はこれ地水火風の四大、仮に寄り合へり。堅き所は地、濡れたる所は水、暖かなるは火、動くは風なり。このほかに身といふものなし。
されば、息絶え、魂去れば、もとの四大に帰る。妄心はまた我相人相、貪瞋痴の分別、浮雲電光のごとくして、あるに似てまことになし。境を縁じて移り、物にしたがひて転ず。われといふべきものなし。これを客塵(かくぢん)に喩ふ。無我の大我のほかにまことなし。真我は常住なり。生滅去来なし。されば、一切妄念思慮なくは、おのづから自性の仏なるべし。
経にいはく、「一切の法を念ずれば般若を念ぜず。般若を念ずれば一切の法を念ぜず。3)と言へり。また、古人のいはく、「但妄縁を離れば、如々の仏なり」と。このゆゑに、一切のことを思はずして仏となれと教へ給ふにや。凡夫、もし念を離るといはば、この理(ことわり)なけんと言ひて、妄念相続せるを凡夫といひ、一念不生なるを仏といふ。仏の御教へのみにあらず。神明もかくこそ教へ給ひぬれ。
和泉式部、夫保昌4)とかれがれ5)になりけるころ、貴布禰(きぶね)6)に籠りて、蛍の飛ぶを見て、
もの思へば沢辺(さはべ)の蛍わが身よりあくがれ出づる玉かとぞ見る
かくながめければ、御殿の中より、忍びたる御声にて、
奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかりものな思ひそ
建治二年のころ、紀州にして、八幡大菩薩の御託宣のありけるにも、「世にある人は、わが身を思ひ、妻子を思ふ。とにかくに、ものを思ふが罪にてあるなり。片時も、ものを思はぬがめでたきことにてあるなり。遁世殊勝なり」と仰せられけり。「さて、諸宗にいづれか、当世ことに利益候ふ」と問ひ申しければ、「座禅、ことに選ばれたり。われも常に座禅の心地なり」とのたまひけり。また、「われは、本地阿弥陀なり。わが本願を頼みて念仏する、この行やすくして妙なり。すべて、念仏も真言も、一心に行ずれば、必ず生死を離るべし」と教へ給ひけり。いづれの神慮も同じ御事にや。
およそ7)、三界の流転、四生の転変、ひとへに一念の妄心によりて、六塵の幻境を執するによる。夢幻虚仮(むげんこけ)の世間を、「まこと」と思ひしより、思相覚観の分別やむ時なし。過去をかへりみ、未来を思ひやり、現量に暗くして、念々に消え行く身を重くし、歩々につづまる命を守る。人間怱々(そうそう)として、冥途の近付くことをも知らず、眼前の夢の中のことをのみ営み、身の後のまことの道の粮(かて)をつつまざること、静かに思ひとくに、悲しくこそ侍れ。富貴にして、騒がしからんすらよしなし。貧賤にして、閑かなることなき世間の習ひも、まことに人間の思ひ出でなく思え侍り。
ただ、このことわりばかり思ひ知りつつ、道心にはあらで、人なみ人なみに隠遁の形になり侍りし後は、人ならぬ身は、静かに暇(いとま)ありて、心やすく日月を送り侍れば、厭(いと)はざりし昔も、今さら悔(くや)しく思え侍りしままに思ひつづけ侍り。
世の中は思ひ乱れて夏引のいとはぬほどぞ苦しかりけり
無窮の生死は、ものを思ふ心の色染めなし。寂静涅槃は、念なきところに、おのつから顕(あら)はるべし。ゆゑに、論にいはく、「有念はすなはち生死、無念は即ち泥洹(ないをん)」と言へり。まことなるかなこの言葉は。
翻刻
行基菩薩之歌事 行基菩薩ハ和泉ノ国ニ降誕シ薬師ト云下女ノ腹ニ宿リ 給ヘリ心フトノ様ニテ生タリケレハアヤシミテ鉢ニ入テ門ノ榎 ノマタニサシアケテ置ク乞食ノ沙門彼家ニ望テ聞ニ鉢ノ中ニ 大仏頂陀羅尼ノ音シテケレハ此鉢ノ中ノ物様アルヘシトテヲ シヘテヨク置シム日来ヘテ後ウツクシキ童子一人出来ル即 成人シテ東大寺大仏殿ナトノ勧進聖ト成給ヘリ彼御誕生 ノ所ニ昔ヨリ講行テント行テ和讃ヲ作リ誦シ侍ケル初ノ詞 ニ薬師御前御誕生心大キニソ似タリケルスリコ鉢ニサシ入テ 榎本ニソ置テケルト侍ルヨシアル人語リキ事ハ誠ニ寄特不 思議ナレトモ和讃ノ詞ハイトヨロシカラス信心モサムル心地セ リ霊仏ノミメワロキニ戸帳ヲカクルコトク此和讃モ箱ノ中ニ収/k5-193l
ムヘキヲヤ先年彼御事御遺誡ノ文見侍リシニ目出キ事共 侍リキ浄土ニアラサレハ心ニカナフ所ナク聖衆ニアラサレハ思 ニ随フ伴ナシ世ニ随ヘハ望アルニ似タリ俗ニ背ケハ狂人ノコト シアナウノ世間ヤイツレノ所ニカコノ身ヲカクサン口虎身ヲ害 シ舌剱命ヲタツ口ヲシテ鼻ノコトクシヌレハ死シテ後モトカナシ口 ヲ守心ヲ接シテ身ニ犯ス事ナカレ如此ヲコナフモノ世ヲ渡ル 事ヲ得ト書給テ御詠ニ云 カリソメニ宿カル我ソイマサラニモノナ思ヒソ仏トヲナシ大 聖ノ御詠ナレハ深キ心侍ランマコトニハ難知但ウチ見ル所ハ 凡聖ノ形異ナレトモ有為ノ身命ハ皆カリナリカリソメノ宿カ ルモノハ妄心カラルル宿ハ幻身也身ハ是地水火風ノ四大 カリニヨリアヘリ堅所ハ地ヌレタル所ハ水アタタカナルハ火ウコ/k5-194r
クハ風ナリコノ外ニ身ト云モノナシサレハ息タヘ魂サレハ本ノ 四大ニ帰ル妄心ハ亦我相人相貪瞋痴ノ分別浮雲電光ノ コトクシテ有ニ似テ実ニナシ境ヲ縁シテウツリ物ニ随テ転ス我ト 云ヘキ物ナシ此ヲ客塵ニ喩フ無我ノ大我ノ外ニ実ナシ真我 ハ常住也生滅去来ナシサレハ一切妄念思慮ナクハヲノツカ ラ自性ノ仏ナルヘシ経ニ云ク念一切法不念般若ヲ念スレ ハ一切ノ法ヲ念セストイヘリ亦古人ノ云ク但妄縁ヲ離レハ 如々ノ仏也ト是故ニ一切ノ事ヲ思スシテ仏トナレト教ヘ給フ ニヤ凡夫若念ヲハナルト云ハ此コトハリナケント云テ妄念相 続セルヲ凡夫トイヒ一念不生ナルヲ仏ト云仏ノ御教ノミニ アラス神明モカクコソ教ヘ給ヌレ和泉式部保昌夫トカレコレ ニナリケル比貴布禰ニ籠テ蛍ノトフヲミテ/k5-194l
物思ヘハサハヘノホタル我身ヨリアクカレ出ル玉カトソミル カクナカメケレハ御殿ノ中ヨリ忍タル御声ニテ 奥山ニタキリテオツル滝津瀬ノ玉チルハカリモノナオモヒソ 建治二年ノ比紀州ニシテ八幡大菩薩ノ御託宣ノアリケルニ モ世ニアル人ハ我身ヲ思ヒ妻子ヲ思フトニカクニ物ヲオモフカ 罪ニテアルナリ片時モ物ヲオモハヌカ目出事ニテアルナリ遁世 殊勝ナリト仰ラレケリサテ諸宗ニイツレカ当世殊ニ利益候ト 問申ケレハ坐禅事ニヱラハレタリ我モ常ニ坐禅ノ心地ナリト ノ給ヒケリ亦我ハ本地阿弥陀ナリ我カ本願ヲタノミテ念 仏スル此行ヤスクシテ妙也都テ念仏モ真言モ一心ニ行スレ ハ必生死ヲハナルヘシト教給ケリイツレノ神慮モ同シ御事ニ ヤヲソソ三界ノ流転四生ノ転変ヒトヘニ一念ノ妄心ニヨリテ/k5-195r
六塵ノ幻境ヲ執スルニヨル夢幻虚仮ノ世間ヲマコトト思シヨ リ思相覚観ノ分別止時ナシ過去ヲ顧ミ未来ヲ思ヒヤリ現 量ニクラクシテ念々ニ消行身ヲ重クシ歩々ニツツマル命ヲ守ル 人間怱々トシテ冥途ノ近付事ヲモ知ラス眼前ノ夢ノ中ノ事 ヲノミ営ミ身ノ後ノ誠ノ道ノ粮ヲツツマサル事静ニ思ヒトク ニ悲クコソ侍レ冨貴ニシテサハカシカランスラ由ナシ貧賤ニシテ閑ナ ル事ナキ世間ノ習モ実ニ人間ノ思出ナク覚ヘ侍リ唯コノコト ハリ計オモヒシリツツ道心ニハアラテ人ナミ人ナミニ隠遁ノ形ニ成 リ侍シ後ハ人ナラヌ身ハ静ニイトマアリテ心ヤスク日月ヲ送リ 侍レハイトハサリシ昔モ今更クヤシクオホエ侍シママニオモヒツツ ケ侍リ 世中ハオモヒミタレテ夏引ノイトハヌホトソクルシカリケリ/k5-195l
無窮ノ生死ハ物ヲ思心ノ色ソメナシ寂静涅槃ハ念無処ニ ヲノツカラ顕ルヘシ故ニ論ニイハク有念ハ即生死無念ハ即チ 泥洹トイヘリ誠ナルカナコノ詞ハ 沙石集巻第五下終/k5-196r