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text:shaseki:ko_shaseki05b-18

沙石集

巻5第18話(54) 哀傷の歌の事

校訂本文

和歌を綺語といへることは、よしなきことをいへるなるを、あるいは染汚の心によりて思はぬことをも言へるは、まことに過(とが)なるべし。別離哀傷の思ひ切なるにつけて、心の中の思ひをありのままに言ひ述べて、万縁を忘れ、この一事に心澄み、思ひ静かなれば、道に入る方便なるべし。

古き歌を見るに、作者の心、誠ありて思を述べたる歌は、はるかに伝へ聞きて詠ずるに、わが心も澄み侍るをや。まして、その身に当たりて、「さこそは」と思ひつづくれば、げにあはれに侍り。

昔、良少将1)、深草の天皇2)におくれ奉りて、世を遁(のが)れ、まことの道に入りて行ひけれども、かの御名残悲しくて、御はてに人々衣かぶるよし聞き、て

  皆人は花のたもとになりにけり苔の衣よ乾きだにせよ

一、和泉式部、小式部内侍におくれて、思ひ入りたりけるに、上東門院3)より年ごろ給ひける絹を、亡きあとまでもつかはしたりけるに、小式部内侍と書き付けられたりけるを見て、

  もろともに苔の下には朽ちずしてうづもれぬ名を見るぞ悲しき

一、ある人の、母におくれて、

  しばしだに忘らればこそなぐさまめ面影ばかり憂きものはなし

一、ある人、病(やまい)重りて、かぎりなりけるに、

  小篠原(をささはら)風待つ露の消えやらで子の一ふしを思ひおくかな

一、大納言為家卿4)、最愛の女(むすめ)におくれ給ひて、かの孝養の願文の奥に、

  あはれげに同じ煙(けぶり)と立ちそはで残る思ひに身をこがすかな

かの髪をもつて、梵字を縫ひて、供養の願文の奥に、

  わが涙かかれとてしもなでざりし子の黒髪を見るぞ悲しき

一、後鳥羽院5)に召し仕へて、折々の御幸、思ひ出でて悲しかりけるあまりに、隠岐へ奉りける、西恩法師。

  思ひ出づや交野の御狩り狩り暮らしかへりみなせの山の端の月

  見ればまづ涙流るるみなせ川いつより月のひとりすむらん

一、西行法師、国々修行しけるに、讃岐の院6)の御廟に参りて、昔、十善の余薫7)によりて、万機の政(まつりごと)を治め、四海の帝王として九重の台に崇められておはししに、かかる松山の苔の下にうづもれ給へること、無常転変の理(ことわり)を知るといへども、夢の心地して、あはれに覚えけるままに、

  よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん

苔の下に、かすかなる御音(こゑ)にて詠み給ひける

  浜千鳥あとは都にかよへども身はまつ山に音(ね)をのみぞ鳴く

これらの歌は、世の常に、人ごとに口に付きたれども、静かに詠ずる時、万縁ことごとく忘れ、一心やうやく静まる者をや。老子のいはく、「天一を得つれば清く、地一を得つれば安し」と。仏法に入る方便まちまちなれども、唯一を得るにあり。事(こと)には一心を得(え)、理には一性を覚(さと)る。このゆゑに、華厳8)には、「三界唯一心」と言ひ、法華9)には、「唯有一仏乗」と説き、起信10)には、「一心法界」と言ひ、天台には、「唯一実相」と談じ、毘尼(びに)には「常爾一心」と言ひ、浄土門には「一心不乱」と言ひ、宗門には、「一心不生」と言ひ、密教には、「唯一金剛」と説く。しかれば、流転生死は一理にそむきて、差別の諸法を執するにより、寂滅涅槃は万縁を捨てて、平等の一理にかなへるにあり。

しかるに、一心を得る初めの浅き方便、和歌にしくはなし。これを案ずれば、世務(せいむ)を薄くし、これを詠ずれば、名利を忘る。事に触るる観念の風の遁れがたきことを知り、朗月をながめては、煩悩の雲の覆ひやすきことをわきまふべし。仏法の中にも、まことの悟りを得ざるほどは、情量尽きず、念慮やまず。しかれば、まづ有相の方便によりて、つひに無相の実利に入る。これ諸教の大意、諸宗の軌則なり。禅家に公案を持(たも)ち、密宗に阿字を観ずる、この心なり。

西行法師、遁世の後、天台・真言の大事を伝へて侍りけるを、吉水の慈鎮和尚11)、伝ふべきよし仰られければ、「まづ、和歌を御稽古候へ。『和歌を御心得なくば、真言の大事は御心得候はじ』と申しけるゆゑに、和歌を稽古し給ひて後、伝ふべし」とのたまひけるとなん言へり。

まことに真実の仏法は、言説の外にあり。念慮の内にあらず。心閑かに、情けむなしくば、本有の霊光たちまちに照らし、自性の覚海、やうやく澄むべし。されば、高野の大師12)のたまはく、「密教の本意は、心をもつて心を伝ふ。文字はこれ瓦礫(ぐわりやく)、文字はこれ糟粕(さうはく)」と。「心を伝ふ」といふは、「人の心をわれに伝ふべし」とにはあらず。わが心、師の心と等しきを「伝ふ」と言ふ。されば、「心を伝ふ」とは読まで、「心に伝ふ」といふ義あり。

世縁俗念やみ、重昏巨散(じうこんこさん)のぞこより、静かに明らかなる心の上に、人の教へを待たずして、知らるる所あるべし。無師自悟の智とも、自然の悟りともいふはこれなり。念慮にあらず。また、念性を断たず。見聞覚知に住せず。また、見聞覚知を離れざる所は、わが心静かにして、おのづから知れぬべき時、師、すなはち指し示す。これ、仏法の秘伝、宗旨を伝ふる姿なるべし。

阿字といふは、本不生の義なり。文字を伝ふるにあらず。唯心不生なる、これ阿字なり。密宗の大意、これにあり。まことに心地に染汚なく、分別なくば、阿字を心得べし。一念不生の心、すなはち阿字なり。このゆゑに、浅き13)方便をとりよりにせんとて、和歌を勧め申しけるにや。まことに塵労の苦しき域(いき)を忘れ、解脱の妙なる境に入る方便、和歌の一道すぐれ侍り。わが国に、跡を垂れ給へる権化・先徳、昔よりもてあそび給ふことも、このゆゑにや、

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  哀傷之歌事
和歌ヲ綺語ト云ル事ハ由ナキコトヲイヘルナルヲ或ハ染汙心
ニヨリテ思ハヌ事ヲモイヘルハ実ニトカナルヘシ別離哀傷ノ思
切ナルニ付テ心ノ中ノ思ヲアリノママニ云ノヘテ万縁ヲワスレ
此一事ニ心スミ思静ナレハ道ニ入ル方便ナルヘシ古キ歌ヲ
見ルニ作者ノ心誠有テ思ヲノヘタル歌ハ遥ニ伝ヘ聞テ詠ス/k5-186l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=185&r=0&xywh=-2337%2C615%2C5375%2C3195

ルニ我心モスミ侍ヲヤマシテ其身ニ当リテサコソハト思ツツク
レハケニ哀ニ侍リ昔良小将深草ノ天皇ニヲクレ奉テ世ヲ遁
レマコトノ道ニ入テ行ナヒケレトモ彼御名残悲テ御ハテニ人
人衣カフルヨシ聞テ
  皆人ハ花ノタモトニナリニケリコケノ衣ヨカハキタニセヨ
一  和泉式部小式部ノ内侍ニヲクレテ思入タリケルニ上
東門院ヨリ年比給ケル絹ヲナキアトマテモ遣シタリケルニ小式
部ノ内侍ト書付ラレタリケルヲ見テ
  モロトモニ苔ノ下ニハ朽スシテウツモレヌ名ヲ見ルソカナシキ
一  或人ノ母ニヲクレテ
  シハシタニワスラレハコソナクサマメ面影ハカリウキモノハナシ
一  或人病オモリテ限リナリケルニ/k5-187r
  小篠原風マツ露ノキヱヤラテ子ノ一フシヲ思ヒヲクカナ
一  大納言為家卿最愛ノ女ニヲクレ給テ彼孝養ノ願
文ノ奥ニ
  アハレケニ同ケフリト立ソハテ残思ニ身ヲコカスカナ彼髪
ヲ以テ梵字ヲヌヒテ供養ノ願文ノ奥ニ
  吾泪カカレトテシモナテサリシ子ノ黒カミヲ見ルソカナシキ
一  後鳥羽院ニメシ仕ヘテオリオリノ御幸思出テ悲カリケ
ル餘リニ隠岐ヘ奉リケル西恩法師
  思出ヤカタ野ノ御カリカリクラシ帰リミナセノ山ノ端ノ月
  見レハ先ツナミタ流ルルミナセ河イツヨリ月ノ独リスムラン
一  西行法師国々修行シケルニ讃岐ノ院ノ御廟ニ参テ
昔十善ノ餘黨ニヨリテ万機ノ政ヲ収メ四海ノ帝王トシテ/k5-187l

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九重ノ臺ニ崇ラレテ御座シニカカル松山ノコケノ下ニウツモレ
給ヘル事無常転変ノコトハリヲシルトイヘトモ夢ノ心地シテ哀
ニ覚ヘケルママニ
  ヨシヤ君ムカシノ玉ノ床トテモカカラン後ハナニニカハセン
苔ノ下ニカスカナル御音ニテ詠給ケル
  浜千鳥アトハ都ニカヨヘトモ身ハマツ山ニネヲノミソ鳴
是等ノ歌ハヨノツネニ人毎ニ口ニ付タレトモ静ニ詠スル時万
縁悉ク忘レ一心漸ク静ル者ヲヤ老子ノ云天一ヲヱツレハ
清ク地一ヲ得ツレハ安ト仏法ニ入方便マチマチナレ共唯一
ヲ得ルニアリコトニハ一心ヲエ理ニハ一性ヲ覚ル此ユヘニ華
厳ニハ三界唯一心ト云法華ニハ唯有一仏乗ト説キ起信
ニハ一心法界ト云天台ニハ唯一実相ト談シ毘尼ニハ常爾/k5-188r
一心ト云浄土門ニハ一心不乱ト云宗門ニハ一心不生
ト云密教ニハ唯一金剛ト説ク然レハ流転生死ハ一理ニソ
ムキテ差別ノ諸法ヲ執スルニヨリ寂滅涅槃ハ万縁ヲステテ
平等ノ一理ニ叶ヘルニアリ然ルニ一心ヲ得ル初ノアサキ方便
和歌ニシクハナシ是ヲ案スレハ世務ヲウスクシ是ヲ詠スレハ名
利ヲワスル事ニフルル観念ノ風ノ遁レカタキコトヲシリ朗月ヲナカ
メテハ煩悩ノ雲ノ覆ヒヤスキコトヲ弁フヘシ仏法ノ中ニモ誠ノ
悟ヲヱサルホトハ情量ツキス念慮ヤマス然ハ先有相ノ方便ニ
ヨリテ終ニ無相ノ実利ニ入ル是諸教ノ大意諸宗ノ軌則
也禅家ニ公案ヲ持密宗ニ阿字ヲ観スル此心也西行法師
遁世ノ後天台真言之大事ヲ伝テ侍リケルヲ吉水ノ慈鎮/k5-188l

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和尚伝フヘキ由仰ラレケレハ先和歌ヲ御稽古候ヘ和歌ヲ
御心得ナクハ真言ノ大事ハ御心得候ハシト申ケル故ニ和
歌ヲ稽古シ給ヒテ後伝ヘシトノ給ケルトナン云リ誠ニ真実ノ
仏法ハ言説ノ外ニアリ念慮ノ内ニアラス心閑ニ情ムナシクハ
本有ノ霊光忽ニ照シ自性ノ覚海漸クスムヘシサレハ高野ノ
大師宣ク密教ノ本意ハ心ヲ以テ心ヲツタフ文字ハ是瓦礫
文字是糟粕ト心ヲ伝ト云ハ人ノ心ヲ我ニツタフヘシトニハア
ラス我心師ノ心トヒトシキヲツタフト云サレハ心ヲ伝フトハヨマ
テココロニツタフト云義アリ世縁俗念ヤミ重昏巨散ノソコヨリ
静ニ明ナル心ノ上ニ人ノ教ヘヲ待スシテシラルル所有ヘシ無
師自悟ノ智トモ自然ノサトリトモ云ハ是ナリ念慮ニアラス又
念性ヲタタス見聞覚知ニ住セス又見聞覚知ヲ離レサル所ハ/k5-189r
我心静ニシテヲノツカラ知レヌヘキ時師即サシ示ス是仏法ノ
秘伝宗旨ヲ伝ルスカタナルヘシ阿字ト云ハ本不生ノ義也
文字ヲ伝ルニアラス唯心不生ナルコレ阿字ナリ密宗ノ大意
是ニアリ誠ニ心地ニ染汙ナク分別ナクハ阿字ヲ心得ヘシ一
念不生ノ心即阿字也此故ニサキ方便ヲトリヨリニセントテ
和歌ヲススメ申ケルニヤ誠ニ塵労ノ苦キイキヲ忘レ解脱ノ妙
ナル境ニ入ル方便和歌ノ一道勝レ侍リ我国ニ跡ヲタレ給ヘ
ル権化先徳昔ヨリ翫ヒ給事モ此故ニヤ/k5-189l

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1)
良峯宗貞・僧正遍昭。『大和物語』168『今昔物語集』19ー1『十訓抄』6-8参照。
2)
仁明天皇
3)
藤原彰子
4)
藤原為家
5)
後鳥羽天皇
6)
崇徳天皇
7)
「余薫」は底本「餘黨」。諸本により訂正。
8)
華厳経
9)
法華経
10)
大乗起信論
11)
慈円
12)
空海
13)
「浅き」は底本「サキ」。諸本により補う。
text/shaseki/ko_shaseki05b-18.txt · 最終更新: 2018/12/21 23:10 by Satoshi Nakagawa