沙石集
巻4第1話(29) 無言上人の事
校訂本文
ある山寺に四人の上人ありけり。真如の離言(りごん)を観じ、浄名(じやうみやう)の杜口(とく)を学ばんとや思ひけん、契りを結びて、道場を荘厳し、万縁をやめ、三業をしづめて、道場に入り、四人、座を並べ、七日の無言を始む。承仕(じようじ)一人ぞ出入(しゆつにふ)しける。
ここに更(かう)たけ、夜更けて、灯の消えんとするを見て、下座の僧、「承仕、火かきあげよ」と言ふ。並びの座の僧、「無言道場にもの申すやう候はず」と言ふ。第二座の僧、二人ともにもの言ふこと、あまりに心地悪しく思えて、「ものに狂はしたふな」と言ふ。上座の老僧、やうは変れども、面々にもの言ふこと、あさましくもどかしく思え、「法師ばかりぞ、ものは申さぬ」と言ひて、うちうなづきける。かしこげにて、ことにをこがましくこそ思ゆれ。
このことを思ひとけば、人ごとにこの風情遁れがたし。世間の人の上を言ふを聞けば、その人はよしなく人を謗(そし)り、また、そのことを好み愛して、過(とが)を忘れ、「放逸なり」なんど言ふが、われ、人を謗り、また愛し好みて、過を忘れたることをば悟らぬにこそ。されば 、書にいはく、「人を毀(そし)りては、おのれが過を思ひ、人を危ぶめては、おのれが落ちんことを思へ」と言へり。
楽天1)のいはく、「人に皆一癖あり2)。わが癖章句にあり」と言ひて、世間の事、万縁を捨てて、仏道に入りて後も、文章を好み、愛する癖の捨てがたきことを言へるなり。
人ごとに、心の中にも、身の業にも、愛し好みて、捨てがたく、忘れがたきことあり。これを癖といふ。仏法の談には、「習因習果」と言ひて、先(さき)を習因と言ひ、後(のち)を習果と言ふ。無始よりし慣れたることの、人の教えを待たず、思はれせらるるを習と言ふなり。仏道に入らん人、この事をわきまへて、流転の業たらん習を捨てて、解脱の門に赴くべき習を好むべし。
しかるに、人ごとに、わが好むことには失を忘れて愛し、わが受けぬことには失を求めて謗る。然れば、わが好まんことには失ありて、人の謗らんことをかへりみて、固く執すべからず。わが受けぬことには、得のあることを考へて、あながちに謗るべからず。これ、達人の意(こころ)もちなるべし。たとひ軽重浅深はあるとも、物ごとに得失ならざることなし。功徳天・黒闇天、時として離れず。これ天然のことわりなり。
このゆゑに、江(かう)はよく船を渡し、また船を覆(くつがへ)す。君はよく民を恵み、また民を煩はす。水火等の人を益し、また人を損ずること、なずらへて心得べし。仏法の妙(たへ)なるなり。信ずれば益大きに、謗ずれは罪大きなり。まして、世間のこと、何物か得失並ばざらん。しかも、失は多く得は少なし。仏法は、失は少なく、得は多し。世間の失多きことを捨てて、仏法の謗ずる、なほ縁となりて、得多きなる道に入るべし。
しかるに、世間のことは、無始より慣れ来たりて、好み愛する人多し。仏法は始めて会へるにこそ。愛し学ぶ人まれなり。悲しきかな。
ある入道、囲碁を好みて、冬の夜、終夜(よもすがら)打ち明かす。中風の気ありて、手冷ゆるゆゑに、土器(かはらけ)にて石を炒りて打つ。油尽くれば、萩を焚きて打つに、灰、身にかかれば、笠うち着て打ち明かすよし、近きほどにて聞き侍りき。座禅・修行なんど、これほどにせん人、悟道かたからじ。
また、ある下手法師、酒を愛するありき。直(あたひ)も無きままに、一衣の片袖を解きて、買ひて飲みけり。これほどに三宝をも供養し、父母にも孝養し、悲田にも施し、惜しむ心なくば、感応むなしからん。物の無きと言ひて、善事を行ぜぬは、物の無きにはあらず。ただ志の無きなり。
ある入道、餅を好む。医師なるゆゑに、請じて、主(あるじ)、餅をせさするに、かの音を聞きて、始めは小音に、「おうおう」と言ふほどに、次第に高く「をうをう」と、鞠(まり)なんど乞ふやうにをめきて、果ては畳のへりにつかみ付きて、「入道が聞かぬ所にてこそし候へけれ。かのつく音を聞き候へば、耐へがたく候ふ」とて、もだへこがれけり。このことは、かの主の物語なり。仏法を愛し、仏の音声(おんじやう)に歓喜の心深からん人3)、得果疑ひなからん。これほどのことはまれなれども、人ごとに愛することあり。
せめて物愛しせぬ者は、あるいは昼寝を愛し、あるいはいたづらなるを愛す。南都のある寺の僧、朝の粥を食はずして、日高(たく)るまで眠る。「いかに、粥は召さぬ4)」と人問へば、「粥よりも寝たるは、はるかに味よきなり」と答へけり。これほどに法喜禅悦の食を愛せば、仏道遠からじ。
かくのごとく、あるいは詩歌管絃に好き、あるいは博奕・田猟を好み、色欲にふけり、酒宴を愛する人、これによりて財宝の費(つひえ)、身命の滅び、病のおこり、禍(わざはひ)の来たらんことを忘る。
世間のこと、好む所異るがごとし。仏道に入り因縁も、人によりて、その愛楽(あいげう)し、信解(しんげ)する法門異り。このゆゑに、仏、万機を漏らさず、方便を施して、八万四千の法門を説き給へり。かの酒を愛し、碁を好むがごとく、仏法を愛楽し、修行せば、道を悟らんことやすかるべし。
しかるに、世間のことは、無始より慣れて、おのづから好み、任運(にんうん)になしやすし。仏法は始めて習ひ学するゆゑに、信をいたし功を入ることかたし。まれに学する人も、ただ偏執の心あれども、薫修(くんじゆ)の功薄し。これ、我相(がさう)深くして、嫉妬の心をさしはさむゆゑなり。すべからく、是非偏執をやめて、修行を専(もはら)にすべし。わが有縁の法をのみ執して、ほかの有縁の法を毀(そし)ること、また愚かなる意(こころ)なり。
近ごろ、三論5)の明匠と聞こえし上人、ある僧に語りていはく、「宗ごとに、『わが宗勝れたり、勝れたり』と偏執するに、わが三論宗ばかりぞ、その偏執なき」と言へり。この言、やがて偏執なり。余宗は偏執あり、劣なり。わが宗は偏執なし、勝(すぐ)れたり」とす。まことの偏執なり。無言道場に、「もの申すやう候はず」と言へるがごとし。
おほかたは、宗ごとに宗旨を同ずる談これあり。下にあらあらこれを引く。三論の師も、「法相6)は三を執し、天台7)は一を執す。わが宗は、三にあらず、一にあらず」と言へり。これ偏執に似たり。智者もなほこの心をわきまへずして、是非の過(とが)遁れず。まして、わづかに一宗の法門の片端(かたはし)聞きたる人は、余宗の談をば知らずして、ただおして下し謗る。謗法の過(とが)遁れがたし。観心の法門に立ち入りては、ことに差別(しやべつ)の義門を忘れて、平等の心地(しんぢ)に相応する解行(げぎやう)、用心の肝要なり。
無言の上人が「無言なり」と言へば有言なるがごとく、一念不生、前後際断8)、修行の法門の肝心なれども、もし心をおこして不生と知らば、かへりて有生(うしやう)なり。一念無念といへるも、念をおこして無念と思はば、またこれ有念なり。このこと、観行者の用意すべき法門なり。
円覚経9)の中に、観心の用意分明なる文あり。四人の上人が風情をもつて譬へとして心得べし。「居一切時不起妄念。(一切時に居して妄念を起さず)」と言ふは、無言の道場には言語あるべからずと用意するがごとし。もし妄念を起こすは、「火かきあげよ」と言ふがごとし。「於請妄心又不息滅。10)(諸の妄心於て息滅せず)」と言ふは、妄心もとより虚なり。体性寂滅せるゆゑに、これ滅すべきにもあらず。霊光はまた消つべきにあらず。「滅せん」と思ふ念、すなはし妄分別なり。
このゆゑに、「弊起こるはこれ病、つがざるはこれ薬」とも言ひ、「念起こらば覚せよ。これを覚すればすなはち無なり」とも言へり。「前念はこれ凡、後念はこれ仏」とも言へり。また、「妄心しばしば起こる。真心いよいよ明鏡なり」とも言ひて、ただ本分に暗からずして、妄念に目をかけざれば、おのづから本心明々なり。猪金山をすり、薪火を増すがごとし。
しかるに、念を起こして滅せんとするは、無言道場に、「物申すやう候はず」と言ふがごとし。「住妄想境不加了知。(妄想の境に住して了知を加へず)」と言ふは、万境に向ひて現量無分別ならば、道に相応すべし。「六塵不悪、還同正覚。(六塵悪しからず還りて正覚に同じうす)と言へり。
しかるに、知見をおこし、この量におちて、分別計度(けたく)し、能所取捨忘れざるは、「狂はしたふな」と言ふがごとし。「於無了知不弁真実。(無了知に於て真実を弁ぜず)」と言ふは、無分別にも住すべからず。所住なき、これ真実の所なり。これを無住の心体と言ふ。所住あるは本分にそむく。知もなく得もなくは、一念相応し霊知現前すべし。もし、無分別の所を執し、真実の相と思はば、これ妄執なり。上座の僧が、ただ無言ならば咎(とが)あるまじきに、「われ無言なり」と思ひて、「法師ばかりぞものは申さぬ」と言ふがごとし。この心、法門修行の肝要、学者の亀鏡なり。もつとも用意すべし。
そもそも、法相・三論は中天11)より始まりて、護法・清辨、唯識・唯境の争ひ堅くして、門徒宗を分かてることを、天台12)、釈していはく、「天親龍樹、内鑒冷然、外適時機、各拠一門。(天親龍樹は、内鑒冷然なれども、外時機に適(かな)ひて、おのおの一門に拠る。)」と言へり。法相の祖師天親、三論の祖師龍樹、内証はみな真如の一理を通達し、外用(げゆう)の時機を引入(いんにふ)する方便、あるいは唯識無境と言ひ、あるいは唯境無識と言ふ。有門・空門、時にしたがひて定まれる准なし。しかるに、末学、仏法の源底に暗くして、是非偏執の過(とが)をいたすよしを釈し給へり。
およそ、仏法の大綱は、「法体不分、義門得別(法体は分かたず、義門は別つを得)」と言ひて、一心の妙体は諸教不二なり。義門の差別は、諸宗暫く分かれたり。法相にも、安立諦(あんりふたい)の時は、義門を立てて浅深(せんじん)を論ず。非安立諦、廃詮談旨の時は、義理隔てなし。三論の師も、「諸大乗経、顕道無二」と言へり。天台の内鑒冷然の御釈に、その意、見えたり。華厳の師も、「色即是空なれば清弁の義立ち、空即是色なれば護法の宗成す」と言へり。ともに許して嫌ふ所なし。
義門の差別の時は、華厳は五教を立て、法相・三論をは始教終教と下し、天台は四教を立て、法相を別教に摂す。法相は一乗方便三乗真実と言ひ、三論の師は、「法相は三を執し、天台は一を執す。われは非三非一」と言ひて、余宗をそしる。これ機を引入する方便なり。実証の所を隔つるにあらじ。
諸宗の論は、一往他宗の劣なる所を見て、わが家の勝れたる義をもつてそしる。相撲をとるに、「わが強き所をもつて、人の弱き所に当る」と言ふがごとし。ただ、有縁の機に、信心を深くせんためなり。「謗法せよ」とにはあらじ。
求那跋摩三蔵(ぐなばつまさんざう)のいはく、「諸論各異端、修行理無二。偏執有是非、達者無違諍云々。(諸論おのおの異端なれども、修行の理無二なり。偏執是非有り、達者違諍なしと云々)」。まことに偏執是非は仏祖の意にかなふべからず。また、万機の入路をふさぐにな る。法相・三論の義門を言はば、心の外(ほか)に境なければ、唯識と言ふ。境の外に心なければ、唯境と言ふ。
このゆゑに華厳経にいはく、「如の外の智の如を証するなく、智の外の如の智を発するなきなり」と。如は境、智は心なれば、三論は唯境と言ひ、法相は唯識と言ふ。ともに仏意にかなふべし。五百の比丘、身因を説きしこと、おのおの別なれども、仏猶正説と許し給ふ。四箇の大乗の法性を談ぜん、いかでか仏意にそむかん。実際は、源の一つなることを達して、方便は流れの異なるを隔つることなかれ。諸宗根本の師、みなこの意なるべし。
ある遁世の尼公二人、大津を過ぐるに、道の辺(ほとり)に車の輪の一つあるを見て、一人がいはく、「この車は、大乗誹謗の者にこそ。片輪のある」と言ふ。今一人がいはく、「大乗誹謗せぬ者なり。片輪の無き」と言ふ。
また、洛陽に弁阿といふ相人ありけり。片足の短くして、腰を引きけるが、弟子にあひて、「まことにや、世間に辨阿を片足の短きとて、人の笑ふなる」と言へば、「思ひもより候はず。『あやまて、片方して、御足をば長くおはする』とこそ、人は申し候へ」と答ふ。
かくのごとく、世間のことわりも、言葉異なれども、道理違はず。有無の言葉変れども、車の一輪動かず。長短のそしり異なれども、弁阿が身もとのごとし。有宗・空宗、唯識・唯境、義門異なれども、法体これ同じかるべし13)。
このゆゑに、護法・清弁・門徒、あひともに問答あるべかりけるに、清弁いはく、「なんぢは唯識といへるに違ふとて、しばらく唯境と言ふ。まことには、唯識にもあらず、唯境にもあらず。弥勒の成仏の時、このこと証明として決すべし。当時は菩薩なれば用ゐず」とて、岩の中 に入りて、岩を閉ぢて入定すと言へり。
これは、一法性の中に寂照の徳あり。寂は境なり、如なり。照は智なり心なり。明鏡の銅と明とのごとく、一水の照と潤とのごとし。しかれば、明に鏡を摂するは、唯識無境のごとし。銅に明を摂するは、唯境無識のごとし。これ二義なるべし。偏執すべからず。華厳経の文証明(んしやうみやう)なるべし。
如のほかに智なきは三論の法門、智のほかに如なきは法相の法門なり。法相にも、「空為門故入於真性。(空を門とする故に真性に入る)」と言ひて、空(くう)と言ひ有(う)と言ふ、みな方便の門なり。実には、一心法界非有非空なり。有執をやらんとして空と言ひ、空見をのぞかんとして有と言ふ。一心の妙理、有と言ふべきものもなく、空と執すべき相もなし。心言(しんごん)路たえたり。義理なん所存せん。諸宗の差別、これになずらへて意を得べし。
また、戒定恵の三学、真実の体は無二なり。京兆の興善寺の惟寛禅師は、馬祖14)の弟子なり。白居易、問ひていはく、「すでに禅師といふ。何ぞ法を説く」。問(もん)の意は、禅は不立文字(ふりうもんじ)の宗なり。心にありて言にあらず。法を教師の談ずる所と思へり。禅師、答へていはく、「無上菩提を身にかぶらしむるを戒と言ひ、口に説くを法と言ひ、心に行するを禅と言ふ。応用は三つあれども、その体は不二なり。譬へば、江河淮漢の在所に名を立つること異なれども、水体は無二なるがごとし。戒、すなはち法、法、禅を離れず。何ぞ分別を生ずる」と言へり。
圭峰の宗密禅師15)も、「禅は仏の意、教(けう)は仏の言、諸仏は心口相応す」と言ひて、三宗三教の和合のこと、宗鏡録第三十四巻半分以下これあり。また、圭峰の禅源諸詮の中にこれあり。上巻の終なり。道人、もつともこれを見給ふべし。
およそ、戒定慧の三学、方便の位には異なれども、真実の体を論ずれば、全く一つなり。戒罪人の三つを分かちて、犯不犯の品を立つるは世間の戒なり。たとひ持するも、有漏の果報を受く。ただ定を発する方便なり。体は欲界の下業なり。このゆゑに、南山律師16)、釈し給はく、「執則障道、是世善法。違則障道、不免三途云々。(執すれば則ち道を障ふ。これ世の善法なり。違すれば則ち道を障ふ。三途を免れずと云々)」。持するなほし道を障(さ)ふ。戒相を執するゆゑに。犯(ぼん)ずれば、またいよいよ道に遠し。三途に入るがゆゑに。これすなはち、世間の戒なり。
このゆゑに、法句経には、「戒相如虚空、持者為迷倒云々。(戒相は虚空の如し、持する者を迷倒とすと云々)」。大品経には、「以不護円満浄戒波羅蜜。犯不犯相不可得故。(不護を以て浄戒波羅蜜を円満す。犯不犯の相得べからざるが故に」と云々。梵網経には「自性清浄体金剛宝戒。(自性清浄の体を金剛宝戒)」と言へり。天台の祖師、これを意得て、「有部の戒体の色を克体して、性無作仮色」と釈し給へり。これは、色香中道(しきかうちうだう)の意、法住法位の理(ことわり)なり。
これを出世の戒と言へり。分別を生ずるを犯戒とす。これゆゑに、文殊問経の意は、出世の戒なり。これ、地上戒なるゆゑに、分別を波羅夷と制す。戒は位深ければ制細やかなり。環(くわん)の声を聞きて、是男是女(ぜなんぜによ)の分別をなすを、第三の波羅夷と言へり。真実には、無相の妙体、自性の尸羅(しら)なり。真言教にも、無相の菩提を無為の戒と言へり。定(ぢやう)も世間有漏(せけんうろ)の定は、慮を息(や)め心を凝らして、智慧を生ずる方便とす。風中の灯の光なきごとく、散心の智慧は理(ことわり)を照らす光なし。
また、ただ定にして智なきは、色無色の天に生ずといへども、果報尽きぬれば下界に落つ。真実の定は、首楞厳定(しゆれうごんぢやう)とも、王三昧(わうざんまい)とも、自性禅(じしやうぜん)とも言へり。円覚には禅那と言ふ。定慧相応の名なり。動を止めて止(し)に帰するは、止もいよいよ動すと言へり。このゆゑに、大定は出入なく事理なし。動静一致にして、法性を全くす。これ中道の妙定なり。
智慧も方便の位は、㨂択籌量(けんぢやくちうりやう)17)し、思想監察す。世間の智なり。断惑の力なし。正智にあらず。正智は必ず無念無分別なり。このゆゑに、大智無分別とも言ひ、般若無知とも言へり。無縁の智をもつて無相の境を縁するゆゑなり。観照般若、真実の智恵なり。
然れば、一心の上の三の義、三学の法門なり。一心不動一念不生なれば、自然に三学六度の法門を具足すべし。かるがゆゑに、法華三昧経にいはく、「空心不動、具足六波羅蜜云々。(心を空して動ぜざれば、六波羅蜜を具足すと云々」。まことに、無相清浄の所には、慳貪(けんどん)・犯戒(ぼんかい)・瞋恚(しんゐ)・懈怠(けだい)・散乱(さんらん)・愚痴(ぐち)の相跡(さうしやく)なし。この六弊なきところに、三学六度の名を立するなり。
然れば、戒定慧の源一なる道理を達して、方便の義門、しばらく異なるを是非することなかれ。是則仏法の大綱を心得る姿なり。かの禅師の答の意、諸宗の旨を達せるにや。上古の先達は、かくのごとく隔つることなし。末代は、顕密・禅教・聖道・浄土、是非諍論、世間に多く聞こゆ。
像法決凝経にいはく、「像法の時は、我はこれ律師、禅師、法師と言ひて、三学互ひに謗りて、地獄に入ること矢を射るがごとくならん」と言へり。末法に入りては、いよいよ盛りなり。如来の金言、なじかは違ふべき。悲しきかなや。
百喩経にいはく、「一人の師、二人の弟子をもて、二つの足を当てて、時にしたがひてなでさす。大小の弟子、中悪しくして、互ひにおのおのが当るところの師の足を打ち折る」。これは、末代に大乗の学者は小乗を嫌ひ、小乗の学者は大乗を妬(そね)みて、大聖の教法を二途ともに失ふべきにたとふ。近代の学者、年にしたがふに、偏執我相深くして、聖法の滅せむことを思はざるかな。悲しむべし、悲しむべし。
それ戒律は釈子の威儀、毘尼は仏法の寿命なり。正法を興隆する軌則(きそく)、みな律蔵の中より出でたり。諸宗の妙解の後、妙行を立つるには、必ず威儀による。勝鬘18)・智論19)の意によるに、「毘尼は大乗の学」と言へり。また、涅槃20)の扶律顕常、法華21)の安楽行品、専ら戒律の門をもて、大乗の修行をはげむ22)。これ開会の意、決了の談なり。
天台の止観の修行、律儀を方便とし給へり。荊渓23)、釈していはく、「戒に大小無し。受者の心期に依る」と云云。また西天の付法蔵の祖師24)、三学ならびに弘通(ぐづう)す。迦葉尊者、霊山にして拈花微咲(ねんげみせう)の時、すでに正法眼蔵、涅槃妙心を伝ふ。経律もし益なくは、必ずしも結集(けつじふ)すべからず。三蔵の法門を結集して、遐代(かだい)に伝ふること、根本迦葉の初祖なり。
如来入滅の時、「荼毘は人中天上の福を願はん者にこれを譲りて、われらは三蔵の教法を結集して、仏の恩徳を報すべし」とて銅の捷稚(かんち)を打ちて、一閻浮提の有智高徳の羅漢一千人をもて、畢波羅窟(ひつはらくつ)にして、律は優婆梨(うばり)誦し、経は阿難(あなん)誦して結集すること、専ら迦葉上座として、これを行ず。智論の第一巻にこれあり。
しかるを、近代の禅門の人の中に、まま教門を軽くす。祖師の心にそむくにや。仏祖の誡しむる所は、ただ文字の執心なり。しかるに、教門の助観の功あることをば遮(しや)せず。指を執して月を忘れ、文(もん)に著して理(ことわり)に暗きことを嫌ふ。指の月を見るはしとなり、教への道を悟る縁たることを嫌はず。かくのことくならば、教門に過(とが)なし。ただ、学者の意を得ざることを誡しむ。
しかるに、禅教の学者、毘尼を小乗と下して、律師をば「愚痴なり」とて、禽獣のごとく思へり。律師はまた「大乗の学者は因果をわきまへず。律制にかかはらず」とて、ひとへに外道のごとく思へり。かかるままに、互ひに謗り下して、仏法を滅せんとす。人を謗るは、法を謗るになる。
法、みづからあらはれず。人の弘通による。人法一体にして、利益まことに大なるゆゑに、失を求むれば、いづれの学者にもこれあり。徳を考ふれば、またいづれの行人にも得益むなしからず。
南山大師25)、大乗の学者の道を達せず、意を得ずして、ただ言をのみ学するをば、「学語の輩」とて、経文を引きて誡しめ給ふことあり。一代の化儀、大小異なれども、七衆を分かつことはみな小乗の軌則に任す。髪を剃り、衣を染め、寺舎を建て、仏事を行ずる作法、多くは律儀による。大乗は心を達するをもととす。形服(ぎやうふく)にかかはらず。しかれば、華厳の知識、あるいは夜叉、あるいは女人これあり。もし釈子の数に入り、比丘の形とならば、戒をもつてもととすべし。
しかるに、仏事を行じて利養をうけんとては、「われは仏子なり。これを行ずべし」と言ひ、戒を守(まぼ)り、非を正す時は、「われはこれ大乗なり。小戒によらじ」と言ふ。仏蔵経に、これを「鳥鼠比丘(てうそびく)」と言へり。蝙蝠の鳥の数に入れんとすれば、「われは土に住むなり」とて穴に入り、土の中の役を遁(のが)れんとては、「われは空にこそ住め」とて飛び出づ。まことには、鳥にもあらず獣にもあらず。その身臭くして、黒闇を願ふ。これを破戒の比丘の、王者の公役(くやく)を遁れんとては、「われは仏弟子、比丘なり」と言ひ、戒を守らずして、「われはこれ大乗なり」と言ひて、自恣・布薩等の如法の比丘にはつらならず。その身不浄にして、罪闇の中にあるに喩ふ。末代の比丘、この過(とが)遁れがたし。恥しかるべきことかな。
この戒めによりて、おのづから大乗の解行(げきやう)まことありて、乗急戒緩の行人も、ままにあることをもわきまへず、おしなべて謗り、大乗の信解広大の益あることを知らざるも、いふかひなく愚かなり。されば、大智律師26)も、「大乗の学者を学語の輩と釈する下には、今の時は律師もただ学律の者なり」とて、如法の持律はすたれたるよし、釈し給へり。あながちに余宗の学者を非(ひ)すべからず。わが宗の学者の如法ならんことを思ふべし。
また、禅門の学者、教へを学し、律を学する人をば、一向に軽慢(きやうまん)し、拙きことに思へり。しかるに、律僧の中にも、外には律儀を学して、小学を執するに似たれども、大乗の行門を本意として、有縁の宗々を行ずることあり。おさへて小乗の学者と思へる。これまたみだりなり。まことに執則障道(しふそくしやうだう)の行人もあるべし。善悪の根性浅深(こんじやうせんじん)の機根は、いづれの宗にもあひ交れり。ひとへに一宗の学者を非すべからず。
「牛羊の眼をもつて、他人を評量(ひやうりやう)することなかれ」と言へり。いづれの宗の学者も、互ひに是非することよしなくこそ。このゆゑに、大智論にいはく、「自法愛楽故、毀呰他人法、雖持戒浄人、不免堕悪道(自法愛楽の故に、他人の法を毀呰す、雖戒浄を持つ人といへども、悪道に堕つるを免れず)」と云々。
およそ仏法の大綱は、「諸悪莫作(しよあくまくさ)、衆善奉行(しゆぜんぶぎやう)、自浄其意(じじやうこい)、是諸仏教(ぜしよぶつけう)」と言へり。大小乗の学者、これにそむくべからず。七仏の通戒なり。誰かあへて異義を存せん。諸悪莫作は戒(かい)、衆善奉行は定(ぢやう)、自浄其意は慧(ゑ)と釈せり。しかれば、戒は賊を捕へ、定は賊を縛り、慧は賊を殺す。
三学斉(ひと)しく修すべきなれども、時代下り、機根弱くして、宿種に任せ、意楽(いげう)に従ひて、あるいは戒儀をたもち、あるいは心地(しんぢ)を守らんを、互ひに謗るべからず。戒律の行相を学せんとすれば、心地の修行にうとく、禅門の工夫を専らにせんとすれば、毘尼の制門に暗きこと、末代を悲しみ、劣機を恨むべし。誰の心あらん人か、如来の正法輪を謗(ばう)じて、無間の業をまねかんや。かへすがへす慎しむべし、慎しむべし。無言の上人が物語は、一旦をかしけれども、その咎(とが)なし。当世の謗法、その罪大なる者かな。
聖道浄土の是非、また世に盛りなり。念仏の行者、真言・止観等を雑行(ざふぎやう)と謗り、真言・法華を弘通する人は、念仏をいやしく思へり。これまた、如来の方便を失し、祖師の教誡にそむけり。
浄土門の人、余行を謗すべからざることは、本願の文に、「只除五逆誹謗正法」と説き、善導和尚の般舟讃の序には、「釈迦はこれ父母なり。われらがために種々の方便の門を説き給ふ。もし教によりて行ぜば、門々仏を見、浄土に生ずべし。もし人の善を行ぜんを見ては、これを助け、悟りあらんを聞きては、これを喜べ。何の意ぞしかりとならば、同じく仏をもつて師とし、法をもつて母とす。生養(しやうやう)ともに同じく、情親外(じやうしんぐわい)にあらず。他の有縁の行を謗り、みづからが有縁の法を讃(ほ)めば、諸仏の法眼(ほふげん)を破る。法眼すでに滅せば、菩提の道、足を踏むによしなし。浄土の門、何ぞよく入ることを得ん。生盲(しやうまう)、業(ごう)にまかせて走り、深坑(じんきやう)に落ちむ。この貪瞋(とんじん)の火をほしいままにせば、みづからを損し、他を損し、長く無明の海に沈みて、木に会ふによしなし」と釈し給へり。
祖師の御誡(ごかい)にそむきて、余行余宗を謗ること、まことに心得がたし。法華を弘通する人の中に、また念仏を謗ることあり。これまた天台大師27)の御意にそむけり。法華の修行は、止観の四種三昧を出でず。常行三昧は九十日、口に弥陀の名号を唱(とな)へ、意(こころ)に弥陀の身心を観ず。あるいは、まづ唱へて後に念じ、あるいは、まづ念じて後に唱ふ。あるいは、唱念ともに運ぶ。「歩々(ぶぶ)、声々(しやうしやう)、念々(ねんねん)、みな阿弥陀に在り」と釈せり。あるいは、「與称十方仏、功徳正等。(十方の仏を称すると、功徳正に等し)」とも釈して、弥陀一仏を唱ふるは、十方の仏を唱ふと同じと見えたり。
荊渓28)は、「諸教所讃多在弥陀。(諸教に讃むる所多く弥陀に在り。)」と釈して、「一代の教に弥陀を讃むること多し」とのたまへり。いはんや法華の妙体は、空(くう)・仮(げ)・中(ちう)の三諦をもつて規模とす。因縁所生の法、無自性のゆゑに縁をかる。縁もまた性なきゆゑに空なり。空なりといへども、因縁和合すれば、十界の依正(えしやう)暦然(れきねん)として、互具融通(ごぐゆづう)せるは仮なり。
この空仮、まことには心実相の中道なり。銅鏡の明々たる徳ありといへども、取るべからざるは空のごとし。影像暦然として浮ぶは仮のごとし。明も像も鏡の徳なれば、鏡の外になし。空仮ともに中道の徳なるがごとし。
この三諦のことわり、衆生の一念の心にある時は、「在纏真如(ざいてんしんによ)」とも「如来蔵理」とも言へり。蓮の水にあるがごとし。諸仏の果位にあては、法身と名づけ、菩提涅槃とも言へり。月の雲を出でたるに似たり。
この三諦を悟り、三徳を備へ給へる弥陀なれば、名号の阿弥陀は天竺の梵語、漢には無量寿と言ふ。阿は無、空の義、般若の徳なり。弥は量、仮の義、解脱の徳なり。陀は寿、中道の義、法身常住の寿命なり。また法報応の三身、仏法僧の三宝、かくのごとくの恒沙の徳、三字の中に具せり。この三諦三身、われらが一念の心中にある時は、「本性の弥陀」とも、「自性清浄の蓮」とも言ふ。
これすなはち、如来蔵理三諦の義なり。如は空、蔵は仮、理は中なり。この法門を証し給へるゆゑに、天台29)の御臨終には観経30)・法華の首題を御弟子に唱へしめ、「四十八願。荘厳浄土。華池宝樹。易往無人」とみづから唱へて、「観音31)来迎し給へば、浄土へ往く」とこそ、御弟子には告げ給ひけれ。
摩訶止観第三下の釈に、類通三宝の法門あり。よろづ三宝通融平等一体不二なり。道(煩悩業苦)、識(七八九)、性(正了縁)、般若(実相観照文字)、菩提(実相)、大乗(理随得)、身(法報応)、涅槃三宝(仏法僧)、徳(法身般若解脱)、弥陀の名号、広大善根の道理知られたり。誰かこれをいるかせに思はんや。
楊傑いはく、「近くして知り易く、簡にして行じ易きは西方浄土なり。但し能く一心観念して、惣じて散心を摂し、弥陀の願力によて、直に安養に趣くに」と言へり。丈六の弥陀の像を画して、随行して観念し、臨終に仏の来迎を感じて、端座して化し、辞世頌にいはく、「生亦無可恋、死亦無可捨。太虚空中。之乎者也。将錯就錯。西方極楽。(生もまた恋(おし)むべき無く、死もまた捨つべき無し。太虚空中、之乎者也、錯をもつて錯に就く、西方極楽)」。之乎者也(しこしやや)と言ふは、ただ言葉の助けなり。いたづらごとなり。これ錯のごとし。錯と言ふは、衆生の迷ひ、知見立知(ちけんりつち)せしより、そこばくの誤り、生死の夢久し。
これによりて、法蔵比丘、願を立て、浄土をかまふ。衆生の誤りなく、浄土の誤りもあるべからず。自証の中には、無仏無生の真空冥寂なり。しかれども、衆生の錯は、痴より起こりて、苦患久し。諸仏の錯は、悲より起こりて、済度妙(たへ)なり。錯に差別無きにあらず。「善能分別諸法相」と言へり。
幻(げん)の薬をもて、幻の病を治することも、なぞらふべし。衆生の幻はかなしく、諸仏の幻は尊(たつと)し。これ、仏事門の中の分別なり。実際理地32)にこれを論ずることなし。
近ごろ、大原の顕真僧正と聞じえしも、顕密の明匠にておはしけるが、この意を得給へるにこ そ。「大念仏申さん」とては、道場に入りて法華経を読誦し、「小法華経読まん」とては、念仏を申し給ひけると申し伝へたり。中古の智者・明匠、かくのごとく是非の意なし。
真言の中にも、阿弥陀の習ひ細やかなる口伝ありて、六字の名号を五仏の種子(しゆじ)と習ふことあり。一切の如来を五仏に摂すること、密教の談なり。天台の与称十方仏(よしやうじつはふぶつ)の御釈も、この心を得給へるにこそ。禅師の中にも、智覚禅師は、念仏をわれも行じ、人にも勧め33)、「心地(しんぢ)明らかならざらん学者は、念仏を行じて、浄土にも生じ、大事を発明すべし」と言へり。
すべては万行一門なり。心を得て行ずれば、みな仏意にかなふと言ひながら、ことに法華念仏一具の法門にて、仲悪しかるまじきに、当世の是非謗法、悲しむべし。
古徳の口伝にいはく、「昔在霊山名法華。今在西方無量寿。娑婆示現観世音。大悲一体利衆生云云」。この文、高野の大師34)の法華の御開題の意に符合せり。金剛頂経を引きて、釈し給はく、「妙法蓮華経は観自在王の密号なり。この仏、無量寿と名づく。浄妙国土にしては、成仏の身を現じ、雑染世界(ざうせんせかい)にしては観自在と名づく」と言へり。法華・弥陀・観音一体のこと、この釈分明なり。もつとも信受すべし。
ある念仏者いはく、「観音・地蔵などいへば、鼻がうそやひてをかしきぞ」と。地蔵は、せめて余所(よそ)にも思ふべし。観音ををかしくあなづらば、来迎の台(うてな)には乗りはづしなんかし。
おほかたは、遍一切処、無相の真金(しんごん)をもて、諸仏菩薩四重曼荼羅を造ると、釈し給へり。十界の身、いづれか真実には大日法身の垂迹にあらざる。衆生、なほ実には一体なり。同じく六大法界の体なるゆゑに。まして仏菩薩を隔んや。ことに、地蔵は弥陀・観音と同体なり。真言の習ひに、胎蔵の曼荼羅は、大日一の身なり。これを支分曼荼羅と言ふ。一々の支分、一善知識となり、有縁の機を引きて、菩提の道に入る。
しかるに、弥陀は大日の右肩、観音は臂手、地蔵は指なり。観音院の地蔵とておはします、また、地蔵院に九尊おはします。これ一方なり。ある口伝には、「六観音、六地蔵となり給ふ」云々35)。
三井大阿闍梨慶祚は、顕密の明匠なり。山36)の西坂本の人宿りの地蔵堂の柱に、法蔵比丘の昔の姿、地蔵沙門の今の形、蔵の字思ひあはすべし」と書ける。寛印供奉、これを見て書き取りて、柱削りてけりと言へり。弥陀・地蔵一体の習ひ知れる人なるべし。
すべては、偏執我慢を存するは、小智愚鈍のいたす所なり。広く教門を学し、あまねく諸宗をうかがへる人の中には、隔つる心なし。智者の心を学びて、愚人の情に同ずることなく、是非偏執の心をやめて、如説修行の志を励むべし。
かやうに書き付け侍れば、また世間の人を謗る偏執に似たり。くるはしたうなの上人になりぬるにや37)。「誰かまた、われこそそ知らずして、偏執なき身なれ」と、心中に計(け)して、法師ばかりその上人になり給はんずらん。
翻刻
沙石集巻第四 上 無言上人事 或山寺ニ四人ノ上人有ケリ真如ノ離言ヲ観シ浄名ノ杜 口ヲ学ハントヤ思ケン契ヲ結ヒテ道場ヲ荘厳シ万縁ヲヤメ三 業ヲシツメテ道場ニ入四人座ヲ並ヘ七日ノ無言ヲ始ム承 仕一人ソ出入シケルココニ更タケ夜フケテ燈ノキエントスルヲ 見テ下座ノ僧承仕火カキアケヨトイフ並ノ座ノ僧無言道場 ニ物申様候ハストイフ第二座ノ僧二人共ニ物云事餘ニ心 地悪ク覚テ物ニクルハシタウナトイフ上座ノ老僧様ハカハレト モ面々ニ物イフコトアサマシクモトカシク覚テ法師ハカリソ物ハ 申サヌト云テウチウナツキケルカシコケニテ殊ニ嗚呼カマシクコソ 覚ユレ此事ヲ思トケハ人コトニ此風情ノカレカタシ世間ノ人/k4-118l
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是ヲ出世ノ戒トイヘリ分別ヲ生スルヲ犯戒トス是故ニ文殊 問経ノ意ハ出世ノ戒ナリコレ地上戒ナルユヘニ分別ヲ波羅 夷制ス戒ハ位深レハ制細也繯ノ声ヲ聞テ是男是女ノ分 別ヲナスヲ第三ノ波羅夷トイヘリ真実ニハ無相ノ妙体自性 ノ尸羅也真言教ニモ無相ノ菩提ヲ無為ノ戒トイヘリ定モ 世間有漏ノ定ハ慮ヲ息メ心ヲ凝シテ智慧ヲ生スル方便トス 風中ノ燈ノ光ナキコトク散心ノ智慧ハ理ヲテラス光ナシ又只 定ニシテ智ナキハ色無色ノ天ニ生ストイヘトモ果報ツキヌレハ下 界ニオツ真実ノ定ハ首楞厳定トモ王三昧トモ自性禅トモイ ヘリ円覚ニハ禅那トイフ定慧相応ノ名ナリ動ヲ止テ止ニ帰 スルハ止モイヨイヨ動ストイヘリ是故ニ大定ハ出入ナク事理ナ シ動静一致ニシテ法性ヲ全クス是中道ノ妙定ナリ智慧モ方/k4-126r
便ノ位ハ棟択籌量シ思想監察ス世間ノ智ナリ断惑ノ力ナ シ正智ニアラス正智ハ必無念無分別也是故ニ大智無分 別トモイヒ般若無知トモイヘリ無縁ノ智ヲ以テ無相ノ境ヲ 縁スルユヘ也観照般若真実ノ智恵也然レハ一心ノ上ノ 三ノ義三学ノ法門也一心不動一念不生ナレハ自然ニ三 学六度ノ法門ヲ具足スヘシカルカユヘニ法華三昧経云空 心不動具足六波羅蜜云々誠ニ無相清浄ノ所ニハ慳貪犯 戒瞋恚懈怠散乱愚痴ノ相迹ナシ此六弊ナキ処ニ三学六 度ノ名ヲ立也然レハ戒定慧ノ源一ナル道理ヲ達シテ方便ノ 義門暫ク異ナルヲ是非スル事ナカレ是則仏法ノ大綱ヲ心 得ルスカタナリ彼禅師ノ答ノ意諸宗ノ旨ヲ達セルニヤ上古 ノ先達ハカクノコトク隔ツル事ナシ末代ハ顕密禅教聖道浄/k4-126l
土是非諍論世間ニオホク聞ユ像法決凝経ニ云ク像法ノ 時ハ我ハ是律師禅師法師ト云テ三学タカヒニ謗リテ地獄 ニ入ル事矢ヲ射カコトクナラントイヘリ末法ニ入テハイヨイヨサ カリナリ如来ノ金言ナシカハ違ヘキカナシキカナヤ百喩経云 一人ノ師二人ノ弟子ヲモテ二ノ足ヲアテテ時ニシタカヒテナ テサス大小ノ弟子中アシクシテタカヒニ各カアタルトコロノ師ノ 足ヲ打折コレハ末代ニ大乗ノ学者ハ小乗ヲキラヒ小乗ノ 学者ハ大乗ヲソネミテ大聖ノ教法ヲ二途トモニウシナフヘキ ニタトフ近代ノ学者年ニ随ニ偏執我相フカクシテ聖法ノ滅セ ム事ヲ不思哉カナシムヘシカナシムヘシ夫戒律ハ釈子ノ威儀毘尼ハ 仏法ノ寿命也正法ヲ興隆スル軌則ミナ律蔵ノ中ヨリ出タ リ諸宗ノ妙解ノ後妙行ヲ立ニハ必ス威儀ニヨル勝鬘智論/k4-127r
ノ意ニヨルニ毘尼ハ大乗ノ学トイヘリ又涅槃ノ扶律顕常 法華ノ安楽行品専戒律ノ門ヲモテ大乗ノ修行ヲハケタ是 開会ノ意決了ノ談ナリ天台ノ止観ノ修行律儀ヲ方便ト シタマヘリ荊渓釈シテ云戒ニ無大小依受者心期ト云云又西天 ノ付法蔵ノ祖師三学ナラヒニ弘通ス迦葉尊者霊山ニシテ拈 花微咲ノ時ステニ正法眼蔵涅槃妙心ヲ伝フ経律若シ益 ナクハカナラスシモ不可結集ス三蔵ノ法門ヲ結集シテ遐代ニ 伝フル事根本迦葉ノ初祖ナリ如来入滅ノ時荼毘ハ人中 天上ノ福ヲネカハン物ニコレヲユツリテ我等ハ三蔵ノ教法ヲ 結集シテ仏ノ恩徳ヲ報スヘシトテ銅ノ捷稚ヲ打テ一閻浮提ノ 有智高徳ノ羅漢一千人ヲモテ畢波羅窟ニシテ律ハ優婆梨 誦シ経ハ阿難誦シテ結集スル事専ラ迦葉上座トシテコレヲ/k4-127l
行ス智論ノ第一巻ニ有之然ヲ近代ノ禅門ノ人ノ中ニ間教 門ヲカロクス祖師ノ心ニソムクニヤ仏祖ノ誡ル所ハ只文字ノ 執心也然ニ教門ノ助観ノ功有ルコトヲハ遮セス指ヲ執シテ月 ヲワスレ文ニ著シテ理ニクラキ事ヲキラフ指ノ月ヲミルハシトナリ 教ノ道ヲ悟ル縁タル事ヲキラハスカクノコトクナラハ教門ニ過 ナシ只学者ノ意ヲ得サルコトヲ誡シム然ルニ禅教ノ学者毘 尼ヲ小乗トクタシテ律師ヲハ愚痴ナリトテ禽獣ノコトク思ヘリ 律師ハ又大乗ノ学者ハ因果ヲワキマヘス律制ニカカハラスト テ偏ニ外道ノコトク思ヘリカカルママニ互ニソシリクタシテ仏法 ヲ滅セントス人ヲ謗ルハ法ヲ謗ルニ成ル法ミツカラアラハレス人 ノ弘通ニヨル人法一体ニシテ利益マコトニ大ナル故ニ失ヲモト ムレハ何ノ学者ニモコレアリ徳ヲカンカフレハ又何ノ行人ニモ/k4-128r
得益空シカラス南山大師大乗ノ学者ノ道ヲ達セス意ヲ得 スシテ只言ヲノミ学スルヲハ学語ノ輩トテ経文ヲ引テ誡シメ給 コトアリ一代ノ化儀大小異ナレトモ七衆ヲ分事ハミナ小乗 ノ軌則ニマカス髪ヲソリ衣ヲソメ寺舎ヲタテ仏事ヲ行スル作 法オホクハ律儀ニヨル大乗ハ心ヲ達スルヲ本トス形服ニカカ ハラス然レハ華厳ノ知識或ハ夜叉或ハ女人コレアリ若シ釈 子ノ数ニ入リ比丘ノ形トナラハ戒ヲ以テ本トスヘシ然ルニ仏 事ヲ行テ利養ヲウケントテハ我ハ仏子也コレヲ行スヘシトイヒ 戒ヲマホリ非ヲタタス時ハ我ハコレ大乗也小戒ニヨラシトイフ 仏蔵経ニコレヲ鳥鼠比丘トイヘリ鶣𪆠ノ鳥ノ数ニ入レントス レハ我ハ土ニスムナリトテ穴ニ入リ土ノ中ノ役ヲノカレントテハ 我ハ空ニコソスメトテ飛出ツ実ニハ鳥ニモアラス獣ニモアラスソ/k4-128l
ノ身クサクシテ黒闇ヲネカフコレヲ破戒ノ比丘ノ王者ノ公役ヲ ノカレントテハ我ハ仏弟子比丘也トイヒ戒ヲマホラスシテ我ハコ レ大乗ナリトイヒテ自恣布薩等ノ如法ノ比丘ニハツラナラス ソノ身不浄ニシテ罪闇ノ中ニ有ニ喩フ末代ノ比丘コノ過遁レ カタシハツカシカルヘキ事哉コノイマシメニヨリテヲノツカラ大乗 ノ解行マコトアリテ乗急戒緩ノ行人モ間ニ有ル事ヲモワキマ ヘスヲシナヘテソシリ大乗ノ信解広大ノ益有事ヲシラサルモイ フカヒナクヲロカナリサレハ大智律師モ大乗ノ学者ヲ学語ノ 輩ト釈スル下ニハ今ノ時ハ律師モタタ学律ノ者也トテ如法 ノ持律ハスタレタルヨシ釈シ給ヘリアナカチニ餘宗ノ学者ヲ非 スヘカラス我カ宗ノ学者ノ如法ナラン事ヲ思ヘシ又禅門ノ学 者教ヲ学シ律ヲ学スル人ヲハ一向ニ軽慢シ拙キコトニ思ヘリ/k4-129r
然ルニ律僧ノ中ニモ外ニハ律儀ヲ学シテ小学ヲ執スルニ似タレ トモ大乗ノ行門ヲ本意トシテ有縁ノ宗々ヲ行スル事有リヲサ ヘテ小乗ノ学者ト思ヘルコレ又ミタリナリマコトニ執則障道ノ 行人モアルヘシ善悪ノ根性浅深ノ機根ハイツレノ宗ニモ相 ヒ交レリ偏ニ一宗ノ学者ヲ非スヘカラス牛羊ノ眼ヲ以テ他 人ヲ評量スルコトナカレトイヘリイツレノ宗ノ学者モタカヒニ是 非スルコトヨシナクコソコノ故ニ大智論ニイハク自法愛楽故 毀呰他人法雖持戒浄人不免堕悪道云云凡仏法ノ大綱ハ 諸悪莫作衆善奉行自浄其意是諸仏教ト云リ大小乗 ノ学者コレニソムクヘカラス七仏ノ通戒ナリタレカアヘテ異義 ヲ存セン諸悪莫作ハ戒衆善奉行ハ定自浄其意ハ慧ト釈 セリ然レハ戒ハ賊ヲトラヘ定ハ賊ヲシハリ慧ハ賊ヲ殺ス三学/k4-129l
斉修スヘキナレトモ時代クタリ機根ヨハクシテ宿種ニマカセ意楽 ニシタカヒテ或ハ戒儀ヲタモチ或ハ心地ヲマホランヲタカヒニソシ ルヘカラス戒律ノ行相ヲ学セントスレハ心地ノ修行ニウトク 禅門ノ工夫ヲ専セントスレバ毘尼ノ制門ニクラキ事末代ヲ カナシミ劣機ヲ恨ムヘシタレノ心有ラン人カ如来ノ正法輪ヲ 謗シテ無間ノ業ヲマネカンヤ返々ツツシムヘシツツシムヘシ無言ノ上人 カ物カタリハ一旦オカシケレトモソノトカナシ当世ノ謗法ソノ 罪大ナル者哉聖道浄土ノ是非又世ニサカリナリ念仏ノ行 者真言止観等ヲ雑行トソシリ真言法華ヲ弘通スル人ハ念 仏ヲイヤシク思ヘリコレ又如来ノ方便ヲ失シ祖師ノ教誡ニソ ムケリ浄土門ノ人餘行ヲ不可謗ス事ハ本願ノ文ニ只除 五逆誹謗正法トトキ善導和尚ノ般舟讃ノ序ニハ釈迦ハコ/k4-130r
レ父母也我等カタメニ種々ノ方便ノ門ヲ説キ給フ若シ教ニ ヨリテ行セハ門々仏ヲ見浄土ニ生スヘシ若人ノ善ヲ行センヲ 見テハコレヲタスケ悟リアランヲ聞テハコレヲヨロコヘ何意ソ然 トナラハ同ク仏ヲ以テ師トシ法ヲ以テ母トス生養トモニ同ク 情親外ニアラス他ノ有縁ノ行ヲソシリ自カ有縁ノ法ヲ讃ハ 諸仏ノ法眼ヲ破ル法眼ステニ滅セハ菩提ノ道足ヲフムニヨシ ナシ浄土ノ門何ソ能入事ヲエン生盲業ニマカセテハシリ深坑 ニオチムコノ貪瞋ノ火ヲホシヒママニセハ自ヲ損シ他ヲ損シ長 ク無明ノ海ニシツミテ木ニアフニヨシナシト釈シ給ヘリ祖師ノ 御誡ニソムキテ餘行餘宗ヲソシル事マコトニ心得カタシ法華 ヲ弘通スル人ノ中ニ又念仏ヲソシルコトアリ是又天台大師 ノ御意ニソムケリ法華ノ修行ハ止観ノ四種三昧ニ出ス常/k4-130l
行三昧ハ九十日口ニ弥陀ノ名号ヲトナヘ意ニ弥陀ノ身心 ヲ観ス或ハ先ツトナヘテ後ニ念シ或ハ先ツ念シテ後ニトナフ或ハ 唱念共ニ運フ歩々声々念々ミナ阿弥陀ニ在ト釈セリ或 ハ與称十方仏功徳正等トモ釈シテ弥陀一仏ヲトナフルハ十 方ノ仏ヲ唱ト同シト見ヘタリ荊渓ハ諸教所讃多在弥陀ト 釈シテ一代ノ教ニ弥陀ヲホムル事多シトノ給ヘリイハンヤ法 花ノ妙体ハ空仮中ノ三諦ヲ以テ規模トス因縁所生ノ法無 自性ノ故ニ縁ヲカル縁モ又性ナキ故ニ空也空也トイヘトモ 因縁和合スレハ十界ノ依正暦然トシテ互具融通セルハ仮 也コノ空仮実ニハ心実相ノ中道ナリ銅鏡ノ明々タル徳有 リトイヘトモトルヘカラサルハ空ノ如シ影像暦然トシテウカフハ仮 ノコトシ明モ像モ鏡ノ徳ナレハ鏡ノ外ニナシ空仮共ニ中道ノ/k4-131r
徳ナルカコトシコノ三諦ノコトハリ衆生ノ一念ノ心ニ有ル時 ハ在纏真如トモ如来蔵理トモイヘリ蓮ノ水ニアルカコトシ諸 仏ノ果位ニアテハ法身ト名ケ菩提涅槃トモイヘリ月ノ雲ヲイ テタルニ似タリコノ三諦ヲ悟リ三徳ヲソナヘ給ヘル弥陀ナレハ 名号ノ阿弥陀ハ天竺ノ梵語漢ニハ無量寿トイフ阿ハ無 空ノ義般若ノ徳ナリ弥ハ量仮ノ義解脱ノ徳也陀ハ寿中 道ノ義法身常住ノ寿命ナリ又法報応ノ三身仏法僧ノ三 宝カクノコトクノ恒沙ノ徳三字ノ中ニ具セリコノ三諦三身 我等カ一念ノ心中ニ有ル時ハ本性ノ弥陀トモ自性清浄 ノ蓮トモイフ是則如来蔵理三諦ノ義也如ハ空蔵ハ仮理 ハ中ナリコノ法門ヲ証シ給ヘル故ニ天台ノ御臨終ニハ観経 法華ノ首題ヲ御弟子ニ唱ヘシメ四十八願荘厳浄土華池/k4-131l
宝樹易往無人ト自唱ヘテ観音来迎シ給ヘハ浄土ヘ往トコ ソ御弟子ニハ告給ケレ摩訶止観第三下ノ釈ニ類通三宝 ノ法門アリヨロツ三宝通融平等一体不二也道(煩悩業苦)識 (七八九)性(正了縁)般若(実相観照文字)菩提(実相)大乗(理随得)身(法報応) 涅槃三宝(仏法僧)徳(法身般若解脱)弥陀ノ名号広大善根ノ道理 シラレタリタレカコレヲイルカセニオモハンヤ 楊傑云近而易知簡而易行者西方浄土ナリ但能一心 観念シテ惣シテ散心ヲ摂シ弥陀ノ願力ニヨテ直ニ安養ニ趣ニト イヘリ丈六ノ弥陀ノ像ヲ画シテ随行テ観念シ臨終ニ仏ノ来 迎ヲ感シテ端坐シテ化シ辞世頌曰生亦無可恋死亦無可捨 太虚空中之乎者ナリ将錯就錯西方極楽之乎者也ト云 ハタタコトハノタスケナリイタツラ事ナリコレ錯ノコトシ錯トイフ/k4-132r
ハ衆生ノ迷知見立知セシヨリソコハクノアヤマリ生死ノ夢ヒサ シコレニヨリテ法蔵比丘願ヲ立テ浄土ヲカマフ衆生ノアヤマリ ナク浄土ノアヤマリモ有ヘカラス自証ノ中ニハ無仏無生之真 空冥寂也然トモ衆生ノ錯ハ痴ヨリ起テ苦患久シ諸仏ノ錯 ハ悲ヨリオコリテ済度タヘナリ錯ニ差別ナキニアラス善能分別 諸法相トイヘリ幻ノ薬ヲモテ幻ノ病ヲ治スル事モナソラフヘシ 衆生ノ幻ハカナシク諸仏ノ幻ハタツトシコレ仏事門ノ中ノ分 別也実降理地ニコレヲ論スルコトナシ近比大原ノ顕真僧 正ト聞シモ顕密ノ明匠ニテオハシケルカコノ意ヲ得給ヘルニコ ソ大念仏申サントテハ道場ニ入リテ法華経ヲ読誦シ小法 華経ヨマントテハ念仏ヲ申給ヒケルト申伝タリ中古ノ智者 明匠カクノ如ク是非ノ意ナシ真言ノ中ニモ阿弥陀ノ習コマ/k4-132l
ヤカナル口伝有テ六字ノ名号ヲ五仏ノ種子ト習事有リ一 切ノ如来ヲ五仏ニ摂スルコト密教ノ談ナリ天台ノ與称十 方仏ノ御釈モコノ心ヲ得給ヘルニコソ禅師ノ中ニモ智覚禅 師ハ念仏ヲ我モ行シ人ニモスヘメ心地アキラカナラサラン学 者ハ念仏ヲ行シテ浄土ニモ生シ大事ヲ発明スヘシトイヘリスヘテ ハ万行一門ナリ心ヲエテ行スレハミナ仏意ニカナフトイヒナカ ラコトニ法花念仏一具ノ法門ニテ中アシカルマシキニ当世ノ 是非謗法カナシムヘシ古徳ノ口伝ニ云ク昔在霊山名法花 今在西方無量寿娑婆示現観世音大悲一体利衆生云云 コノ文高野ノ大師ノ法花ノ御開題ノ意ニ符合セリ金剛頂 経ヲ引テ釈シ給ハク妙法蓮花経者観自在王密号也此仏 無量寿ト名ク浄妙国土ニシテハ成仏ノ身ヲ現シ雑染世界ニ/k4-133r
シテハ観自在ト名クトイヘリ法花弥陀観音一体ノ事此釈 分明也尤モ信受スヘシ或念仏者云観音地蔵ナトイヘハ 鼻カウソヤヒテオカシキソト地蔵ハセメテヨソニモ思ヘシ観音ヲ オカシクアナツラハ来迎ノ臺ニハノリハツシナンカシオホカタハ遍 一切処無相ノ真金ヲモテ諸仏菩薩四重曼荼羅ヲ造ルト 釈シ給ヘリ十界ノ身何レカ真実ニハ大日法身ノ垂迹ニアラ サル衆生猶実ニハ一体也同ク六大法界ノ体ナル故ニマシテ 仏菩薩ヲ隔ンヤ殊ニ地蔵ハ弥陀観音ト同体也真言ノ習 ニ胎蔵ノ曼荼羅ハ大日一ノ身也是ヲ支分曼荼羅ト云一 一ノ支分一善知識トナリ有縁ノ機ヲ引テ菩提ノ道ニ入ル 然ニ弥陀ハ大日ノ右肩観音ハ臂手地蔵ハ指也観音院ノ 地蔵トテ御坐又地蔵院ニ九尊御坐是一方也或口伝ニ/k4-133l
ハ六観音六地蔵ト成給三井大阿闍梨慶祚ハ顕密ノ明 匠也山ノ西坂本ノ人宿リノ地蔵堂ノ柱ニ法蔵比丘ノ昔 ノスカタ地蔵沙門ノ今ノ形蔵字思合スヘシトカケル寛印供 奉是ヲミテ書取テ柱ケツリテケリト云リ弥陀地蔵一体ノ習 シレル人ナルヘシスヘテハ偏執我慢ヲ存スルハ小智愚鈍ノイタ ス所也ヒロク教門ヲ学シアマネク諸宗ヲウカカヘル人ノ中ニハ 隔ル心ナシ智者ノ心ヲマナヒテ愚人ノ情ニ同スル事ナク是非 偏執ノ心ヲヤメテ如説修行ノ志ヲハケムヘシ加様ニ書付侍 レハ又世間ノ人ヲ謗ル偏執ニ似タリクルハシタウナノ上人ニナ リスルニヤ誰又我コソソシラスシテ偏執ナキ身ナレト心中ニ計シテ 法師ハカリソノ上人ニナリ給ハンスラン 沙石集第四上終/k4-134r