沙石集
巻3第7話(27) 孔子の物語の事
校訂本文
孔丘1)は、儒童菩薩2)の後身として、周の代に出でて、仏法の方便のために、先王の要道を述べて、国の政(まつりごと)を示し、仁義の孝行を教へて、人の心を正しくせし賢聖なり。
ある時に、魯の哀公、「世に物忘れする者ありて、移徒(わたまし)に妻を忘る」と語り給ふに、孔丘のいはく、「臣、物忘れする人の、これにも過ぎたるを見る。桀紂(けつちう)の君は、その身を忘れ給へり」と語らる。夏の桀王、殷の紂王は、仁慧なき君にて、国をわづらはし、民を悩ます。時の后(きさき)を愛するあまり、かの心を喜ばしめんとして、酒の泉をたたへ、肉の山を築(つ)き、人をして飲み酔はしめ、悩まし殺し、銅の柱を焼きて、人を責め上(のぼ)せ焼き殺す。これを見て、后の笑ひ愛するを、心よきこととして、人の悲しみ歎きき積もりて、天の責めを蒙り、にはかに后とともに亡び失せ給ひけり。
これは、わが身を忘れたる人なり。妻は、なほ身の外(ほか)なれば、忘るることもあるべし。わが身を忘るること、愚かなるよしを申されけるなり。哀公、この語に恥ぢて、政を正しくして、賢王にておはしけり。
このことを思ふに、身を忘れざる人はまれにこそ。まづ、仁・義・礼・智・信の五常を全(また)くし、家を保ち、国を治むる、これ身を忘れぬ人なり。
仁といふは、広く人を恵み愛す。老いたるをば親のごとく敬ひ、幼(いとけな)きをば、子のごとくあはれむ。もし、人、仁なきは、鬼畜のごとし。情け深く恵みあつき心、狭(せば)き時はこれを仁慧と言ひ、広き時は慈悲とす、その体は同じといへども、徳用(とくゆう)に優劣あり。たとへば、火の体は一つなりといへども、薪(たきぎ)の多少によりて、光に明昧(みやうまい)あるがごとし。
義といふは、正直にして道理をわきまへ、是非を判じ、偏頗(へんぱ)なく、奸邪(かんじや)なきことなり。五戒には3)、仁は不殺生戒(ふせつしやうかい)、義は不偸盗戒(ふちうたうかい)にあたる。
礼といふは、人を敬ひ譲(ゆづ)りて、次(つい)でを乱らず、慎み恐れて、驕(おご)らざることなり。不邪婬戒(ふじやいんかい)にあたる。邪婬は人をあなづる極(きは)まりなり。
智といふは、照了(せうれう)の心ありて、是非好悪をわきまへ、愚かなることを捨てて、かしこき道を慕ふ心なり。不飲酒戒(ふおんじゆかい)にあたる。酒は人の心を狂ぜしめ、愚痴の因縁なるゆゑに。
信といふは、心にも言にもまことありて、偽りなく、口の虎身を害し、舌の剣命を断つことを恐れて、みだりに言を出ださず。不妄語戒(ふまうごかい)にあたる。
この五常を全くする人は、災害4)おのづから去り、運命久しく保つ。父母の与ふる身体髪膚を破りはづかしめずして、名を上げ徳をほどこすを、孝養の本(もと)とす。
孝経にいはく「居上不驕。為下不乱。在醜能推。(上に居て驕らず。下と為て乱れず。醜(もろもろ)に在りて能く推(ゆづ)る)」と云々。これを孝養とす。この三事を行なはざるを不孝とす。「上にあて驕れば亡び、下にして乱るは刑せらる。醜にあて争へば兵(へい)す」と言へり。災難夭亡これよりおこれる。これ、身を忘れたる人なり。
また、「色欲を愛して精を尽し、酒肉をほしいままにして臓腑をくたし、家を美麗に作り、民の悩みを思はされば、身を損じ、命を失ひ、久しく保つことなし」と言へり。しかるに、末代の人は、人の振舞ひ昔に変り、富貴の家は、心をほしいままにして、酒食に貪(とん)し、屋舎を過奢(くわしや)に作り、人民の苦しみを知らず、精を尽すは、養性(やうじやう)にそむき、器量弱く、病患おこる。禄重く、家豊かなれば、身あやうく、命縮(つづ)まる。しかれば、仁義を行なはずして、天命を保たざる人は、今生の身を忘れたるなり。これ、なほ一期のほどなき物忘れなり。
これにもまさる物忘れあり。それ、人身を受くること、爪の上の土のごとし。仏法に逢へること、優曇華(うどんげ)よりもまれなり。たまたま仏法に逢ひて、わづかに因果の道理を知り、さいはひに善縁に近付いて、すでに菩提の妙道を聞く。しかるに、いづれの宗をも学し、いかなる行をも修せずして、常住の仏性を具し、無尽の妙用を備へながら、愚かに流転生死の妄業をのみ作り、かつて出離解脱の善因なくして、已霊の万徳を埋(うづ)み、五分法身を忘れたること、まことに悲しむべし。
父母の与ふる身を全(また)くせざるは、今生一世の身を忘るる人なり。仏道修行の志なく、出離生死の営みなくして、むなしく輪廻の苦果を増し、いよいよ流転の業因を作り、六趣のちまたにめぐり、四生の形にわづらひ、無窮(むぐう)の生死を受け、多劫5)の業苦に沈まん人は、諸仏の法身と同体にして、釈尊6)の子となれる身を忘るるは、これ多生の身を忘れたる人なり。
心あり、悟りあらん人、よくよく心をしづめて、今生・後世の身を全くする用意、忘るることなかれ。
翻刻
孔子之物語事 孔丘ハ儒童菩薩ノ後身トシテ周ノ代ニ出テ仏法ノ方便ノタ メニ先王ノ要道ヲノヘテ国ノ政ヲ示シ仁義ノ孝行ヲシヘテ人 ノ心ヲタタシクセシ賢聖ナリ或時ニ魯ノ哀公世ニ物忘スル者 有テ移徒ニ妻ヲ忘ルト語リ給ニ孔丘ノ云ク臣物忘スル人ノ コレニモスキタルヲ見ル桀紂ノ君ハ其身ヲ忘レ給ヘリト語ラル 夏ノ桀王殷ノ紂王ハ仁慧ナキ君ニテ国ヲワツラハシ民ヲ悩ス/k3-107l
時ノ后ヲ愛スルアマリ彼心ヲヨロコハシメントシテ酒ノ泉ヲタタヘ 肉ノ山ヲツキ人ヲシテ飲ミ酔ハシメ悩マシ殺シ銅ノ柱ヲ焼テ人 ヲセメノホセヤキコロス是ヲ見テ后ノワラヒ愛スルヲ心ヨキ事ト シテ人ノ悲ミ歎キツモリテ天ノセメヲ蒙リニハカニ后ト共ニホロヒ 失給ケリ此ハ我身ヲワスレタル人也妻ハ猶身ノ外ナレハワス ルル事モ有ヘシ我身ヲワスルル事ヲロカナル由ヲ申サレケルナリ 哀公コノ語ニハチテ政ヲタタシクシテ賢王ニテオハシケリコノ事ヲ 思ニ身ヲワスレサル人ハ希ニコソ先仁義礼智信ノ五常ヲマ タクシ家ヲタモチ国ヲオサムル此身ヲワスレヌ人也仁トイフハヒ ロク人ヲメクミ愛ス老タルヲハ親ノコトクウヤマヒ幼ヲハ子ノコ トクアハレム若シ人仁ナキハ鬼畜ノコトシナサケフカクメクミアツ キ心セハキ時ハコレヲ仁慧トイヒ広キ時ハ慈悲トス其体ハ同/k3-108r
シトイヘトモ徳用ニ優劣有リタトヘハ火ノ体ハ一也ト云トモ 薪ノ多少ニヨリテ光ニ明昧有カコトシ義トイフハ正直ニシテ道 理ヲワキマヘ是非ヲ判シ偏頗ナク奸邪ナキ事也五戒ニニ仁 ハ不殺生戒義ハ不偸盗戒ニアタル礼トイフハ人ヲウヤマヒ譲 テ次テヲミタラスツツシミ恐テ憍サル事也不邪婬戒ニアタル邪 婬ハ人ヲアナツルキハマリナリ智トイフハ照了ノ心有テ是非好 悪ヲワキマヘヲロカナル事ヲステテカシコキ道ヲ慕フ心也不飲 酒戒ニアタル酒ハ人ノ心ヲ狂セシメ愚痴ノ因縁ナル故ニ信ト イフハ心ニモ言ニモマコト有テイツハリナク口ノ虎身ヲ害シ舌 ノ剱命ヲタツ事ヲオソレテミタリニ言ヲイタサス不妄語戒ニアタ ルコノ五常ヲ全クスル人ハ炎害ヲノツカラサリ運命久ク保ツ 父母ノアタフル身体髪膚ヲヤフリハツカシメスシテ名ヲアケ徳ヲホ/k3-108l
トコスヲ孝養ノ本トス孝経云居上不驕為下不乱在醜能 推ト云云是ヲ孝養トス此三事ヲオコナハサルヲ不孝トス上ニア テヲコレハ亡ヒ下ニシテ乱ルハ刑セラル醜ニアテアラソヘハ兵スト イヘリ災難夭亡是ヨリオコレルコレ身ヲワスレタル人ナリ又色 欲ヲ愛シテ精ヲ尽シ酒肉ヲホシヰママニシテ臓腑ヲクタシ家ヲ美 麗ニ作リ民ノ悩ヲ思ハサレハ身ヲ損シ命ヲ失ヒ久クタモツ事 ナシトイヘリ然ニ末代ノ人ハ人ノ振舞昔ニカハリ冨貴ノ家ハ心ヲ ホシヰママニシテ酒食ニ貪シ屋舎ヲ過奢ニツクリ人民ノクルシミ ヲシラス精ヲツクスハ養性ニソムキ器量ヨハク病患オコル禄重 ク家ユタカナレハ身アヤウク命ツツマルシカレハ仁義ヲオコナハ スシテ天命ヲタモタサル人ハ今生ノ身ヲ忘タルナリ是猶一期ノ 程ナキ物忘ナリ是ニモマサル物忘有リ夫人身ヲ受ル事爪ノ/k3-109r
上ノ土ノコトシ仏法ニアヘル事優曇華ヨリモ希ナリタマタマ仏 法ニアヒテワツカニ因果ノ道理ヲシリサイハイニ善縁ニチカツヒ テステニ菩提ノ妙道ヲ聞ク然ニ何レノ宗ヲモ学シ何ナル行ヲ モ修セスシテ常住ノ仏性ヲ具シ無尽ノ妙用ヲ備ヘナカラヲロカ ニ流転生死ノ妄業ヲノミツクリカツテ出離解脱ノ善因ナクシテ 已霊ノ万徳ヲウツミ五分法身ヲワスレタル事マコトニカナシム ヘシ父母ノアタフル身ヲマタクセサルハ今生一世ノ身ヲワスル ル人也仏道修行ノ志ナク出離生死ノイトナミナクシテ空ク輪 廻ノ苦果ヲマシイヨイヨ流転ノ業因ヲ作リ六趣ノチマタニメク リ四生ノ形ニワツラヒ無窮ノ生死ヲ受ケ多却ノ業苦ニシツ マン人ハ諸仏ノ法身ト同体ニシテ釈尊ノ子トナレル身ヲ忘ルル ハ是多生ノ身ヲワスレタル人也心アリサトリアラン人能々心/k3-109l
ヲシツメテ今生後世ノ身ヲマタクスル用意ワスルル事ナカレ/k3-110r