沙石集
巻3第6話(26) 小児の忠言の事
校訂本文
南都にある律僧、世間になりて、子息あまたありける中に、ことにいとほしくする子五歳の時、知りたる上人両三人、かの房に行きて、物語するついでに、この子、父が膝の上に居たるを、「きやつは不覚の者にて候ふ。これほどになり候ひて、父とはすべて寝候はで、母とのみ臥せり候」と言ふ時、この子、父か膝をつい立ちて、内へ入りざまに、「父はわれをば母と寝(ぬ)ると言へども、父もまた母とは寝(ぬ)るめるは」と言ふ。まことに、「さも」と思えて、をかしく、いたいけしたりしよし語り侍りき。父を恥ぢしめ教ふるに似たり。
漢朝に元啓といふ者ありけり。年十三の時、父、妻が言葉につきて、年たけたる親を山に捨てんとす。元啓、しきりにいさむれども用ゐずして、元啓と二人、あからさまに手輿(たこし)を作りて、持ちて、深山の中に捨てつ。
元啓、「輿(こし)を持ちて帰らん」と言ふに、父、「今はいかにせんぞ、捨てよ」と言ふ時、「父の年老い給ひたらん時、また持ちて捨てんずるためなり」と言ふ。その時、父、心づきて、「わが父を捨つること、まことに悪しきわざなり。これを学びて、われを捨つることありぬべし。よしなきことをしつるなるべし」と思ひ返して、父を具して帰りて、養ひける。このこと、天下に聞こへて、「父を教へ、祖父を助けぬる孝養者なり」とて、孝孫とぞ言ひける1)。
いとけなき心の中に、父を教ふる智慧深かりけること、まめやかの賢人なり。人の習ひ、よきことをば必ずしも学ばねども、悪しきことをば学び習ふことをつみ知らせける心、まことにありがたくこそ。この幼子も父を恥ぢしめけるに思ひ知りて、またひじりかへらざりけるこそ。元啓が父には劣りて思ゆれ。
すべては人とならば、賢なるへきものなり。恥を知り、義を存し、情け深く、智ありて、いかなる縁にあふとも、無道を行なはず、恩をもつて怨(あた)を報じ、身を軽(かろ)くし、人を助くる心あり。これ世間には賢人なり。御法に入れば菩薩の行となるべし。賢の下地(したぢ)なくして、にはかに菩薩となりがたかるべし。
一 孔子の弟子の四人の上足の中に、閔子騫(びんしけん)といひけるは、継母、これを憎みて、わが子二人は常の綿を着せ、騫には葦の花を綿にして着せけり。これを恨むる心なくして、父に隠しけれども、自然(じねん)にある時見付けて、父、おほきに怒りて、妻を追ひ出だす。
騫、父をいさめていはく、「母、家に有ては一子一重ならん。母、家に無くては三子一重ならん」と。まことに母無くば、ともにうすかるべし。たとひ、余(よ)の母あらば、また三人継子たるべきよしを言ひけるに、父、道理に折れて妻を留む。その後、継母、心をあらためて、わがまことの子よりも、いとほしくしけり。このゆゑに、賢人の名を得て、つひに上足の弟子につらなる。
信州に、中昔、ある人、京より人を思ひて、具して下りてける。京に物申す人あまたありけるかたより、文を下しおこせけるを、あまたありけるを隠し置きたるを、「かかることなんあり」と告知する者ありければ、夫、これを尋ね出だして、「我は物もえ書かず、読まざりけるままに、子息の児、戸隠の山寺にありけるを呼びて、母の前にて読ませけり。母、色を失なひて、肝心(きもこころ)も身にそはぬ体なり。
この児、心ある者にて、ただ世の常の文のやうにやはらげて、あまたの文を読みてければ、「人の和讒(わざん)なりけり」と思ひてやみぬ。
この継母、あまりに嬉しく思ひて、いたひけしたる翫(もてあそ)び物取り具して、文をやりける。
信濃なる木曽路(きそぢ)にかくるまろ木橋ふみ見しときはあやふかりしを
この児、返事。
信濃なるそのはらにして宿らねどみなははきぎと思ふばかりぞ
かの閔子騫に似たり。梵網2)の文にもあひてあはれなり。「一切の男子はみなわが父、一切の女人はみなわが母なり」と説けるにたがはぬ心なるべし。あはれなりける心なるべし。父の家をも継ぎて侍りけるとなん。
二 魯州に、母子三人、貧しくして世を渡る者ありけり。二人の子、他行のひまに、隣の人、母に恥ぢがましきことを与ふ。子、帰りて、このことを聞きて、母が恥をすすがんために、隣人を殺害しぬ。門を開きてささず。官に過(とが)を行なはるべきよしを申す。
兄は、「母と弟とは過なし。われを誅せられん」と申す。弟は、「母と兄とは過なし。われを誅せられん」と申す。母を召して問はれば、母、「二人の子は過なし。われ、子を教へざるゆゑなれば、わが身に過あり。二人の子を助けられん」と申す。
「ともに申す所あれども、母をば助けて、二人の子の中に一人を誅すべし。ただし、母が言葉によるべし」とて、母に問はる。母、申さく「弟を召し取りて、兄をば助けらるべし」と申す。王のたまはく、「人の親の子を思ふ習ひ、多く幼(いとけな)きを愛す。何のゆゑに、弟を捨つるぞ」と。母、申さく、「弟はわが実の子なり。兄は継子なり。兄が父、命終りし時、『わが子のごとく育むべし』と申ししかば、かの言葉忘れがたきゆゑに、これを助けんと思ふ。わが子なれば、弟は参らず」と申す時、王、大きに感じて、「一門の中に三賢あり、一室の内に三義あり」とて、二人ながら臣下に召し使はれ、母も同じく富み栄えけり。
わが身を忘れて、わが身またし。情深く義ありて、賢人の名天下に聞こゆ。されば、人を損ずるは、身を損ずるになり、人を助くるは、身を助くるになる。この道理を知らずして、情けなく義を忘るる人は、人の皮を着たる畜生なるべし。心あらん人、先賢の跡を学びて、後昆(こうこん)3)の範(のり)となるべし。
翻刻
小児之忠言事 南都ニ或律僧世間ニナリテ子息アマタアリケル中ニコトニイ/k3-104l
トヲシクスル子五歳ノ時知タル上人両三人彼房ニユキテ物 語スル次ニ此子チチカヒサノ上ニヰタルヲキヤツハ不覚ノ者ニテ 候コレ程ニ成候テ父トハ都テ寝候ハテ母トノミフセリ候トイフ 時コノ子父カヒサヲツヰタチテ内ヘ入サマニ父ハ我ヲハ母トヌ ルトイヘトモ父モマタ母トハヌルメルハト云実ニサモト覚テヲカシ クイタイケシタリシ由語侍キ父ヲハチシメヲシフルニ似タリ漢朝 ニ元啓ト云者有ケリ年十三ノ時父妻カコトハニツキテ年タ ケタル親ヲ山ニステントス元啓シキリニイサムレ共モチヰスシテ元 啓ト二人アカラサマニ手輿ヲ作テモチテ深山ノ中ニステツ元 啓コシヲモチテ帰ラント云ニ父今ハ何ニセンソステヨトイフ時父 ノ年老給タラン時又モチテステンスルタメナリトイフ其時チチ心 ツキテ我チチヲスツル事マコトニアシキワサナリ是ヲマナヒテ我ヲ/k3-105r
スツル事有ヌヘシ由ナキ事ヲシツルナルヘシト思返シテ父ヲ具シテ 帰テヤシナヒケル此事天下ニキコヘテ父ヲオシヘ祖父ヲタスケ ヌル孝養者也トテ孝孫トソ云ケルイトケナキ心ノ中ニ父ヲ教 フル智慧フカカリケル事マメヤカノ賢人也人ノ習ヨキ事ヲハカ ナラスシモマナハネトモアシキコトヲハマナヒ習事ヲツミシラセケル 心マコトニ有カタクコソ此幼子モチチヲハチシメケルニ思シリテ 又ヒシリ還ラサリケルコソ元啓カ父ニハヲトリテ覚ユレスヘテハ 人トナラハ賢ナルヘキ者也恥ヲ知義ヲ存シ情フカク智有テイ カナル縁ニアフトモ無道ヲオコナハス恩ヲ以怨ヲ報シ身ヲ軽ク シ人ヲタスクル心有是世間ニハ賢人也御法ニ入レハ菩薩 ノ行ト成ヘシ賢ノ下地無シテ俄ニ菩薩ト成難カルヘシ 一 孔子ノ弟子ノ四人ノ上足ノ中ニ閔子騫トイヒケル/k3-105l
ハ継母是ヲニクミテ我子二人ハ常ノ綿ヲキセ騫ニハ葦ノ花 ヲ綿ニシテキセケリ此ヲウラムル心ナクシテチチニカクシケレトモ自 然ニアル時見ツケテ父オホキニイカリテ妻ヲオヒイタス騫父ヲイ サメテ云ク母家ニ有テハ一子一重ナラン母家ニナクテハ三 子一重ナラントマコトニ母ナクハトモニウスカルヘシタトヒヨノ母 アラハ又三人ママ子タルヘキヨシヲイヒケルニ父道理ニヲレテ妻 ヲ留ム其後継母心ヲアラタメテ我マコトノ子ヨリモイトヲシクシ ケリコノ故ニ賢人ノ名ヲエテツヰニ上足ノ弟子ニツラナル信州 ニ中昔或人京ヨリ人ヲオモヒテ具シテ下テケル京ニ物申人アマ タアリケルカタヨリ文ヲクタシオコセケルヲアマタ有ケルヲカクシ置 タルヲカカル事ナンアリト告知スル者有ケレハ夫是ヲタツネ出 シテ我ハ物モヱカカスヨマサリケルママニ子息ノ児戸隠ノ山寺ニ/k3-106r
有ケルヲヨヒテ母ノ前ニテヨマセケリハハ色ヲウシナヒテ肝心モ身 ニソハヌ体也此児心アル物ニテタタヨノツネノ文ノヤウニヤハラ ケテアマタノ文ヲ読テケレハ人ノ和讒也ケリト思テヤミヌ此継 母餘リニウレシク思テイタヒケシタル翫ヒ物取具シテ文ヲヤリケル シナノナルキソチニカクルマロ木ハシフミミシトキハアヤウカリシヲ 此児返事 シナノナルソノハラニシテヤトラネトミナハハキキトオモフハカリソ カノ閔子騫ニニタリ梵網ノ文ニモアヒテアハレナリ一切ノ男子 ハ皆我父一切ノ女人ハ皆我母ナリト説ケルニタカハヌ心ナル ヘシ哀ナリケル心ナルヘシ父ノ家ヲモツキテ侍リケルトナン 二 魯州ニ母子三人貧クシテ世ヲワタル者有ケリ二人ノ 子他行ノヒマニ隣ノ人ハハニハチカマシキ事ヲアタフ子帰テコ/k3-106l
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トテ二人ナカラ臣下ニ召ツカハレハハモ同ク冨栄ケリ我身ヲワ スレテ我身マタシ情フカク義有テ賢人ノ名天下ニ聞ユサレハ 人ヲ損スルハ身ヲ損スルニナリ人ヲタスクルハ身ヲタスクルニナ ル此道理ヲシラスシテ情ナク義ヲワスルル人ハ人ノ皮ヲキタル畜 生ナルヘシ心有ン人先賢ノ迹ヲマナヒテ後毘ノ範トナルヘシ/k3-107l