沙石集
巻3第5話(25) 律学生の学と行と相違の事
校訂本文
唐の龍興寺の鑑真和尚、聖武天皇の御宇、本朝に来たりて、南都の東大寺、鎮西の観音寺、下野の薬師寺、三つの戒壇を立て給ひ、毘尼の正法を広め、如法の受戒を始め行ぜしかども、時移り、儀廃れて、中古より、ただ名ばかり受戒というて、諸国より上り集まりて、戒壇走り巡りたるばかりにて、大小の戒相も知らず、犯制(ぼんせい)1)の行儀もわきまへず、わづかに臈次(らふじ)を数へ、むなしく供養を受くる僧宝2)になり果てて、持斎持律の人跡絶えぬることを歎きて、故笠置の解脱上人3)、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁を選びて、持斎し、律学せしむといへども、時至らざりけるにや、みな正体なきことにてありけれども、堂衆の中に器量の仁をもつて、常喜院といふ所にて、夏中(げちゆう)の間、律学し侍り。持斎すべき供料なんど、はからひおかる。それも夏終れば、持斎もせずして、如法の儀なかりけるに、近ごろ、かの学者の中より発心して、如法の持律の人、世間に多し。かの本願上人の御志の感ずる所にや4)。
さて、かの六人の内に、名も承りしかども忘れ侍り、持斎も破りて、僧房に同宿の児どもあまた置きて、昔の儀廃れ果てて、「児に食はせん」とて、さを河5)といふ川にて、魚を捕らせて、わが身は額突(ひたひつき)の内に居て下知し、弟子の僧火たきて、前の炉にて生きたる魚を煮るに、鍋の湯の熱くなるままに、魚炭櫃(すびつ)に踊り落つ。
愛弟の児、これを取りて、手水桶の水にすすぎて、鍋に入る。房主、これを見て、「よしよし、よくしたり、よくしたり。児どもは、それていにおめぬがよきぞ」と言ふ。同宿の僧、烏帽子引き入れて、火たきけるが、「これは、犯戒には何にて候ふべきぞ」と問へば、「声聞戒(しやうもんかい)には波逸提(はいつだい)、菩薩戒には波羅夷(はらい)なり」と答ふ。
戒相はまことに明々なれども、威儀はことのほかに散々のことにこそ。学と行と違(たが)ひたること、一国の風儀久しくなれるにや。仏法の滅せんことは、天魔外道のあたはざる所なり。わが未来の弟子失ふべし。獅子の死せるをば、余の獣の食することあたはず。獅子の身の中より虫出でて、食するがごとしと説き給へり。
末代の法滅の学者、如法は行ぜずして、名利の価(あたひ)とし、渡世の媒(なかだち)として、聖教を邪妄の情に引き入れ、仏知見の照らす所を、執見(しふけん)6)をもて計度(けたく)して、あるいは無礙(むげ)の見(み)をおこして、因果を撥無(はつむ)し、あるいは証得の思ひをなして、邪行をほしひままにし、みづから損し、ほかを損し、仏法日々に魔滅し、やうやく淪亡(りんまう)して、喉につまれり。悲しむべく惜しむべし。
永嘉大師7)いはく、「豁達して空なり。撥因果。漭々蕩々として悪趣を招く。諸法の空と言ふは、一念不生の無染汚の心なり。ただ情量をもつて、空の道理を心得て、因もな し果もなし」と言ふ。
これ、悪取空の大邪見なり。近代、聖教も知らず、道心もなく、観行もわきまへぬ愚俗・愚僧の中に、このたぐひ多し。これ、甘露を毒薬となすものなるべし。「実際理地には一塵も受けず、仏事門の中には一法を捨てず」と言へり。仮名(けみやう)を破りて、仏法を談じ、因果を信ぜずして、修行を立てんこと、おほきに仏祖の教へにそむけり、このこと、よくよくわきまふべき道理なり。
翻刻
律学生之学與行相違事 唐龍興寺ノ鍳真和尚聖武天皇ノ御宇本朝ニ来テ南都 ノ東大寺鎮西ノ観音寺下野ノ薬師寺三之戒壇ヲ立 給ヒ毘尼ノ正法ヲヒロメ如法ノ受戒ヲ始メ行シカトモ時ウ ツリ儀スタレテ中古ヨリ只名ハカリ受戒トイフテ諸国ヨリ上ア ツマリテ戒壇ハシリメクリタルハカリニテ大小ノ戒相モシラス化 制ノ行儀モワキマヘスワツカニ臈次ヲカソヘ空ク供養ヲウクル僧/k3-103r
実ニナリハテテ持斎持律ノ人跡タエヌル事ヲナケキテ故笠置ノ 解脱上人如法ノ律儀興隆ノ志深クシテ六人ノ器量ノ仁ヲヱ ラヒテ持斎シ律学セシムトイヘトモ時イタラサリケルニヤ皆正体 ナキ事ニテアリケレトモ堂衆ノ中ニ器量ノ仁ヲ以常喜院ト云 所ニテ夏中ノ間律学シ侍リ持斎スヘキ供料ナントハカラヒヲ カル夫モ夏ヲハレハ持斎モセスシテ如法ノ儀ナカリケルニ近比カ ノ学者ノ中ヨリ発心シテ如法ノ持律ノ人世間ニオホシ彼本 願上人ノ御志ノ感スル所ニセサテ彼六人ノ内ニ名モ承シカト モ忘レ侍リ持斎モヤフリテ僧房ニ同宿児共アマタヲキテ昔ノ 儀スタレハテテ児ニクハセントテサヲ河トイフ河ニテ魚ヲトラセテ 我身ハヒタイツキノ内ニヰテ下知シ弟子ノ僧火タキテマヘノ炉 ニテ生タル魚ヲニルニ鍋ノ湯ノアツクナルママニ魚スヒツニヲトリ/k3-103l
オツ愛弟ノ児コレヲトリテ手水桶ノ水ニススキテ鍋ニ入ル房 主此ヲ見テヨシヨシヨクシタリヨクシタリ児共ハソレテイニオメヌカヨキソ トイフ同宿ノ僧烏帽子引入テ火タキケルカコレハ犯戒ニハ何 ニテ候ヘキソト問ヘハ声聞戒ニハ波逸提菩薩戒ニハ波羅夷 也ト答フ戒相ハ誠ニ明々ナレトモ威儀ハコトノ外ニ散々ノ 事ニコソ学ト行トタカヒタル事一国ノ風儀久クナレルニヤ仏 法ノ滅セン事ハ天魔外道ノアタハサル所也ワカ未来ノ弟子 ウシナウヘシ師子ノ死セルヲハ餘ノ獣ノ食スル事アタハス師子ノ 身ノ中ヨリ虫イテテ食スルカコトシト説給ヘリ末代ノ法滅学 者如法ハ行セスシテ名利ノ価トシ渡世ノ媒トシテ聖教ヲ邪妄ノ 情ニ引入レ仏知見ノ照ス所ヲ執シ見ヲモテ計度シテ或ハ無 礙ノミヲオコシテ因果ヲ撥無シ或ハ証得ノ思ヲナシテ邪行ヲホ/k3-104r
シヒママニシ自ラ損シ外ヲ損シ仏法日々ニ魔滅シヤウヤク淪 亡シテ喉ニツマレリ可悲ヲシムヘシ求嘉大師云豁達シテ空ナリ 撥因果漭々蕩々トシテ招悪趣ヲ諸法ノ空ト云ハ一念不生 ノ無染汙ノ心ナリタタ情量ヲ以テ空ノ道理ヲ心得テ因モナ シ果モナシトイフコレ悪取空ノ大邪見也近代聖教モシラス 道心モナク観行モワキマヘヌ愚俗愚僧ノ中ニ此タクヒ多シコ レ甘露ヲ毒薬トナス物ナルヘシ実際理地ニハ不受一塵モ仏 事門ノ中ニハ不捨一法ト云ヘリ仮名ヲヤフリテ仏法ヲ談シ 因果ヲ信セスシテ修行ヲタテン事オホキニ仏祖ノヲシヘニソムケ リ此事能々ワキマフヘキ道理也/k3-104l