沙石集
巻3第1話(21) 癲狂人の利口の事
校訂本文
ある里に、癲狂(てんがう)の病(やまひ)ある男ありけり。この病は、火のほとり、水のほとり、人の多かる中にしておこる、心憂き病なり。俗は「くつち」と言へり。
ある時、大河の岸にして、例の病おこりて、河へ落ち入りぬ。水の上に浮びて、遥かに流れ行きて、河中の洲さきに押し上げられぬ。
とばかりありて、蘇(よみがへ)りて、「こはいかにして、かかる所にあるにや」と思ひめぐらすほどに、「例の病によりて、河へ落ち入りにけり。危(あぶな)かりける命かな」と、あさましく思えて、独り言に、「死にたればこそ、生きたれ。生きたらば、死になまし。かしこくして死してんげる。希有に死ぬらうに」とぞ言ひける。
まことに、大河の流れ疾(はや)く、底深かりければ、息絶えずば、沈みて死になまし。息絶えぬれば、浮ぶことにて、かく助かりぬるを言ひけるに、いみじき利口なり。このことは、広く世間出世にわたりて、仏法の義理までもなずらへ心得つべし。
ある山寺法師に、この物語をせしかば、「わが身にも、これに似たること侍り。師匠の代官に、ある地頭のもとに行きて、師匠にて候ふ老僧、下人の沙汰つかまつり候ふ。ことの子細承るに、由緒ありて召し仕はるべき者なり。『この沙汰やめられ候へ』と弟子ども申し候へども、老いひがみて、くねり腹立ちて用ゐず候ふ間、かの心をすかさんために参りて候ふ。『老僧が僻事(ひがごと)にて、仰せのおもむき、そのいはれあることにて候へば、『しかじかの仰せなり』と申し聞かせて、すかしこしらへ候ふべし。これまでも申し入れ候ふこと、恐れ入りたるよし御披露候へ』とて、われと問注に負けて帰りしを、『この僧は、ものに心得たる者なり。まことに道理はなけれども、御房の言はるる所、感じ思へば、御房にこの下人は奉る』とて、かの下人を賜びしを、再三辞し申し侍りしかども、請け取りて帰り侍りき。これこそ言はば、『負けたればこそ、勝ちたれ。勝ちたらば、負けなまし。かしこくぞ負けてける。希有に負くらうに』と申すべけれ」とて、一座の此興(ひきよう)にて侍りき。かの僧、学生にて、世間出世存知ある僧なりき。
戒律の門に、出家の人のことを言へるには、居家を捨て、親里を離れて、庄園・田畠・奴婢・六畜を貯へず、三衣一鉢を身にしたがへ、四海をもて家とし、百姓の門に立ちて頭陀(づだ)を行ずれば、無尽の食あり、広大の家あり、寺舎はみなわが家なり。田園はことごとくわが食なり。家ある時は、四海、わが家にあらず。田ある時は、諸国わが分にあたらず。さればこそ、言はば、「家なければこそ家あれ。家あらば家あらじ。かしこくぞ家なき。希有に家なかるらうに」と言ひつべけれ。経には、「家ある者は家を愁へ、田ある者は田を愁ふ。牛馬六畜、これなければ、なきことを愁へ、あれば養ひ守(まぼ)ることを愁ふ。あるにつけても愁へ、無きにつけても愁ふ」と説けり。
出家は煩(わづら)ひなく、愁へ少なし。頭陀を行ずれば、世間には賤しき業(わざ)と思へり。仏法の中には、清浄の活命なり。三十二相の中の無見頂(むけんちやう)の因は乞食なり。釈尊1)の三界の独尊たる、すでにその跡を示す。釈子として彼の風を学ばざらんや。
世間の人の愚かなる心、父母(ぶも)・妻子・朋友・眷属(けんぞく)に常に離れずして、「遊び戯(たはぶ)れて楽しまん」とのみ思へども、無常の殺鬼(せつき)、貴賤を選ばず、別離の魔滅、老少を論せず。習ひなれば、事(こと)と心たがひ、楽と苦と伴(とも)なり。されば、「恩愛の絆(きづな)を断ち、無為の家に住まん」と思ひて、俗塵を捨てて、道門に入るべきに、まことの道に入る人をば、愚かなる類は、物狂はしくをこがましきことにのみ思へり。
唐に智巌禅師といひし人は、武徳年中に郎将として、しきりに勲功ありけれども、年四十にして出家して、山の中に行ひけり。昔の友達二人、尋ね行きて、「郎将、狂せりや。何として、ここにおはしますぞ」と言ひける返事に、「わが狂は覚めなんとす。なんぢが狂はまさしくおこれり。色に染み、声を愛し、栄に誇り、寵を頼むは、生死に流転す。何によりてか出離せん」と言ひければ、二人、感歎して去りぬ。仏法を知らず、因果をわきまへぬこそ、狂ぜる人なれ。まことの道に入るを狂ぜりと思はんや。
天竺の勝軍論師は、戒賢三蔵の弟子、玄奘三蔵の師匠なり。天文・地理・内典・外典・大小の教門に明らかなりけり。俗ながら世を遁れて、杖林山といふ所に籠(こも)り居て、勤め行ひけり。戒日大王、召して、「国の師とせん」とて、十八の大なる県を賜びけれども、固く辞して参らず。しひて召されけれども、「人の禄を受けぬれば、人のことを憂ふ。生死の身に纏縈を断たんと思ふ務あり。何の暇ありてか、君につかまつらん」と申しければ、召されず。
まことに、人の恩を蒙(かぶ)りぬれば、人の身となりて、自在ならず。その人に従はねば、恩を知らぬ者なり。その咎(とが)、遁れがたし。さるままに、歎きも煩(わづら)ひも、人のことをわが身に受けつつ、わが身のもとの煩ひの上に、また重ねて苦しきことを請け取る。わづかの世路をわたり、仮なる一身を養はむとして、身を苦しめ、心をいたましむ。あるいは、させる恩もなく、また、あるかひもなきこともあり。また、大なる恩あれば、煩ひ大きに、営みしげく、身危うきこと多し。上に仕(つか)へ、下をかへり見、静かなる心なく、やすき時なし。この世の楽しみなきのみにあらず、暇(いとま)なく暇(ひま)なければ、出離の勤めもなしがたく、道心の心ざしも忘れやすし。「名利は身を助けんため」と思ふばかりにて、名利の身を苦しむることを知らず。これを悲しきことともわきまへず、ただ、かかるべき習ひとのみ、思ひなれたり。かへすがへすも愚かなり。勝軍論師の言、肝に染みてぞ思え侍る。
まことに、仏道を行ぜんと思はん人、世間の妄縁を厭(いと)ひ、菩提の知識に近付くべし。こ のゆゑに、善導和尚の般舟讃(はんじゆさん)にいはく、
普勧同行知識等(普く同行知識等に勧む)
同行相親莫相離(同行あひ親しみて、あひ離るることなかれ)
父母妻児百千万(父母妻児百千万あれども)
非是菩提増上縁(これ菩提の増上縁にあらず)
念々相纏入悪道(念々あひ纏ひて悪道に入る)
分身受報不相知(身を分かち報を受くれば、あひ知らず)
或在猪羊六畜内(或は猪羊六畜の内に在り)
披毛戴角何時了(毛を披(き)、角を戴(いただ)く、何れの時か了ならん)
慶得人身聞要法(人身を得て要法を聞くを慶ぶ)
頓捨他家帰本国(頓(とみ)に他家を捨て本国に帰せよ)
父子相見非常喜(父子あい見て常の喜びに非ず)
まことに仏道に入る因縁、善知識に過ぎたるはなし。父母妻子は、心にかなふ時は愛習を増し、思ひにそむく時は怨心をおこす。とにかくに、輪廻の業をのみ重ぬ。善知識となること、まれなり。
さて、つひに業にまかせて悪道に入り、毛を披(き)、角を戴く畜類となりなば、昔の恩も情も互ひに知るべからず。たまたま人身を受けて、要法を聞く。娑婆の他の郷を捨てて、弥陀2)の本国に帰るべしと勧め給へり。父母妻子、なつかしくそひたくば、まことの道に入るべし。恩を捨てて無為に入るを、真実の報恩の者と言へり。
悉達太子3)、金輪の位を捨てて檀持山へ入り、車匿(しやのく)を王宮へ返し給ひし時、車匿、泣く泣く申さく、「深宮に長(ひと)となり、万人に仰がれましましき。かかる深山に、ただ一人は、いかでか住ませ給ふべき。仕へ奉るべし」と申ししかども、「生死の習ひ、独り生れ独り去る。中間(ちうげん)に何ぞ必ずしも人とともなはん。われ、無上道を得たらん時、一切衆生を伴とすべし」とて、王宮へ返し給ひき。はたして、三界の独尊となり、四生の群類を導き給ひき。
まことに生老病死の国、衆苦充満の界、少しきの前後あれども、そひ果つべきにあらず。夢のごとくして死し去り、面々の業にまかせて品々の果を受けん時は、われも人を知らず、人もわれを知らず、山野の獣と生まれ、江海の鱗(いろくづ)となりなば、互ひに殺し食して、昔の情も恩も知るべからず。
しかれば、真実(しんじち)の菩提心を発(おこ)し、父母妻子の情けを捨てて、山林閑静の居を占め、善友に近付き、正法(しやうぼふ)を聞き、真正に信解(しんげ)し、如説に修行して、生死を離れ、浄土に生じ、無生を証し、神通を得て、種々の方便をもつて、まづ有縁の父母妻子等を教化し、引導して、一仏浄土の快楽(けらく)を受け、無為自然の果報を得て、生老病死の苦もなく、愛別離苦の憂ひもなき、常住不退の無漏(むろ)の仏国に住して、常に十方の仏に仕へ、あまねく六趣の生を利せん時は、昔捨てて今会へることを思ひ続けて、かくこそ申つべけれ。「離れたればこそはなれね。離れずは離れなまし。かしこくぞ離れける。希有に離るらうに」。
西行法師、初発心の時、最愛のいとけなき娘の取り付きたりしを、縁より蹴落して、遁世して後、心強く捨てたりけるよしを詠みしも、この心にこそ。
世を捨つる捨つるわが身は捨つるかは捨てぬ人をぞ捨つるとは見る
この心をもてなずらへて、諸宗の修行法門の肝要を心得べきをや。法相宗には三性の法門を立つ。偏計(へんげ)・依他(えた)・円成(ゑんじやう)なり。
偏計所執といふは、依他の因縁和合の仮(かり)なる相に、実我実法の情をおこす時、情にあたつて現ずる、六趣四生の形これなり。愚夫顛倒して、煩悩をおこし、業を作り、苦を受くること、ひとへに偏計妄情の咎(とが)なり。
依他といふは、一切衆生に八識あり。其中の第八阿頼耶蔵識(あらやざうしき)、諸法の種子、ことごとく具足して、因縁仮合すれば、非有にして有に似たる、染浄の諸法なり。水月鏡像のごとし。
円成実性といふは、真如の妙理、諸法の実性なり。たとへば、麻をもて縄とす。縄において蛇の思ひをなせば、蛇の勢ひ現ずる。偏計所執のごとし。これは情のみありて、その理なし。縄の上に蛇の体用かつてなきがごとし。縄の相、仮にあるは、依他の仮なるがごとし。ただ麻のみ、まことの体あるは円成の理のごとし。偏計は情あり、理はなし。
唯識観の所詮は、偏計の妄情を遣りて、依円の性相を観ず。正体智は円成の理を証し、後得智は依他の相を照らす。無分別の正智は自証、後得智は大悲化他なり。これのゆゑに、偏計の能執所執の情塵を遣りて、如理如量の依円の境界を存するを、観心の大体とす。
天親の頌にいはく、「現前立少物、謂是唯識性。以有所得故、非実住唯識。若時於所縁智、都無所得、爾時住唯識。離二取相故。」と言へり。文の意は、「心に分別して、これこそ唯識の性と知る。念あらば、有所得なり。真如の理にあらず。もし、智にすべて所得なく、智の外に 境なく、境の外に智なくして、智と真如と平等、平等にして空と光と隔てなきがごとく、能取所取の度量(たくりやう)絶え、能縁所縁の観智亡ぜん時、まことに唯識の性に住すべし」と見えたり。まさしくは初地見道の位なりといへども、観行の人、初めより廃詮の観を心にかけて、勝義の理に相応すべしと言へり。
笠置の解脱上人4)の観誘同法の記にいはく、「忘慮息念、不向外而求。無念之念5)是絶妄之利剣。不観之観、則観真之明眼。有機有時、忽然悟解一念不生、即名為仏」と。されば、唯識観成就せん時は、「住せねばこそ、住すれ。住したらば、住せじ。かしこくぞ、住せぬ。希有に住せざらん」と言ふべし。
また、金剛経に、釈迦大師、昔、菩薩の行を行じて、燃灯仏の記を受け給ひしことを説きてのたまはく、「われ、菩提において、小分も所得なし。もし所得あらましかば、燃灯仏、われに記を授け給はじ。所得なかりし時、当作仏の記を得たり」と。されば、釈尊、昔、菩提記を得給へることを、わが国の詞(ことば)にやはらげて説き給はましかば、「得ざれはこそ、得たれ。得たらば、得ざらまし。かしこくぞ得たりし。希有に得ざるらうに」とぞ、説き給はまし。
また、天台智者大師6)、摩訶止観を説きて、円頓行者の観心の用意を教へ給ふには、「初めより実相を縁じ、一念三千の観を凝らして、色香中道の理を達するゆゑに、無縁の智をもて、無相の境を縁す」と釈し給へり。常住の妙境は無相寂然なり。この妙境に相応する観智、必ず無心無縁なるべし。しかれば、古人のいはく、「無道心合人、人無心道合」と。
それ、妙といふは不可思議に名付く。思はるべく議(はか)るべくは、かならず麁なり。妙にあらんゆゑに。大智論7)にいはく、「不可思議亦不可思議、誰信受者。久発心者、乃能信受。云何為久。於一切法、不生分別。名之為久」と言へり。また、地蔵菩薩の進趣大乗経にいはく、「然彼法身、是無分別離念之法也。唯有能滅虚妄識想不起念者、乃所応得」と言へり。
いはんや、法華の正体をあらはす文に、「すでにこの法は思量分別の能く解する所にあらず」と言へり。外に証文を尋ぬべからず。これ、仏の知見なり。能所なきゆゑに、一霊の性知るべからず。されば、「唯此一事実。余二則非真」と言へり。智論8)にいはく、「念想観已除、戯論ノ心寂滅。無量衆罪除、清浄心常一」と言へり。念想はみな虚妄なり。戯論(けろん)なり。ただ、明静の止観をもて、寂照の理智を縁ず。境も如々なり。智も如々なり。如をもて如を縁ず。水を水に入れ、金を金に替(か)ふるがごとし。まことには、照らすこともな く、縁ずることもなし。日月の万物を照らし、明鏡の衆色を映すがごとし。あに心ありて照らし、念ありて浮(うか)べんや。これすなはち、天台の観心の用意なり。
しかれば、円頓の観心、相応の時は、「縁せねば9)こそ、縁すれ。縁せましかば、縁せじ。かしこくぞ、縁せぬ。希有に縁せざらん」と言ふべし。
また、真言教の修行の大意を談ずるには、自心すなはち菩提なり。経には「無知解者無開暁相」と言へり。一行禅師の釈にいはく、「謂覚自心、従本以来、不生即是成仏而実無覚無成也」と言ふ。またいはく、「住此乗者、初発心時即成正覚。不動生死而至涅槃」と。菩提心論にいはく、「菩提心者、名浄法界、名無覚了」と。しかれば、真言教の無相の菩提心を発(おこ)し、自心是仏の悟りを開く姿、ただ阿字の本不生の義理に相応する位なり。
この不生の心地を覚すといふは、自心即菩提一切智々なる時、知解の心もなく、開暁の相もなき時なり。もし、知解の者あらば、自心にそむく。能所分別は虚妄の相なるゆゑに。もし、初めて悟る心あらば、本不生にあらず。始終有無は、無常の法なるがゆゑに。このゆゑに、実には覚もなく成もなしと言へり。この心をもて、真言の無相の観成ぜん時は、「覚せねばこそ、覚すれ。隠せましかば覚せじ。かしこくこそ、覚せぬ。希有に覚せざらん」と言ふべし。
また、禅門には、「直指人身、見性成仏」と言ひて、釈尊、言説の方便をもて、一代の教門を説き終りて、事を得て、最後に、「われに正法眼蔵涅槃妙心あり、なんぢに授く」とて、迦葉に付属し、西天の二十八祖相伝し、達磨大師、梁朝に漢土に渡りて、初祖として、第六の祖慧能大師10)に至るまで、衣を伝へて法の信とす。その後、法をうる人、寰海にあまねしと言へり。
この宗の方便、文字を立せず、義理を存ぜず。直に本性を示し、正しく自心を印す。諸教は、惣持は文字なけれども、文字によせて惣持をあらはし、心体は念相を離れたれども、念相をかて身体をあきらむ。禅門は単伝密印、不立文字の方便なれば、初めより知解情量を許さずして、上々の機を接す。これを直示(じきし)の方便と言ふ。これゆゑに、見性成仏といふも、教への談には、性を見て仏と成ると心得て、能観の智をもて所観の性を見、凡夫の情をあらためて、仏身を得べしと心得つべし。
しかるに、ただこれ見性もと成れる仏なる心地をふみえて、無心無染の工夫をなす。この門の方便なり。古徳のいはく、「無門は解脱の門、無意は道人の意」と。真実の道体は、ただ仏知見なれば、一心の妙体、禅教これ同じなり。ゆゑに荷沢のいはく、「我此禅門一乗妙旨、以無念為宗、無住為本、真空為体。妙有為用。妙有即摩訶般若。真空即清浄涅槃。般若無見能見涅 槃。涅槃無生能生般若。西天諸祖共伝無住之心、同説如来之知見ヲ」。首楞厳経に説を、「知見立知、即無明本。知見無見、此即涅槃。無漏真性也」。達磨大師のいはく、「不見一法名為 見道。不行一物名為行道」と。仏祖の言は、直にわれらが日用の見聞覚知の、凡に在りても減ぜず、聖に居しても増せず、霊々として不昧、了々として常に知なる、自性清浄の処を示して、本来の面目とも、本地の風光とも言へり。
この処を見ん時は、「見ざればこそ、見たれ。見たらば見ざらまし。かしこくぞ見ざりける。希有に見ざるらうに」と言ふべし。
上にいへる顕密禅教の大意、一心を明らめ、真空を悟らしむ。方便を捨てて、実理を達せば、異るべからず。大珠和尚11)いはく、「迷時人逐法、語罷法由人。森羅万像、至空而極、百川衆流、至海而極、一切賢聖、至仏而極。十二部経、五部毘尼、四囲陀論、至心而極。心是惣持都陀、万法之原。亦是大智慧蔵、無住涅槃。百千名号、皆是心之異名也云云」。
一代の教門、空を明むるを大体とす。しかるに、教学の人、禅門をば空に落つと思へり。これ教門に暗きゆゑなり。法華12)には、「如来智是一相一味之法。所謂解脱相離相滅相究竟涅槃常寂滅相。終帰於空」と説き、また、「諸法空為座」と言ひ、「一切諸法空無所有」と言へり。涅槃経には、「迦毘羅城空。大涅槃空」と言へり。大般若13)には、「有一法過涅槃我説如幻」と、円覚経14)には、「非作故無。本性無故」と言へり。真言の祖師、一行禅師は、「一切衆生色心実相。従本際以来、常是毘盧遮那平等智身。非是得菩提強空諸法使成法界也」と釈して、「一切衆生、本来空寂にして、毘盧遮那法界の体なり。菩提を得る時、はじめて空ずるにあらず」と言へり。
されば、空門を真実の門とし、一心を万法の源として、いづれの仏法も修行すべし。これ断滅の空にあらず。悪取空にあらず。偏少の空にあらず。住相の空にあらず。これ第一義、諦の真空なり。
かやうになずらへて思へば、癲狂人が利口、おのづから無窮の義理を含めり。一隅をあぐるに、三隅をもて反ずる、先賢の讃むるところなり。心をとどめて、仏祖の本意を得べし。
仏法の大綱を心得、修行の肝心を知らしめんために、宗々のはしばし聞き及ぶ所、少しき書き付け侍り。才学がましき風情、智人の前にはばかりありといへども、もとより愚かなる人に大乗の法門の大綱を信ぜしめんとなり。もし、結縁の益もあらば、大乗の種子とならんと思ふばかなりなり。
経にいはく、「聞法生謗随於地獄、勝於供養恒沙仏者」と言へり。謗じて地獄に落つる、なほつひに種子となる。解脱の因たるゆゑに。恒沙の仏を供養すとも、有漏の果を受くるは、輪廻をまぬかれず。すべからく、諸宗の旨、みな同じきことを信じて、いづれの方便の門にもとり寄りて、信解修行すべし。是非諍論をやめ、真実の了義を達し、戯論の分別を捨てて、般若の大智を聞くべし。傅大士15)いはく、「論ずるは義にあらず。義は論にあらず」
翻刻
沙石集巻第三 上 癲狂人之利口事 或里ニ癲狂ノ病有ル男アリケリ此ノ病ハ火ノ辺水ノ辺人ノ 多カル中ニシテ発ル心ウキ病也俗ハクツチト云ヘリ或時大河ノ 岸ニシテ例ノ病オコリテ河ヘオチ入ヌ水ノ上ニウカヒテハルカニナ カレ行テ河中ノ洲サキニヲシアケラレヌトハカリ有テヨミカヘリテ コハイカニシテカカル所ニアルニヤト思メクラス程ニ例ノ病ニヨリテ 河ヘオチ入ニケリアフナカリケル命カナトアサマシクオホエテ独コ トニ死タレハコソ生キタレ生キタラハ死ニナマシカシコクシテ死シ テンケルケウニ死ヌラウニトソイヒケルマコトニ大河ノナカレ疾クソ コフカカリケレハ息キ絶スハシツミテ死ナマシ息絶ヌレハウカフ事 ニテカクタスカリヌルヲイヒケルニイミシキ利口ナリ此事ハヒロク/k3-80l
世間出世ニ渡テ仏法ノ義理迄モナスラヘ心エツヘシ或山寺 法師ニ此物語ヲセシカハ我身ニモコレニ似タル事侍リ師匠ノ 代官ニ或地頭ノ許ニユキテ師匠ニテ候老僧下人ノ沙汰仕 リ候事ノ子細承ルニ由緒有テ召仕ハルヘキ者也此沙汰ヤメ ラレ候ヘト弟子共申候ヘトモ老ヒカミテクネリハラタチテモチヰ ス候間カノ心ヲスカサンタメニ参リテ候老僧カ僻事ニテ仰ノヲ モムキ其謂アル事ニテ候ヘハシカシカノ仰也ト申キカセテスカシコ シラヘ候ヘシコレマテモ申入レ候事恐レ入タル由御披露候ヘ トテ我ト問注ニマケテ帰シヲコノ僧ハ物ニ心ヱタル者也誠ニ道 理ハナケレトモ御房ノイハルル所ロ感シ思ヘハ御房ニ此下人 ハタテマツルトテ彼ノ下人ヲタヒシヲ再三辞申侍シカトモ請取 テ帰リ侍キコレコソイハハマケタレハコソ勝タレカチタラハマケナマ/k3-81r
シカシコクソマケテケルケウニマクラウニト申ヘケレトテ一座ノ此 興ニテ侍キ彼僧学生ニテ世間出世存知アル僧ナリキ戒律 ノ門ニ出家ノ人ノ事ヲイヘルニハ居家ヲステ親里ヲハナレテ庄 園田畠奴婢六畜ヲタクハヘス三衣一鉢ヲ身ニシタカヘ四 海ヲモテイヘトシ百姓ノ門ニ立テ頭陀ヲ行スレハ無尽ノ食ア リ広大ノ家アリ寺舎ハ皆我家也田園ハコトコトク我食ナリ 家有時ハ四海我家ニアラス田アル時ハ諸国我カ分ニアタラ スサレハコソイハハ家ナケレハコソ家アレ家アラハ家アラシカシ コクソ家ナキケウニイヘナカルラウニト云ツヘケレ経ニハイヘ有者 ハ家ヲウレヘ田有ル者ハ田ヲ愁フ牛馬六畜コレナケレハナキ事 ヲウレヘアレハ養ヒマホル事ヲウレフ有ルニ付テモウレヘ無ニ付テ モウレフト説ケリ出家ハワツラヒナク愁スクナシ頭陀ヲ行スレハ/k3-81l
世間ニハイヤシキ業ト思ヘリ仏法ノ中ニハ清浄ノ活命也三 十二相ノ中ノ無見頂ノ因ハ乞食也釈尊ノ三界ノ独尊タ ルステニ其跡ヲ示釈子トシテ彼ノ風ヲマナハサランヤ世間ノ人ノ ヲロカナル心父母妻子朋友眷属ニ常ニハナレスシテアソヒタハフ レテタノシマントノミ思ヘトモ無常ノ殺鬼貴賤ヲエラハス別離 ノ魔滅老少ヲ論セス習ナレハ事ト心タカヒ楽ト苦ト伴也サ レハ恩愛ノキツナヲタチ無為ノイヘニスマント思テ俗塵ヲステテ 道門ニ入ヘキニ実ノ道ニ入ル人ヲハヲロカナル類ハ物クルハシク オコカマシキ事ニノミ思ヘリ唐ニ智巌禅師ト云シ人ハ武徳年 中ニ郎将トシテシキリニ勲功アリケレトモ年四十ニシテ出家シテ山 ノ中ニヲコナヒケリ昔ノ友タチ二人タツネユキテ郎将狂セリヤ 何トシテココニ御坐ソト云ケル返事ニ我カ狂ハサメナントス汝カ/k3-82r
狂ハマサシクオコレリ色ニソミ声ヲ愛シ栄ニホコリ寵ヲタノム ハ生死ニ流転スナニニヨリテカ出離セント云ケレハ二人感歎 シテサリヌ仏法ヲシラス因果ヲワキマヘヌコソ狂セル人ナレマコトノ 道ニ入ヲ狂セリト思ハンヤ天竺ノ勝軍論師ハ戒賢三蔵ノ弟 子玄奘三蔵ノ師匠ナリ天文地理内典外典大小ノ教門ニ アキラカナリケリ俗ナカラ世ヲノカレテ杖林山ト云所ニ籠居 テツトメヲコナヒケリ戒日大王召テ国ノ師トセントテ十八ノ大 ナル県ヲ賜ヒケレトモカタク辞シテマイラスシヰテメサレケレトモ人ノ 禄ヲ受ヌレハ人ノ事ヲ憂フ生死ノ身ニ纏縈ヲ断ント思務ア リナニノ暇アリテカ君ニ事ラント申ケレハメサレス実ニ人ノ恩 ヲカフリヌレハ人ノ身トナリテ自在ナラスソノ人ニシタカハネハ恩 ヲシラヌ者ナリ其トカ遁カタシサルママニナケキモワツラヒモ人ノ/k3-82l
事ヲ我身ニウケツツ我カ身ノモトノワツラヒノ上ニ又カサネテク ルシキ事ヲウケトルワツカノ世路ヲワタリ仮ナル一身ヲヤシナハ ムトシテ身ヲクルシメ心ヲイタマシム或ハサセル恩モナク又アルカヒ モナキ事モアリ又大ナル恩アレハワツラヒ大ニイトナミシケク身 アヤウキ事オホシ上ニツカヘ下ヲカヘリミシツカナル心ナクヤスキ 時ナシ此世ノタノシミナキノミニアラスイトマナクヒマナケレハ出 離ノ勤モナシカタク道心ノ心サシモワスレヤスシ名利ハ身ヲタス ケンタメト思フハカリニテ名利ノ身ヲクルシムル事ヲシラス是ヲ カナシキ事共ワキマヘスタタカカルヘキ習トノミ思ナレタリ返々モ ヲロカナリ勝軍論師ノ言肝ニソミテソ覚ヘ侍ル誠ニ仏道ヲ行 セント思ハン人世間ノ妄縁ヲイトヒ菩提ノ知識ニ近ツクヘシコ ノ故ニ善導和尚ノ般舟讃ニ曰/k3-83r
普勧同行知識等 同行相親莫相離 父母妻児百千万 非是菩提増上縁 念々相纏入悪道 分身受報不相知 或在猪羊六畜内 披毛戴角何時了 慶得人身聞要法 頓捨他家帰本国 父子相見非常喜 誠ニ仏道ニ入ル因縁善知識ニスキタルハナシ父母妻子ハ心 ニカナフ時ハ愛習ヲマシ思ニソムク時ハ怨心ヲオコストニカクニ 輪廻ノ業ヲノミカサヌ善知識トナル事マレナリサテツヰニ業ニ マカセテ悪道ニ入リ毛ヲキ角ヲイタタク畜類トナリナハ昔ノ恩 モ情モタカヒニシルヘカラスタマタマ人身ヲウケテ要法ヲキク娑 婆ノ他ノ郷ヲステテ弥陀ノ本国ニカヘルヘシトススメ給ヘリ父/k3-83l
母妻子ナツカシクソヒタクハマコトノ道ニ入ルヘシ恩ヲステテ無 為ニ入ヲ真実ノ報恩ノ者ト云ヘリ悉達太子金輪ノ位ヲス テテ檀持山ヘ入リ車匿ヲ王宮ヘ返シ給シ時車匿泣々申サ ク深宮ニ長ナリ万人ニアヲカレマシマシキカカル深山ニ只一人 ハイカテカ栖セ給ヘキ事ヘ奉ヘシト申シシカトモ生死ノ習独リ 生レヒトリサル中間ニ何ソカナラスシモ人ト伴ナハン我レ無上 道ヲエタラン時一切衆生ヲ伴トスヘシトテ王宮ヘ返シ給キハ タシテ三界ノ独尊ト成リ四生ノ群類ヲ導キ給キマコトニ生 老病死ノ国衆苦充満ノ界スコシキノ前後アレトモソヒハツヘ キニアラス夢ノコトクシテ死シサリ面々ノ業ニマカセテシナシナノ果 ヲウケン時ハ我モ人ヲシラス人モ我ヲシラス山野ノ獣トムマレ 江海ノ鱗トナリナハタカヒニコロシ食シテ昔ノ情モ恩モシルヘカラ/k3-84r
ス然ハ真実ノ菩提心ヲ発シ父母妻子ノナサケヲステテ山林 閑静ノ居ヲシメ善友ニチカツキ正法ヲキキ真正ニ信解シ如説 ニ修行シテ生死ヲハナレ浄土ニ生シ無生ヲ証シ神通ヲヱテ種々 ノ方便ヲ以マツ有縁ノ父母妻子等ヲ教化シ引導シテ一仏 浄土ノ快楽ヲウケ無為自然ノ果報ヲヱテ生老病死ノ苦モ ナク愛別離苦ノ憂モナキ常住不退ノ無漏ノ仏国ニ住シテ常 ニ十方ノ仏ニ事ヘアマネク六趣ノ生ヲ利セン時ハ昔ステテ今 アヘル事ヲ思ツツケテカクコソ申ツヘケレハナレタレハコソハナレネ ハナレスハ離レナマシカシコクソハナレケルケウニハナルラウニ西行 法師初発心ノ時最愛ノイトケナキムスメノトリツキタリシヲ縁 ヨリケオトシテ遁世シテ後心ツヨクステタリケルヨシヲヨミシモ此心 ニコソ/k3-84l
世ヲスツルスツル我身ハスツルカハステヌ人ヲソスツルトハ 見ルコノ心ヲモテナスラヘテ諸宗ノ修行法門ノ肝要ヲ心ウヘ キヲヤ法相宗ニハ三性ノ法門ヲ立ツ偏計依他円成也偏計 所執トイフハ依他ノ因縁和合ノ仮ナル相ニ実我実法ノ情 ヲオコス時情ニアタツテ現スル六趣四生ノ形コレナリ愚夫顛 倒シテ煩悩ヲオコシ業ヲツクリ苦ヲ受ル事ヒトヘニ偏計妄情ノ トカナリ依他トイフハ一切衆生ニ八識アリ其中ノ第八阿頼 耶蔵識諸法ノ種子コトコトク具足シテ因縁仮合スレハ非有ニ シテ有ニ似タル染浄ノ諸法也水月鏡像ノ如シ円成実性ト云 ハ真如ノ妙理諸法ノ実性也タトヘハ麻ヲモテ縄トスナワニヲ ヒテ蛇ノ思ヲナセハ蛇ノイキホヒ現スル偏計所執ノ如シコレハ 情ノミ有テソノ理ナシ縄ノ上ニ蛇ノ体用カツテナキカ如シ縄ノ/k3-85r
相カリニアルハ依他ノカリナルカコトシタタ麻ノミマコトノ体アル ハ円成ノ理ノコトシ偏計ハ情アリ理ハナシ唯識観ノ所詮ハ 偏計ノ妄情ヲ遣テ依円ノ性相ヲ観ス正体智ハ円成ノ理ヲ 証シ後得智ハ依他ノ【相ヲ照ス無分別ノ正智ハ自証後得 智ハ大悲化他也是ノ】故ニ偏計ノ能執所執ノ情塵ヲ遣テ 如理如量ノ依円ノ境界ヲ存スルヲ観心ノ大体トス天親ノ 頌ニ曰ク現前立少物謂是唯識性以有所得故非実住唯 識若時於所縁智都無所得爾時住唯識離二取相故ニ トイヘリ文ノ意ハ心ニ分別シテコレコソ唯識ノ性トシル念アラハ 有所得也真如ノ理ニアラスモシ智ニスヘテ所得ナク智ノ外ニ 境ナク境ノ外ニ智ナクシテ智ト真如ト平等平等ニシテ空ト光ト ヘタテナキカコトク能取所取ノ度量タエ能縁所縁ノ観智亡/k3-85l
セン時実ニ唯識ノ性ニ住スヘシト見ヘタリマサシクハ初地見 道ノ位也トイヘトモ観行ノ人初ヨリ廃詮ノ観ヲ心ニカケテ勝 義ノ理ニ相応スヘシトイヘリ笠置ノ解脱上人ノ観誘同法ノ 記ニ云忘慮息念不向外而求無念念之是絶妄之利剣 不観之観則観真之明眼有機有時忽然悟解一念不生 即名為仏トサレハ唯識観成就セン時ハ住セネハコソ住スレ 住シタラハ住セシカシコクソ住セヌケウニ住セサ覧トイフヘシ又 金剛経ニ釈迦大師昔シ菩薩ノ行ヲ行シテ燃燈仏ノ記ヲウケ 給シ事ヲ説テノ給ハク我菩提ニヲヒテ小分モ所得ナシ若シ 所得アラマシカバ燃燈仏我ニ記ヲサツケ給ハシ所得ナカリシ 時当作仏ノ記ヲヱタリトサレハ釈尊昔シ菩提記ヲエ給ヘル 事ヲ我国ノ詞ニヤハラケテトキ給ハマシカハ得サレハコソエタレ/k3-86r
得タラバ得サラマシカシコクソ得タリシケウニヱザルラウニトソ説 給ハマシ又天台智者大師摩訶止観ヲ説テ円頓行者ノ観 心ノ用意ヲヲシヘ給ニハ初ヨリ実相ヲ縁シ一念三千ノ観ヲ凝 シテ色香中道ノ理ヲ達スル故ニ無縁ノ智ヲモテ無相ノ境ヲ 縁スト釈シ給ヘリ常住ノ妙境ハ無相寂然也コノ妙境ニ相 応スル観智カナラス無心無縁ナルヘシ然ハ古人ノ云ク無道 心合人人無心道合ト夫妙トイフハ不可思議ニ名ク思ハル ヘク議ヘクハカナラス麁也妙ニアラン故ニ大智論ニイハク不可 思議亦不可思議誰信受者久発心者乃能信受云何為 久於一切法不生分別名之為久トイヘリ又地蔵菩薩ノ 進趣大乗経ニ云ク然彼法身是無分別離念之法也唯有 能滅虚妄識想不起念者乃所応得トイヘリ況ヤ法華ノ正/k3-86l
体ヲアラハス文ニステニ是法非思量分別之所能解スルトイ ヘリ外ニ証文ヲタツヌヘカラスコレ仏ノ知見也能所ナキユヘニ 一霊ノ性シルヘカラスサレハ唯此一事実餘二則非真ト云リ 智論ニ云ク念想観已除戯論ノ心寂滅無量衆罪除清浄 心常一ト云リ念想ハ皆虚妄ナリ戯論也タタ明静ノ止観ヲ モテ寂照ノ理智ヲ縁ス境モ如々ナリ智モ如々也如ヲモテ如 ヲ縁ス水ヲ水ニ入レ金ヲ金ニカフルカコトシ実ニハ照ス事モナ ク縁スル事モナシ日月ノ万物ヲ照シ明鏡ノ衆色ヲウツスカコ トシアニ心有テ照シ念有テウカヘンヤ是則天台ノ観心ノ用意 ナリ然レハ円頓ノ観心相応ノ時ハセ縁ネハコソ縁スレ縁セマ シカハ縁セシカシコクソ縁セヌケウニ縁セサラントイフヘシ又真言 教ノ修行ノ大意ヲ談スルニハ自心即菩提也経ニハ無知解/k3-87r
者無開暁相ト云ヘリ一行禅師ノ釈云謂覚自心従本以来 不生即是成仏而実無覚無成也ト又云住此乗者初発 心時即成正覚不動生死而至涅槃ト菩提心論ニ云菩 提心者名浄法界名無覚了ト然レハ真言教ノ無相ノ菩 提心ヲ発シ自心是仏ノ悟ヲ開クスカタ只阿字ノ本不生ノ 義理ニ相応スル位也コノ不生ノ心地ヲ覚ストイフハ自心即 菩提一切智々ナル時知解ノ心モナク開暁ノ相モナキ時ナリ モシ知解ノモノアラハ自心ニソムク能所分別ハ虚妄ノ相ナル 故ニモシハシメテサトル心アラハ本不生ニアラス始終有無ハ無 常ノ法ナルカユヘニコノユヘニ実ニハ覚モナク成モナシト云リ此心 ヲモテ真言ノ無相ノ観成セン時ハ覚セネハコソ覚スレ隠セマシ カハ覚セシカシコクコソ覚セヌケウニ覚セサラント云ヘシ又禅門ニ/k3-87l
ハ直指人身見性成仏トイヒテ釈尊言説ノ方便ヲモテ一代 ノ教門ヲ説終事ヲヱテ最後ニ我ニ正法眼蔵涅槃妙心ア リ汝ニサツクトテ迦葉ニ付属シ西天ノ二十八祖相伝シ達 磨大師梁朝ニ漢土ニ渡テ初祖トシテ第六ノ祖能大師ニ至 ルマテ衣ヲ伝テ法ノ信トス其後法ヲウル人寰海ニアマネシト イヘリ此宗ノ方便文字ヲ立セス義理ヲ存セス直ニ本性ヲ示 シ正ク自心ヲ印ス諸教ハ惣持ハ文字ナケレトモ文字ニヨセテ 惣持ヲアラハシ心体ハ念相ヲ離レタレトモ念相ヲカテ身体ヲ アキラム禅門ハ単伝密印不立文字ノ方便ナレハ初ヨリ知解情 量ヲユルサスシテ上々ノ機ヲ接スコレヲ直示ノ方便トイフ是 故ニ見性成仏トイフモ教ノ談ニハ性ヲ見テ仏ト成ト意得テ/k3-88r
能観ノ智ヲモテ所観ノ性ヲ見凡夫ノ情ヲアラタメテ仏身ヲ得 ヘシト心エツヘシ然ルニタタコレ見性モト成レル仏ナル心地ヲ フミエテ無心無染ノ工夫ヲナスコノ門ノ方便也古徳ノ云ク 無門ハ解脱ノ門無意ハ道人ノ意ト真実ノ道体ハ只仏知 見ナレハ一心ノ妙体禅教コレ同也故ニ荷沢ノ云ク我此 禅門一乗妙旨以無念為宗無住為本真空為体妙有為 用妙有即摩訶般若真空即清浄涅槃般若無見能見涅 槃々々無生能生般若西天諸祖共伝無住之心同説如 来之知見ヲ首楞厳経ニ説ヲ知見立知即無明本知見無 見此即涅槃無漏真性也達磨大師ノ云ク不見一法名為 見道不行一物名為行道ト仏祖ノ言ハ直ニ我等カ日用ノ 見聞覚知ノ凡ニ在テモ減セス聖ニ居シテモ増セス霊々トシテ不/k3-88l
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=87&r=0&xywh=-913%2C-1%2C7010%2C4142
昧了々トシテ常ニ知ナル自性清浄ノ処ヲ示シテ本来ノ面目ト モ本地ノ風光トモ云リ此処ヲ見ン時ハ見サレハコソ見タレ 見タラハ見サラマシカシコクソ見サリケルケウニ見サルラウニト云 ヘシ上ニイヘル顕密禅教ノ大意一心ヲアキラメ真空ヲサトラ シム方便ヲステテ実理ヲ達セハコトナルヘカラス大珠和尚云 迷時人逐法語罷法由人森羅万像至空而極百川衆流 至海而極一切賢聖至仏而極十二部経五部毘尼四囲 陀論至心而極心是惣持都陀万法之原亦是大智慧蔵 無住涅槃百千名号皆是心之異名也云云一代ノ教門空 ヲ明ルヲ大体トス然ニ教学之人禅門ヲハ空ニ落ト思ヘリコ レ教門ニクラキ故也法華ニハ如来智是一相一味之法所 謂解脱相離相滅相究竟涅槃常寂滅相終帰於空ト説/k3-89r
キ亦諸法空為座ト云ヒ一切諸法空無所有ト云ヘリ涅槃 経ニハ迦毘羅城空大涅槃空ト云リ大般若ニハ有一法 過涅槃我説如幻ト円覚経ニハ非作故無本性無故ト云 リ真言ノ祖師一行禅師ハ一切衆生色心実相従本際以 来常是毘盧遮那平等智身非是得菩提強空諸法使成 法界也ト釈シテ一切衆生本来空寂ニシテ毘盧遮那法界ノ体 也菩提ヲ得ル時ハジメテ空スルニアラスト云リサレハ空門ヲ 真実ノ門トシ一心ヲ万法ノ源トシテイツレノ仏法モ修行スヘシ 是断滅ノ空ニアラス悪取空ニアラス偏少ノ空ニアラス住相ノ 空ニアラスコレ第一義諦ノ真空也加様ニナスラヘテ思ヘハ癲 狂人カ利口ヲノツカラ無窮ノ義理ヲフクメリ一隅ヲアクルニ 三隅ヲモテ反スル先賢ノホムルトコロナリ心ヲトトメテ仏祖ノ/k3-89l
本意ヲ得ヘシ仏法ノ大綱ヲ心得修行ノ肝心ヲシラシメンタ メニ宗々ノハシハシ聞及所スコシキ書付侍ヘリ才学カマシキ風 情智人ノ前ニハハカリ有トイヘトモ本ヨリヲロカナル人ニ大乗 ノ法門ノ大綱ヲ信セシメントナリモシ結縁ノ益モアラハ大乗 ノ種子トナラント思ハカナリナリ経ニ云聞法生謗随於地獄勝 於供養恒沙仏者トイヘリ謗シテ地獄ニオツル猶ツヰニ種子ト ナル解脱ノ因タル故ニ恒沙ノ仏ヲ供養ストモ有漏ノ果ヲウク ルハ輪廻ヲマヌカレス須ク諸宗ノ旨ミナ同シキ事ヲ信シテ何ノ方 便ノ門ニモトリヨリテ信解修行スヘシ是非諍論ヲヤメ真実 ノ了義ヲ達シ戯論ノ分別ヲステテ般若ノ大智ヲ聞ヘシ伝大 士云論スルハ義ニアラス義ハ論ニアラス/k3-90r