沙石集
巻2第10話(20) 仏法の結縁、空しからざる事
校訂本文
高野1)に、南証房の検校覚海といふ人は、近ごろの密宗の明匠と聞こえき。先生(せんじやう)のことを知りたく思ひて、大師2)に祈念するに、七生のことを示し給ふ。
「初めは、天王寺3)の西の海に小さき蛤(はまぐり)にてありしが、自然に波に打ち寄せられて、浜にありしを、幼き者、これを取りて、金堂の前に持ちて行く。舎利讃嘆の声を聞きしゆゑに、死して後、天王寺の犬に生まる。常に経・陀羅尼の声を聞きしゆゑに、牛に生まる。大般若4)の料紙を負ふせたりしゆゑに、馬に生まる。熊野詣の者、乗りて参詣せしゆゑに、紫灯たく者と生まれ、常に火の光をもちて人を照らすゆゑに、智慧の業やうやく薫(くん)じて、奥の院の承仕(ぜうじ)と生まれ、三密の行法を常に耳に触れ、目に見る薫習(くんじゆ)のゆゑに、今、検校と生まれたり」と示し給ひけり。
このことを聞くには、仏法の結縁、頼もしくこそ。
律の中にも、在世に、蛤5)、池の中より出でて、仏の法を説き給ふを、草の根にまとはりて聞く時に、牧牛人、知らずして、杖の端(はし)にて刺し殺しつ。聞法の因縁によりて、忉利天に生まれて、神通をもて、すなはち諸天とともに仏所に詣(けい)す。仏、蛤天6)の因縁を説き給ふに、諸天とともに法を聞きて初果を得。
また、天竺に婆羅門ありて、人の髑髏を売る。これを買ふ人、銅(あかがね)の箸をもて、耳の穴を通して、深きには値(あたひ)を多く与へ、浅きには少し与へ、すべて通らぬには与へず。そのゆゑを問へば、「昔、法を聞ける人の耳は穴深し。少しき聞けるは浅し。すべて聞かざるは穴通らず」と言へり。さて、聞法の人の髑髏を買ひて、塔を立て供養せしかば、天に生じけり。いはんや、みづから法を聞き、信解(しんげ)し、修行せんをや。されば、善住天子経7)にいはく、「聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者8)」。
およそ、仏法の中に、結縁を論ずると、現益を説くと、その謂ひはるかに異なり。教門広しといへども、経律論の三蔵に過ぎず。経は定(ぢやう)を詮し、律は戒を説く。論は恵(ゑ)を明らむ。しかるに、律は威儀を本(もと)とし、現益を宗(むね)とし、機嫌をさり、違犯(ゐぼん)を制するゆゑに、たとひその徳あれども、失(しつ)を交ふれば、これを制す。十に一・二も失あれば戒む。
邪命の財(たから)をもて仏を造るをば、清浄(しやうじやう)の比丘は礼すべからずと言へり。涅槃経は、「律を助けて、制門厳しきゆゑに、破戒の比丘、不浄の財を貯(たくは)ふるをば、たとひ知らざれども、供養する人、なほ地獄に入る。清浄の比丘は、一河の水をも飲むべからず」と言へり。律蔵の戒め、大意、少しきの失もこれを制して、徳を許さず。これ、仏法を興隆し、また、とく道果を得(え)しめんためなり。
経の中には、たとひ失あれども、遠き益を見て、機にのぞみてこれを勧む。
十輪経9)の中には、「破戒の比丘の盲目ならん、妻に手引かれ、子を抱(いだ)いて、酒の家より酒の家へ至らんをも、舎利弗・目連のごとく敬はば、福を得(う)べし」と説く。同経には、「瞻富花は萎(しぼ)めりといども、なほ余花にすぐれたり。破戒の比丘は、外道にすぐれたり」と言へり。
心地観経10)には、「破戒なれども、正見の者は国の福田なり」と言へり。「持戒なれども、壊見の物は悪知識」と見えたり。
悲華経11)等にも、「袈裟をかくるほどの者は、必ず解脱すべし」と言へり。ある女人、戯(たはぶ)れに袈裟をかけし因縁に、破戒の比丘尼となり、その因縁、つひに羅漢の果を得(う)と説けり。また、酔(ゑ)ひの中に出家の心をおこし12)、つひに如法出家の縁となると言へり。
大集経(だいじつきやう)13)には、重々の宝に喩へて、「金銀等のなき時は、白錫(びやくしやく)まで宝とす。得道の人なく、ないし持戒・破戒なき時は、ただ髪を剃り、袈裟の片端(かたはし)をも着て、僧の形ならんをば供養すべし。繋縛(けばく)し、殺害(せつがい)すべからず。たとひ犯罪(ほんざい)ありとも、法により寺を出だすべし。もし、王臣、これを繋縛し殺害せば、賢聖(げんじやう)国を去り、災難しばしば来たり、異国競ひて境を犯すべし」と説けり。
されば、経は失あれども、徳を見れば、十に一・二も徳あれば、これを捨てず。たとひ悪趣に落つといへども、遠く菩提を得べき因を見るゆゑなり。不軽軽毀の衆14)のごとし。
これを毒皷の縁と言へり。毒皷の縁といふは、皷に毒を塗りてこれを打つに、声の聞こゆる所の衆生、命を失ふ。法音の、無明悪業のため、毒として滅ぶるに喩へたり。菩薩の論蔵のみ、得失の多少、罪福の軽重を判ぜり。このゆゑに、律に制すとも、結縁のむなしからざることを信じて、善縁を忘れざれ。経にすすむとも、罪障のまじはらんことを察して、福業におごらずして、過(とが)を慎みて、無相15)の善因を志すべし。
この分別は、ただ智慧をもて、軽を捨て重きに付き、失を遠ざかり徳をしたひ、仏道に入る方便をわきまふべし。みだりにあやまるべからず。これは、先達の口伝、聖教の大意なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。これ、三学を明らむる明眼、五蔵を悟る智鍵なり。
翻刻
仏法之結縁不空事 高野ニ南証房ノ検校覚海トイフ人ハ近比ノ密宗ノ明匠ト 聞ヘキ先生ノ事ヲ知タク思テ大師ニ祈念スルニ七生ノ事ヲ/k2-73r
シメシ給初ハ天王寺ノ西ノ海ニ少キ蛤ニテ有シカ自然ニ波ニ 打ヨセラレテ浜ニ有シヲ少キ者コレヲ取テ金堂ノ前ニモチテユ ク舎利讃嘆ノ声ヲ聞シ故ニ死シテ後天王寺ノ犬ニ生ル常 ニ経陀羅尼ノ声ヲ聞シ故ニ牛ニ生ル大般若ノ䉼紙ヲオフセ タリシ故ニ馬ニ生ル熊野詣ノ者ノリテ参詣セシ故ニ紫燈タク 者ト生レ常ニ火ノ光ヲ以人ヲテラス故ニ智慧ノ業ヤウヤク薫 シテ奥院ノ承仕ト生レ三密ノ行法ヲ常ニ耳ニフレ目ニ見ル 薫習ノ故ニ今検校ト生レタリト示シ給ケリ此事ヲキクニハ仏 法ノ結縁タノモシクコソ律ノ中ニモ在世ニ蛤池ノ中ヨリイテテ 仏ノ法ヲ説キ給ヲ草ノ根ニマトハリテ聞ク時ニ牧牛人シラス シテ杖ノハシニテサシコロシツ聞法ノ因縁ニヨリテ忉利天ニ生レ テ神通ヲモテスナハチ諸天ト共ニ仏所ニ詣ス仏蛤天ノ因縁/k2-73l
ヲ説給ニ諸天ト共ニ法ヲ聞テ初果ヲ得又天竺ニ婆羅門有 テ人ノ髑髏ヲウル此ヲカフ人銅ノ箸ヲモテ耳ノ穴ヲトヲシテ深キ ニハアタヒヲ多クアタヘアサキニハスコシアタヘスヘテトヲラヌニハア タヘス其故ヲトヘハ昔法ヲ聞ケル人ノ耳ハ穴深シスコシキ聞ケ ルハアサシスヘテ聞サルハ穴トヲラストイヘリサテ聞法ノ人ノ髑 髏ヲカヒテ塔ヲ立テ供養セシカハ天ニ生シケリイハンヤミツカラ 法ヲキキ信解シ修行センヲヤサレハ善住天子経ニ云聞法生 謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者文凡ソ仏法ノ中ニ結縁 ヲ論スルト現益ヲ説ト其イヒハルカニコトナリ教門ヒロシトイヘ トモ経律論ノ三蔵ニスキス経ハ定ヲ詮シ律ハ戒ヲ説ク論ハ慧 ヲアキラム然ニ律ハ威儀ヲ本トシ現益ヲムネトシ機嫌ヲサリ違 犯ヲ制スル故ニタトヒ其徳アレトモ失ヲマシフレハコレヲ制ス十/k2-74r
ニ一二モ失アレハイマシム邪命ノ財ヲモテ仏ヲ造ヲハ清浄ノ 比丘ハ礼スヘカラストイヘリ涅槃経ハ律ヲタスケテ制門キヒシ キ故ニ破戒ノ比丘不浄ノ財ヲタクハフルヲハタトヒシラサレトモ 供養スル人猶地獄ニ入ル清浄ノ比丘ハ一河ノ水ヲモノムヘ カラストイヘリ律蔵ノイマシメ大意スコシキノ失モ是ヲ制シテ徳ヲ ユルサスコレ仏法ヲ興隆シ又トク道果ヲエシメン為ナリ経ノ中 ニハタトヒ失アレトモ遠キ益ヲ見テ機ニノソミテコレヲススム十 輪経ノ中ニハ破戒ノ比丘ノ盲目ナラン妻ニ手ヒカレ子ヲイ タイテ酒ノ家ヨリ酒ノ家ヘイタランヲモ舎利弗目連ノコトクウ ヤマハハ福ヲウヘシト説同経ニハ瞻冨華ハ萎リトイヘトモ猶餘 華ニスクレタリ破戒ノ比丘ハ外道ニスクレタリトイヘリ心地観 経ニハ破戒ナレトモ正見ノ物ハ国ノ福田ナリト云リ持戒ナレ/k2-74l
トモ壊見ノ物ハ悪知識トミヘタリ悲華経等ニモ袈裟ヲカクル ホトノ者ハカナラス解脱スヘシト云リ或ル女人タハフレニ袈裟 ヲカケシ因縁ニ破戒ノ比丘尼トナリ其因縁ツヰニ羅漢ノ果 ヲ得ト説ケリ又酔ノ中ニ出家ノ心ヲオコシシツヰニ如法出家 ノ縁トナルトイヘリ大集経ニハ重々ノ宝ニタトヘテ金銀等ノ ナキ時ハ白錫マテ宝トス得道ノ人ナク乃至持戒破戒無時 ハタタ髪ヲ剃袈裟ノカタハシヲモキテ僧ノカタチナランヲハ供養 スヘシ繋縛シ殺害スヘカラスタトヒ犯罪アリトモ法ニヨリ寺ヲイ タスヘシ若シ王臣コレヲ繋縛シ殺害セハ賢聖国ヲ去災難シハ シハ来リ異国キソイテ境ヲヲカスヘシト説ケリサレハ経ハ失アレ トモ徳ヲ見ハ十ニ一二モ徳アレハコレヲステスタトヒ悪趣ニオ ツトイヘトモ遠ク菩提ヲウヘキ因ヲ見ル故也不軽々毀ノ衆ノ/k2-75r
如シコレヲ毒皷ノ縁トイヘリ毒皷ノ縁トイフハ皷ニ毒ヲヌリテ コレヲウツニ声ノ聞ユル所ノ衆生命ヲウシナフ法音ノ無明悪 業ノタメ毒トシテホロフルニタトヘタリ菩薩ノ論蔵ノミ得失ノ多 少罪福ノ軽重ヲ判セリ是故ニ律ニ制ス共結縁ノムナシカラ サル事ヲ信シテ善縁ヲワスレサレ経ニススム共罪障ノマシハラン 事ヲ察シテ福業ニヲコラスシテ過ヲツツシミテ無明ノ善因ヲ志 スヘシ此分別ハ只智慧ヲモテ軽ヲステ重キニ付キ失ヲトヲサカ リ徳ヲシタヒ仏道ニ入ル方便ヲワキマフヘシミタリニアヤマルヘ カラスコレハ先達ノ口伝聖教ノ大意ナリユメユメワスルル事ナカ レ是三学ヲアキラムル明眼五蔵ヲサトル智鍵也 沙石集巻第二下終 神護寺 迎接院/k2-75l