沙石集
巻2第7話(17) 不動利益の事
校訂本文
信州のある山中に、貴き上人ありけり。三密の修行久しく薫修(くんじゆ)し、弟子・門徒多かりけり。
年たけて後、病に臥して、たのみなく見えけるが、魔障と思えて、眼の性も正しからず。心地も例ならず見えければ、弟子ども、「臨終正念のため」と思ひて、慈救(じく)の呪を誦して、一心に祈念しけり。
その中に、行ひ人の一人ありけるが、ことに至誠心をおこして、頭より黒煙(くろけぶり)を立て、声を尽し、汗を流し、勇猛(ゆうみやう)に満てけり。余の僧どもは満て、休みてこれを見るほどに、一時ばかりせめて後、大息つきて、ものも言はず。
「いかに、いかに」と、人ども問へば、少し休みて申しけるは、上人の仏道を障(さ)へ奉らんとて、もろもろの魔界の数も知らず目に見えつれば、「上人を助け奉らん」と思ひて、身命を捨てて、勇猛強盛(ゆうみやうかうじやう)に呪を満て侍りつるが、信心骨に通りて思えつる時に、不動の剣を振りて払ひ給ふと思えて、心地少し落ちゐて侍り」といふ。
上人も、眼の性治り、心地も明々として、臨終の用意おだやかにして、この行人のことを随喜し、年ごろの本尊・ 仏舎利、むねとの弟子よりも、この行人に伝へて、臨終如法にめでたかりけり。
さるほどに、次の日、年ごろの檀那の入道、馳せ来て、「昨日の夜の夢に、もろもろの魔界、上人の御菩提を妨げんとするところに、不動明王、追ひ払ひ給ひて、御臨終めでたくおはしますと見て候ふ」となん。このこと方々同様なれば、「疑ひなく、不動の御方便によりて、菩提の道におもむき給ひぬらん」と、門徒、歎きの中に悦びあへり。
経には、「南浮(なんぶ)の衆生は、三障重きかゆゑに、不動を念ずべし」と言へり。わづかの善に、なほ障りあり。まことしく菩提心も行業もあらば、いよいよ障りあるべし。このゆゑに、「道高ければ、魔盛んなり」と言へり。
古徳の口伝には、「不動1)と地蔵2)の力離れては、生死を出づることなし」と言へり。地蔵は大日3)の慈悲の極まり、不動は大日の智慧の極まりなり。世間の万物、陰陽の和合によりて生長するがごとく、出世の菩提、悲智の方便によりて成就すべし。神呪をも持(たも)ち、名号をも唱へて、魔界の障碍(しやうげ)を払ひ、臨終の正念を祈るべし。
仏菩薩の利益は、行者まことある時、感応あらはる。鐘の打つにしたがひて音を出だし、谷の音にしたがひて響きをおこすがごとし。金石の意なき、人の叩くによりて、なほ音を出だす。仏神の誓ひある者の、信ずるによて、何ぞ徳を施さざらん。感応の滞ることは、信心のおろそかなるゆゑなり。
世の人、主君の恩を蒙るも、志まことありて、身命を惜しまぬほどの忠あるに、その恩も恵みもあり。合戦の庭に、命を捨つるがごとし。しかるに、その恩はわづかに一期(いちご)4)の身命を助く。当来の菩提の因縁とならず。たとひ妻子をはぐくめども、冥途の伴侶とならず。あるいは、その恩なきこともあり。また、あれども幾(いくばく)のことなし。また、たとひ大きなる恩あれども、公役(くやく)多く営みしげければ、わが得分、いくばくなし。これによりて、身も疲れ、心も苦し。面目なきこともあり。恥辱なることもあり。かかるわづかの恩のために、なほ身を捨つる習ひなり。
いはんや、仏法の利益は、ただ今生一世のみにあらず。つひに必ず断ちがたき無始の輪廻を断ち、入りがたき常住の妙道に入る。これがために誰(たれ)か身命を惜しまん。仏法の利益は、たとひ今生のためと思ふも、なほ二世の利益あり。
経の中に喩へを出だせり。「仏の所にして、なすところの善根は、たとひ世間のためと思へども、つひに解脱の因となる。喩へば、長者の田の種子を蒔き、水を引き、時にしたがひつくろひて後、『この種子、長ぜざれ』と言ふとも、必ずその果を得るがごとし」と言へり。
また、真言の功能を一行禅師、釈し給はく、「行者、たとひ有相の悉地(しつち)をなし、世間の福徳のために行すれども、三密薫修(さんみつくんじゆ)して、つひに仏果をなす」と言へり。世間の水は、必ず大海に入る。これ、大海は、水の惣体なるゆゑに。一切の善は、必ず法性に帰す。法性は、これ諸善の惣体なるゆゑに。しかれども、行者菩提に廻向する時は、悉地すみやかなり。有相に住着する時は、利益滞る。終(つい)の利益はむなしからねども、当時の得益は行者の心向きによるべし。
この道理を知りて、真実の智慧を習ひ、勇猛の精進を励みて、五陰(ごおん)5)の重担を捨て、三身の妙果に登るべし。
翻刻
沙石集巻第二 下 不動利益事 信州ノ或山中ニ貴キ上人有ケリ三密ノ修行久ク薫修シ弟 子門徒多カリケリ年タケテ後病ニ臥テタノミナク見エケルカ 魔障ト覚テ眼ノ性モタタシカラス心地モ例ナラス見ヘケレハ弟 子共臨終正念ノ為ト思テ慈救呪ヲ誦シテ一心ニ祈念シケリ 其中ニ行ヒ人ノ一人有ケルカコトニ至誠心ヲオコシテ頭ヨリ黒 煙ヲタテ声ヲツクシ汗ヲ流シ勇猛ニミテケリ餘ノ僧共ハミテヤ スミテ是ヲ見ル程ニ一時計セメテ後大息ツキテ物モイハスイカ ニイカニト人共問ヘハスコシヤスミテ申ケルハ上人ノ仏道ヲサヘタ テマツラントテモロモロノ魔界ノ数モシラス目ニ見ヘツレハ上人 ヲ助ケ奉ラント思テ身命ヲステテ勇猛強盛ニ呪ヲミテ侍ツル/k2-60l
カ信心骨ニトヲリテ覚ツル時ニ不動ノ剣ヲフリテハラヒ給ト覚 テ心地スコシオチヰテ侍トイフ上人モ眼ノ性ナヲリ心地モ明 明トシテ臨終ノ用意オタヤカニシテコノ行人ノ事ヲ随喜シ年来ノ 本尊仏舎利ムネトノ弟子ヨリモコノ行人ニツタヘテ臨終如 法ニ目出カリケリサル程ニ次日年来ノ檀那ノ入道ハセ来テ 昨日ノ夜ノ夢ニ諸ノ魔界上人ノ御菩提ヲサマタケントスル所 ニ不動明王ヲヒハラヒ給テ御臨終目出御坐ト見テ候トナン 此事方々同様ナレハ疑ナク不動ノ御方便ニヨリテ菩提ノ 道ニオモムキ給ヌラント門徒歎ノ中ニ悦アヘリ経ニハ南浮ノ 衆生ハ三障重キカ故ニ不動ヲ念スヘシトイヘリワツカノ善ニ 猶サハリアリマコトシク菩提心モ行業モアラハイヨイヨサハリアル ヘシ此故ニ道タカケレハ魔盛ナリトイヘリ古徳ノ口伝ニハ不/k2-61r
動ト地蔵ノ力ラハナレテハ生死ヲ出事ナシトイヘリ地蔵ハ大 日ノ慈悲ノ極リ不動ハ大日ノ智慧ノ極リナリ世間ノ万物 陰陽ノ和合ニヨリテ生長スルカ如ク出世ノ菩提悲智ノ方 便ニヨリテ成就スヘシ神呪ヲモタモチ名号ヲモ唱テ魔界ノ障 㝵ヲハラヒ臨終ノ正念ヲ祈ヘシ仏菩薩ノ利益ハ行者誠ア ル時感応アラハル鐘ノ打ニ随テ音ヲイタシ谷ノ音ニ随ヒテ響 ヲオコスカ如シ金石ノ意ナキ人ノタタクニヨリテ猶音ヲイタス仏 神ノ誓アル物ノ信スルニヨテ何ソ徳ヲホトコササラン感応ノトト コホル事ハ信心ノオロソカナル故也世ノ人主君ノ恩ヲ蒙ルモ 志マコト有テ身命ヲオシマヌホトノ忠有ニ其恩モメクミモアリ 合戦ノ庭ニ命ヲスツルカ如シ然ニ其恩ハワツカニ一胡ノ身命 ヲタスク当来ノ菩提ノ因縁トナラスタトヒ妻子ヲハククメトモ/k2-61l
冥途ノ伴侶トナラス或ハ其恩ナキ事モ有又アレトモ幾ノ事 ナシ又タトヒ大ナル恩アレトモ公役オホクイトナミシケケレハ我 得分イクハクナシコレニヨリテ身モツカレ心モクルシ面目ナキ事 モ有リ恥辱ナル事モ有リカカルワツカノ恩ノタメニ猶身ヲスツル ナラヒナリイハンヤ仏法ノ利益ハタタ今生一世ノミニアラスツ ヰニ必ス断チカタキ無始ノ輪廻ヲタチ入リカタキ常住ノ妙道 ニ入ルコレカ為ニタレカ身命ヲ惜マン仏法ノ利益ハタトヒ今 生ノタメト思モ猶二世ノ利益有経ノ中ニ喩ヲイタセリ仏ノ 所ニシテナストコロノ善根ハタトヒ世間ノタメト思ヘ共ツヰニ解脱 ノ因トナルタトヘハ長者ノ田ノ種子ヲマキ水ヲヒキ時ニシタカヒ ツクロヒテ後コノ種子長セサレト云トモカナラス其果ヲウルカ如 シト云ヘリ又真言ノ功能ヲ一行禅師釈シ給ハク行者タトヒ/k2-62r
有相ノ悉地ヲ成シ世間ノ福徳ノ為ニ行スレ共三密薫修シテ ツヰニ仏果ヲ成ストイヘリ世間ノ水ハ必ズ大海ニ入ルコレ大 海ハ水ノ惣体ナル故ニ一切ノ善ハ必ス法性ニ帰ス法性ハ 是諸善ノ惣体ナル故ニ然トモ行者菩提ニ廻向スル時ハ 悉地スミヤカナリ有相ニ住著スル時ハ利益トトコホルツイノ 利益ハムナシカラネトモ当時ノ得益ハ行者ノ心ムキニヨルヘシ コノ道理ヲ知テ真実ノ智慧ヲナラヒ勇猛ノ精進ヲハケミテ五 陰ノ重担ヲステ三身ノ妙果ニ登ルヘシ/k2-62l