沙石集
巻2第5話(15) 地蔵、人を看病し給ふ事
校訂本文
鎌倉に帥僧都(そちのそうづ)とかや聞こえし、密宗1)の明匠、齢八旬に及びて、若き弟子の器量の仁ありけるに、秘法をも伝授し、印信をも許したく思ふに、この僧、年十九になりければ、灌頂をも許さず。しかも、風気重かりければ、老耄(らうまう)の上、病(やまひ)さへ日重なりて、伝法のむなしからんことを歎きて、弟子の僧どもに、炎魔天供(えんまてんぐ)して命を延べて、この僧に灌頂授けて、慧命を継がんと思ふよし、申し合はす。
弟子ども、「この御年にて、御祈祷は人聞きもしかるべからず。せんなきことなり」と諫(いさ)め申しけれども、「わが命の惜しきにはあらず。法命をこそ惜しめ。人はいかにも言へ。痛む所なし。法のため、百日の暇(いとま)申さんに、炎魔王2)、などか賜はざるべき」とて、行法始めさせ、また、十月の初めなりけるに、正月には灌頂行ふべき用意にて、百日の加行(けぎやう)同じく始む。
さるほどに、心地例ざまになりて、要法なんど、かつがつ伝授しけり。さて、「わが身には密教の肝心を伝へて、弥陀3)と地蔵4)と一体の習ひを知れり。しかれば、『大乗の法にあへるしるしに、地蔵菩薩に随逐(ずゐちく)し奉りて、光明真言誦して、地獄の衆生を加持せんと思ふなり。されば、いづれの日死せりとも、二十四日にわが月忌(ぐわつき)をばすべし。やがて、今月二十四日より月忌始めよ」とて、伊予の阿闍梨といふ弟子に、十月に月忌始めてけり。
さて、正月十四日、灌頂の作法、違乱なく行ひ終りて、十五日より、また病重りぬ。「今は思ふことなし」とて、聖財世宝(ひやうざいせざい)の付属、没後中陰の用意なんど申し置きて、ひとへに臨終の支度なり。
病重りて日数経て、看病の人、うち休みける時、若き僧の、見目(みめ)・形美しきが、えもいはず看病するあり。誰(たれ)とも知らず。両三日のほど、日ごとに看病するを、「これ、いかなる人ぞ」と問へども、余(よ)の人の目には見えねば、知る人なし。ことの詳細を聞きて、弟子ども、「地蔵菩薩の御看病候ひけるにや」と言へば、「げにげに、さもあるらん。帰り給ひつるが、錫杖をうちかたげて見え給ひつるぞや。あらかたじけなや」とて、感涙抑へがたし。弟子どもも、随喜の涙を流しけり。
さて、正月二十四日、端座し、印結び、弟子の僧どもに、阿弥陀の大呪、地蔵の宝号なんど唱へさせて、禅定に入るがごとくして終りぬ。
かの弟子の僧の物語なり。まことに地蔵の御利益にこそ。
およそ、諸仏菩薩の内証(ないしよう)・外用(げゆう)を論ずるに、内証は自性・法身・毘盧の全体なり。外用の諸尊は、法王の一官をつかさどり、法界の一門に出でて、本誓・悲願別々にして、万機を利益し給ふ。
しかるに、地蔵薩埵は闡提(せんだい)の悲願をおこし、本師の付属を受け、無仏の導師として、悪趣の利益を先とし給ふこと、もろもろの賢聖にすぐれ給へり。されば、十輪経5)には、「普賢・文殊・観音・弥勒の恒沙(ごうしや)の菩薩の所にして、百劫の間、念誦し、礼拝し、供養して、もろもろの所求(しよぐ)を祈らんよりは、しかじ、地蔵の所にして、一食の間、念誦し、礼拝して、所願を求めんには。久しく大願悲願を修して、勇猛精進なること、もろもろの菩薩に過ぎたればなり」と説き給へり。これみな、かたどる方ありて、互ひにしばらく勝劣を論ずるゆゑなり。
釈迦大師も、その器量を見そなはして、「われ入滅の後、弥勒出世の前(さき)の衆生を付属す」と仰せられて、心やすく御入滅ありき。久住娑婆6)の菩薩、恒沙のごとし。智慧・慈悲・神通・妙用、いづれかおろかにおはします。されども、選びすぐりて、付属の仁に当り給へり。しかれば、滅後には別の本尊を仰ぐべからず。当職の能化(のうけ)、濁世(じよくせ)の導師なり。末代の衆生、ひとへにこの尊を憑(たの)むべし。
機感相応の日は、いづれも利益有れども、この菩薩は、諸仏菩薩の中に、ことにわれら有縁の菩埵なり。そのゆゑは、釈尊の一代の教主たる化縁、薪(たきぎ)尽きて、実報寂光(じつはうじゃやくくわう)の都(みやこ)へ帰り給ひぬ。常在霊山(じやうざいりやうぜん)の色身も、われらがためには、すでに隔りぬ。弥陀の六八の願王たる、十万億の国を隔てて、花池宝閣(けちほうかく)の間にましませば、三心念仏の機ならずは、摂取の光明にも漏れぬべきに、地蔵薩埵は慈悲深重のゆゑに、浄土にも居し給はず。有縁尽きざるゆゑに、入滅をも唱へ給はず、ただ悪趣をもつて住処(すみか)とし、もはら罪人をもつて友とす。
釈尊も三乗根性の熟せる7)時節を待ちて、八相の化儀を示し、弥陀も念仏衆善の功積れる冥目のきざみにこそ、三尊の来迎をも垂れ給へ。この菩薩は、機根の熟するをも8)待たず。臨終の夕べともいはず、とこしなへに六種の衢(ちまた)に立ち、旦暮(たんぼ)に四生の族(やから)にそうて、縁なき衆生すらなほ助け給ひ、夷(えびす)にも見え給ふとかや。いはんや、一沙一塵の善根もあれば、龍の水を得、虎の山に寄るがごとし。八寒八熟泥梨(ないり)の苦患を助け、人中天上諸仏の浄土へ送り給ふをや。「わが浄土は、上品(じやうぼん)は安養知足、中は伽羅陀山(からだせん)・補陀落山(ふだらくせん)、下は福舎人天(ふくしやにんでん)の善趣なり」とこそ、のたまふなれ。末代の愚痴無慙の道俗、当来の生処悪趣、逃れがたし。誰の心あらん人か、この尊に功を入れ、志をはこばざらん。
地蔵の御事、顕密にともに頼もしきことのみ侍り。建仁寺の本願僧正9)の口伝に、「地不の決」とて、一巻の秘書あり。その中の肝心に、「地蔵は大日の柔軟の方便の至極、不動10)は剛強方便の至極」と言へり。ただ、折伏摂受(しやくぶくせふじゆ)の至極なり。世間の文武の政務の、四海を治するがごとし。強軟の方便、万機を摂し給ふ。法王の治化なり。
慧心僧都11)の妹、安養の尼、絶入(ぜつにふ)の時、修学院僧正勝算、火界の呪を誦し、僧都、地蔵の宝号を唱へて祈念せられけるに、不動、火炎の前に押し立ち、地蔵、手を引きて帰らせ給ふと見て、蘇生しけり。
また、慧心僧都の給仕の弟子、頓死す。物にとらはるるやうなりければ、不動の慈救(じく)の呪を誦せしめ、僧都、地蔵の宝号を12)唱へらる。蘇生して申しけるは、「男ども四・五人具してまかりつるを、若き僧の乞ひ給ひつれども、なほ逃げにくく追ひ立てて行くを、この僧、『われにこそ惜しむとも、是非も言はず取り返す者のあらんずるを』とのたまふほどに、びんづら結ひたる童子の二人、白杖持ちたるが、男どもを追ひ払ひて、取り返して、若き僧に受け取らせ給ひつれば、『さて、具して帰り給ふ』と思ひて、生き出で侍り」と言ひけり。
これこそ、げに軟らかに地蔵は振舞ひ給ふ。不動は荒らかにして助け給ふ。かの口伝にあひかなへり。地蔵・不動の方便離れては、すべて生死出づまじきよし見えたり。
地蔵は六趣四生の苦を助け給ふ。諸仏菩薩の利生にすぐれたり。不動は三障四魔の障りを除き給ふこと、また諸尊にすぐれ給へり。六趣を出でず、四魔を去らずして、誰か解脱の門に入らん。よくよく思ひとくべし。
永仁三年十一月二十一日、この書、文字謬(あやま)りあり。少々書き入れたきこと候ふままに、満七十の老眼を拭ひて、悪筆ながら少々裏書仕り候ひ畢(お)はんぬ。本愚老、これを草す。不意に草案のままにて、洛陽披露、闇顕につけて、その憚り多し。ただ愚俗の一念の信心を勧めん為なり。智人の前に勧めがたく侍り。
沙門 無住
翻刻
地蔵之看病給事 鎌倉ニ帥僧都トカヤ聞ヘシ密宗ノ明匠齢八旬ニ及テワカキ 弟子ノ器量ノ仁有ケルニ秘法ヲモ伝授シ印信ヲモユルシタク 思ニ此僧年十九ニ成ケレハ灌頂ヲモユルサスシカモ風気ヲモ/k2-48r
カリケレハ老耄ノ上病サヘ日カサナリテ伝法ノムナシカラン事ヲ ナケキテ弟子ノ僧共ニ炎魔天供シテ命ヲノヘテ此僧ニ灌頂 サツケテ慧命ヲツカント思フ由申合ス弟子共此御年ニテ御 祈祷ハ人聞モ不可然詮ナキ事也ト諫メ申シケレトモ我命 ノ惜ニハアラス法命ヲコソオシメ人ハイカニモイヘイタム所ナシ法 ノ為百日ノ暇申サンニ炎魔王ナトカタマハサルヘキトテ行法始 サセ又十月ノ初ナリケルニ正月ニハ灌頂ヲコナフヘキ用意ニ テ百日ノ加行同ク始ム去程ニ心地例サマニ成テ要法ナント 且伝授シケリサテ我身ニハ密教ノ肝心ヲ伝ヘテ弥陀ト地蔵 ト一体ノ習ヲ知レリ然ハ大乗ノ法ニアヘルシルシニ地蔵菩薩 ニ随逐シ奉テ光明真言誦シテ地獄ノ衆生ヲ加持セント思 ナリサレハ何レノ日死セリトモ廿四日ニ我月忌ヲハスヘシヤカ/k2-48l
テ今月廿四日ヨリ月忌始ヨトテ伊予ノ阿闍梨ト云弟子ニ 十月ニ月忌始テケリサテ正月十四日灌頂ノ作法違乱ナ クオコナヒヲハリテ十五日ヨリ又病オモリヌ今ハ思事ナシトテ 聖財世宝ノ付属没後中陰ノ用意ナント申ヲキテ偏ニ臨終 ノ支度也病ヲモリテ日数経テ看病ノ人ウチヤスミケル時ワカキ 僧ノミメカタチウツクシキカエモイハス看病スル有タレトモシラス 両三日ノ程日毎ニ看病スルヲ此イカナル人ソトトヘトモヨノ 人ノ目ニハ見ヘネハ知人ナシ事ノ詳細ヲ聞テ弟子共地蔵菩 薩ノ御看病候ケルニヤトイヘハケニケニサモアルラン帰リ給ツルカ 錫杖ヲウチカタケテ見ヘ給ツルソヤアラカタシケナヤトテ感涙ヲサ ヘカタシ弟子共モ随喜ノ涙ヲナカシケリサテ正月二十四日 端坐シ印ムスヒ弟子ノ僧共ニ阿弥陀ノ大呪地蔵ノ宝号ナン/k2-49r
トトナヘサセテ禅定ニ入カ如クシテヲハリヌ彼弟子ノ僧ノ物語 也誠ニ地蔵ノ御利益ニコソ凡ソ諸仏菩薩ノ内証外用ヲ論 スルニ内証ハ自性法身毘盧ノ全体也外用ノ諸尊ハ法 王ノ一官ヲツカサトリ法界ノ一門ニ出テ本誓悲願別々ニ シテ万機ヲ利益シ給フ然ニ地蔵薩埵ハ闡提ノ悲願ヲオコシ本 師ノ付属ヲウケ無仏ノ導師トシテ悪趣ノ利益ヲサキトシ給事 諸ノ賢聖ニスクレ給ヘリサレハ十輪経ニハ普賢文殊観音弥 勒ノ恒沙ノ菩薩ノ所ニシテ百劫之間念誦シ礼拝シ供養 シテ諸ノ所求ヲイノランヨリハシカシ地蔵ノ所ニシテ一食ノ間念 誦シ礼拝シテ所願ヲモトメンニハ久ク大願悲願ヲ修シテ勇 猛精進ナル事諸ノ菩薩ニスキタレハナリト説給ヘリ是ミナカ タトル方アリテ互ニ且ク勝劣ヲ論スル故ナリ釈迦大師モ其/k2-49l
器量ヲ見ソナハシテ我入滅ノ後弥勒出世ノサキノ衆生ヲ付 属スト仰ラレテ心ヤスク御入滅有キ旧住娑婆ノ菩薩恒沙 ノ如シ智慧慈悲神通妙用イツレカヲロカニ御坐スサレトモエ ラヒスクリテ付属ノ仁ニアタリ給ヘリ然レハ滅後ニハ別ノ本尊 ヲ仰クヘカラス当職ノ能化濁世ノ導師ナリ末代ノ衆生偏ニ 此尊ヲ憑ヘシ機感相応ノ日ハイツレモ利益有トモ此菩薩ハ 諸仏菩薩ノ中ニ殊ニ我等有縁ノ薩埵ナリ其故ハ釈尊ノ 一代ノ教主タル化縁タキキ尽テ実報寂光ノ都ヘ帰給ヌ常 在霊山ノ色身モ我等カ為ニハ既ニ隔リヌ弥陀ノ六八ノ願 王タル十万億ノ国ヲヘタテテ花池宝閣ノ間ニマシマセハ三心 念仏ノ機ナラスハ摂取ノ光明ニモモレヌヘキニ地蔵薩埵ハ慈 悲深重ノ故ニ浄土ニモ居シ給ハス有縁尽サル故ニ入滅ヲモ/k2-50r
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