沙石集
巻1第10話(10) 浄土門の人、神明を軽んじて罰を蒙る事
校訂本文
鎮西に、浄土宗の学生の俗ありけり。所領の中の神田を検注(けんちゆう)して、余田(よでん)を取る間、社僧・神官ら、憤り申す。鎌倉にて訴訟しけれども、「余田を取ること、地頭の申すところ、一分の道理」とて、無沙汰なりける間、地頭になほなほ申すに、おほかた許さず。
はては、「呪咀し奉らん」と言ひけれども、いささかも恐るることなし。「いかにも呪咀せよ。浄土門の行人、神明なんど何とか思ふべき。摂取の光明を蒙(かう)ぶらん行人をば、神明もいかで罰し給ふべき」とて、おこづきあざむきけり。
さて、神人ども、憤り深くして、呪咀しけるほどに、いくほどなく悪(わろ)き病つきて、物狂(くる)はしかりければ、母の尼公、おほきに驚きて、「わが孝養とも思ひて、神田を返し参らせて、おこたり申し給へ」と、泣く泣く申しけれども、用ゐず。
病、次第に重りて、たのみなく見えければ、母、思ひかねて、神明をおろし奉りて、病者のもとへ使をやりて、「まげて神田返し参らせ、おこたり申して、神田をもなほそへて参らせ給へ」と言ふに、病人、物狂はしき気色にて、頸をねぢて、「なんでう神」と言ひて、少しも許さず。使、ひそかに、「しかじか」と申しければ、御子に神憑きて、さまざまに託宣しけるほどなれば、母、やはらげて、「病人は『神田、返し参らせん』と申し候ふ。今度の命ばかり、助けさせ給へ」と申せば、巫(かんなぎ)、うち笑ひて、「頸をねぢて、『なんでう神』といふものをや。あら汚なの心や。われは、本地十一面1)の化身なり。本師阿弥陀の本願を頼み、まことの心ありて、念仏をも申さば、いかでか本願に相応すべき」とて、はたはたと爪弾(つまはじ)きして、はらはらと泣き給ひければ、これを聞く人、みな涙を流しけり。
さて、ねぢたる頸、治らずして、息絶えにけり。最後の時、年来の師匠・学生、善知識にて、念仏勧めければ、「こざかし」とて、枕をもつて打ちけるが、頭を打ちはづして、希有の命とぞ見えける。
その後、母の尼公、また患ひて、白山の権現をおろし奉りて、おこたり申す。「われは制し申ししかば、御咎めあるべしとも思えず」と申すに、「まことに制せしことは、さることなれども、子を思ふ心切なるゆゑに、心中にわれを恨みしこと、安からず」とて、ついに失せにけり。
かの子息、家を継ぎてありけるも、いくほどなくて、家の棟に鷺の居たりけるを占ひければ、「神の御咎め」と申しけるを、その中にありける陰陽師、「神の罰、何ごとの候ふべき。封じ候はん」と言ひけるが、酒盃持ちながら、縛られたるがごとくに、手を後ろへ回して、すくみて死にけり。かの陰陽師が子息、今にありて、このこと、かつは人にも語り侍るとぞ。当世のことなれば、聞き及びたる人、多く侍り。かの子孫・親類あることにて、そのはばかり侍れども、人の上をいはんためにはあらず。ただ神の威の軽(かろ)からざるよしを人に知らせんためなり。
およそ念仏宗は、濁世相応(ぢよくせさうおう)の要門、凡夫出離(ぼんぶしゆつり)の直路(ぢきろ)なり。まことにめでたき宗なるほどに、余行余善を嫌ひ、余の仏菩薩・神明までも軽(かろ)しめ、諸大乗の法門をも謗ることあり。この俗、諸行往生許さぬ流れにて、余の仏菩薩をも軽しめける人なり。
およそ念仏宗の流れ、まちまちなりといへども、しばらく一義に寄せて申さば、おほかたは、経の文も、釈の中にも、余行の往生、見え侍り。観経2)には、「読誦大乗、解第一義、孝養父母、五戒八戒、世間の五常までも、廻向して往生すべし」と見えたり。双観経3)には、四十八願の中には、第十八こそとりわき称名念仏にて侍れ。第十九は、「諸の功徳を修して廻向せば、来迎すべし」と誓ひ、第二十は、「徳本を植ゑ、繋念して往生すべし」と言へり。
されば、念仏は、とりわき諸行の中に選びすぐりて、一願に立てて正なり。本なり。余行は、惣の生因の願に立てて傍なり。末なり。さればとて、「往生せず」とは、いかが申さん。
善導の御釈にも、「万行倶廻皆得往、一切廻心向安楽(万行ともに廻(ゑ)すれば皆往くことを得、一切廻して心安楽に向ふ)」と釈して、「万行万善、いづれも廻向せば往生すべし」と見えたり。雑行の下の釈に、「雖可廻向得生、衆名踈雑之行(廻向して生を得べしといへども、衆名は踈雑の行」と釈し給へり。「踈(うと)き、親しき」とはあれども、「往生せず」とは見えず。
諸行往生許さぬ流の一義にいはく、「三心を念仏と心得て、三心具足して余行を修し、往生するは、ただ念仏の往生なり。三心なき余行は往生せぬを諸行往生せず」と言へり。このこと心得られず。三心は安心なり。いづれの行業にもわたるべし。されは安心は三心、起行は五念、行作業は四修と見えたり。称名(しようみやう)も、三心なくは生ずべからず。さらば、称名は念仏とは言はれじや。惣じては、念仏といふは諸行にわたるべし。
ただし、称名は念仏の中の肝心なり。慧心4)の往生要集の正修念仏の下には、諸行これあり。座禅は法身念仏、経呪は報身念仏なるべし。相好を念じ、名号を念ずるは、応身の念仏なるべし。余行の往生を念仏往生といはんも、この意にては苦しみあらじ。「称名のほかは往生せず」といふ義は、ひがめるにや。
いはんや、法華5)を誦し、真言を唱へて、往生の素懐(そくわい)を遂ぐること、経文といひ、伝記といひ、三国の先蹤これ多し。おさへて大乗の功能(くのう)を失ひ謗(そし)りて、余教の利益をないがしろにすること、しかるべからず。されば、ただ仰ぎて本願を信じ、ねんごろに念仏の功を入れて、余行・余宗を謗り、余の仏菩薩・神明を軽しむることあるべからず。この人の臨終に、その咎(とが)見え侍り。前車のくつがへりは、後車の戒めなるをや。真実に往生の志あらん人、このことをわきまふべきなり。経に「唯除五逆誹謗正法(ただ、五逆と正法を誹謗するを除く」と言へり。謹むべし、謹むべし。
ただし、かやうに申し侍ること、さだめてまた他の謗り侍るべけれども、所存の一義を申し述べんと思ひ侍り。余行往生許さぬ流は、弥陀6)を讃むるに似て、まことには謗るになるをや。
そのゆゑは、弥陀は慈悲広大にして万行万善を修する人をも迎へとり、極楽は境(さかひ)無辺にして余教余宗を習ふ輩をも摂取し給はんこそ、余の諸仏にもすぐれ、余の浄土にも超へへて、我建超世願の誓も頼もしく、広大無辺の国もめでたかるべきに、余行余教は選び捨てられて、往生せぬことならば、仏は慈悲少なく、国は境狭(せば)くこそ思ゆれ。
あるいは、乳母、姫君を養ひて、あまりに讃めんとて、「わらはが養ひ姫君は、御見目(おんみめ)の美しく、御目は細々として、愛らしくおはするぞや」と言ふを、「人の目の細きは悪(わろ)きものを」と言へば、「やら、片々の御目は、大きにおはするぞ」と言ひけるこそ、思ひ合はせられ侍れ。弥陀をも讃めそこなひて侍るにや。
また余行の往生許さぬ流の中にも、義門まちまちなり。ある人師(にんし)の義には、「余行の往生せぬと言ふは、三心を具せざる時のことなり。三心を具すれば、余行もみな念仏となりて、往生すべし。名号を唱ふとも、三心なくは往生すべからず」と言へり。この義ならば、余行の往生疑ひなし。もとより三心なくは、称名念仏とても往生せず。余行と念仏と、全く変ることなし。先達(せんだち)はかやうに隔つる心なく申して、機を勧め、宗を広む。その志、咎なし。末学在家の人なんど、たた言葉ばかりを聞きて、余行を謗るなるべし。
中ごろ、念仏門の弘通(ぐづう)さかりなりける時は、「余仏余経、みないたづらものなり」とて、あるいは法華経を河に流し、あるいは地蔵の頭にて蓼(たで)すりなんどしけり。ある里には、隣家のことを下女の中に語りて、「隣の家の地蔵は、すでに目のもとまですり潰したるぞや」と言ひけり。あさましかりけるしわざにこそ。ある浄土宗の僧も、地蔵菩薩供養しける時7)、阿弥陀仏の、そばに立ち給へるを、「便なし」とて、取りおろして、やうやうに謗りけり。ある浄土門の人は、「地蔵信ぜん者は、地獄に落つべし。地蔵は地獄におはするゆゑに」と言へり。
さらば、弥陀・観音8)も、利生方便には、大悲代受苦と誓はせ給ひて、地獄に遊戯(ゆげ)してこそおはしませ。地蔵に限るべしや。これみな仏体の源を知らず、差別の執心深きゆゑなり。
また、この国に二千部の法華経読みたる持経者ありけり。ある念仏者、勧めて念仏門に入れて、「法華経読むものは、必ず地獄に入るなり。あさましき罪障なり。雑行の者とて、つたなきことぞ」と言ひけるを信じて、さらば一向に念仏をも申さずして、「年ごろ経読みけんことの悔(くや)しさ、口惜しさ」とのみ、起居に言ふほどに、口のいとまもなく、心のひまもなし。かかる邪見の因縁にや、悪(わろ)き病つきて、物狂はしくして、「経読みたる、悔しや、悔しや」とのみ口ずさみて、果ては、わが舌も唇もみな食ひ切りて、血みどろになりて、狂ひ死ににけり。勧めたる僧の言ひけるは、「この人9)は、法華経読みたる罪は懺悔して、その報ひに舌・唇も食ひ切りて、罪消えて、決定往生しつらん」とぞ言ひける。
また、中ごろ、都に念仏門流布して、悪人の往生すべきよしを言ひ立てて、戒をも持(たも)ち、経をも読む人は、雑行にて、往生すまじきやうを曼荼羅に図して、尊げなる僧の、経読みて居たるには光明ささずして、殺生する者に摂取の光明さし給へる様を描きて、世間にもてあそびけるころ、南都より、公家へ奏状を奉ることありけり。その状の中にいはく、「かの地獄絵を見る者は、悪を作りしことを悔い、この曼荼羅を拝する者は、善を修せしことを悲しむ」と書けり。
四句をもつて物を判ずる時、善人の悪性もありて、上は善人に似て、名利の心有りて、まことなきあり。悪人の宿善ありて、上は悪人に似て、底に善心もあり、道念もあらむは、かかることにて侍るべきを、愚痴の道俗は、偏執我慢の心をもて、持戒修善の人をば、「悪人なり」、「雑行なり」、「往生すまじき者」とて、謗り軽しめ、造悪不善の者をば、「善人なり」、「摂取の光明に照らさるべし」、「往生決定」と、うちかたむる邪見、おほきなる過(とが)なるべし。
これは、聖教をも学し、先達にも近付きたる人の中にはまれなり。辺地の在俗の中に、かかる風情、ままに聞こえ侍り。念仏門のみならず、天台・真言・禅門なんどにも、辺国の末流には多く邪見の義門侍るにや。されば、いかにしても、智者に親近(しんごん)し、聖教を知識として、邪見の林に入るべからず。
このゆゑに、心地観経には、「菩提妙果の成し難きにあらず。真の善知識に、まことに値(あ)ひがたきなり」と説き、古徳は、「出世の明師に逢はず。枉(ま)げて大乗の法楽を服す」と言へり。天台の祖師10)も、「利根(りこん)の外道は、邪相(じやそう)を正相(しやうそう)に入れて、邪法(じやほふ)を以て正法(しやうぼふ)とし、鈍根(どんこん)の内道は、正相を以つて邪相に入れ、正法を以つて邪法とす」と釈し給へり。六祖大師11)も、「邪人正法を説けば、正法邪法と成り。正人邪法を説けば、邪法正法と成る」とのたまへり。
下医は薬をもつて毒となし、上医は毒をもつて薬となすと。准知すべし。中医は毒を毒となし、薬を薬となす。凡夫、二乗これに准ぜよ。
近代は、正見の人まれにして、如来の正法を邪見の情にまかせて、自他ともに邪道に入るべきをや。牛は水を飲て乳とし、蛇は水を飲みて毒とす。法はこれ一味なれども、邪正は人による。よくよくこの義を知りて、邪見の過(とが)を遁れて、正真の道に入るべきなり。
翻刻
浄土門之人軽神明蒙罰事 鎮西ニ浄土宗ノ学生ノ俗有ケリ所領ノ中ノ神田ヲ検注シテ 餘田ヲトル間社僧神官等イキトホリ申鎌倉ニテ訴訟シケレ トモ餘田ヲトル事地頭ノ申トコロ一分道理トテ無沙汰ナリ ケル間地頭ニ猶々申ニ大方ユルサスハテハ呪咀シ奉ラントイ ヒケレトモイササカモオソルル事ナシイカニモ呪咀セヨ浄土門ノ行 人神明ナントナニトカ思ヘキ摂取ノ光明ヲカウフラン行人ヲハ 神明モイカテ罰シ給ヘキトテオコツキアサムキケリサテ神人トモ イキトヲリフカクシテ呪咀シケルホトニイクホトナクワロキ病ツキテ物 クルハシカリケレハ母ノ尼公オホキニ驚テ我孝養トモ思テ/k1-28r
神田ヲ返シマイラセテヲコタリ申給ヘトナクナク申ケレトモモチヒス 病次第ニヲモリテタノミナク見ヘケレハ母思カネテ神明ヲオロシ 奉テ病者ノモトヘ使ヲヤリテマケテ神田返シマイラセヲコタリ申 テ神田ヲモ猶ソヘテマイラセ給ヘトイフニ病人物クルハシキ気色 ニテ頸ヲネチテ何条神トイヒテ少モユルサス使ヒソカニシカシカト 申ケレハ御子神ツキテ様々ニ託宣シケルホトナレハ母ヤハラケ テ病人ハ神田返マイラセント申候今度ノ命ハカリタスケサセ給 ヘト申セハカンナキウチワラヒテクヒヲネチテナンテウ神トイフ物ヲヤ アラキタナノ心ヤ我ハ本地十一面ノ化身也本師阿弥陀ノ 本願ヲタノミマコトノ心有テ念仏ヲモ申サハ争カ本願ニ相 応スヘキトテハタハタトツマハシキシテハラハラト泣給ケレハ此ヲキク人/k1-28l
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ハトリワキ諸行ノ中ニヱラヒスクリテ一願ニ立テ正也本也餘 行ハ惣ノ生因ノ願ニ立テ傍也末也サレハトテ往生セストハ イカカ申サン善導ノ御釈ニモ万行倶廻皆得往一切廻心向 安楽ト釈シテ万行万善何モ廻向セハ往生スヘシト見ヘタリ 雑行ノ下ノ釈ニ雖可廻向得生衆名踈雑之行ト釈給ヘリ ウトキシタシキトハ有トモ往生セストハ見ヘス諸行往生ユルサ ヌ流ノ一義ニ云三心ヲ念仏ト心得テ三心具足シテ餘行ヲ修 シ往生スルハ只念仏ノ往生也三心ナキ餘行ハ往生セヌヲ 諸行往生セスト云リ此事心得ラレス三心ハ安心也何ノ 行業ニモワタルヘシサレハ安心三心起行五念行作業四修 ト見ヘタリ称名モ三心ナクハ生スヘカラスサラハ称名ハ念仏ト ハイハレシヤ惣ハ念仏ト云ハ諸行ニワタルヘシ但称名ハ念仏/k1-30r
ノ中ノ肝心也慧心ノ往生要集ノ正修念仏ノ下ニハ諸行 有之坐禅ハ法身念仏経呪ハ報身念仏ナルヘシ相好ヲ念 シ名号ヲ念スルハ応身ノ念仏ナルヘシ餘行ノ往生ヲ念仏 往生トイハンモ此意ニテハ苦ミアラシ称名ノホカハ往生セスト イフ義ハヒカメルニヤイハンヤ法華ヲ誦シ真言ヲ唱テ往生ノ素 懐ヲトクル事経文ト云伝記ト云三国ノ先蹤是多シヲサヘテ 大乗ノ功能ヲウシナヒソシリテ餘教ノ利益ヲナヒカシロニスル 事不可然サレハ只仰テ本願ヲ信シ懇ニ念仏ノ功ヲ入テ餘 行餘宗ヲソシリ餘ノ仏菩薩神明ヲカロシムル事有ヘカラス 此人ノ臨終ニソノトカ見ヘ侍リ前車ノクツカヘリハ後車ノイマ シメナルヲヤ真実ニ往生ノ志有ン人此事ヲワキマフヘキナリ経 ニ唯除五逆誹謗正法ト云リツツシムヘシツツシムヘシ但シカヤウニ申侍/k1-30l
事サタメテ又他ノソシリ侍ルヘケレトモ所存ノ一義ヲ申ノヘント 思侍リ餘行往生ユルサヌ流ハ弥陀ヲ讃ルニ似テ実ニハソシルニ 成ヲヤ其故ハ弥陀ハ慈悲広大ニシテ万行万善ヲ修スル人ヲモ 迎ヘトリ極楽ハ境ヒ無辺ニシテ餘教餘宗ヲ習フ輩ヲモ接取シ 給ハンコソ餘ノ諸仏ニモスクレ餘ノ浄土ニモコヘテ我建超世 願ノ誓モタノモシク広大無辺ノ国モ目出カルヘキニ餘行 餘教ハヱラヒステラレテ往生セヌ事ナラハ仏ハ慈悲スクナク国 ハサカヒ狭クコソ思ユレ或乳母姫君ヲヤシナヒテアマリニホメン トテワラハカヤシナヒ姫君ハ御ミメノウツクシク御目ハ細々トシ テ愛ラシクオハスルソヤト云ヲ人ノ目ノホソキハワロキ物ヲト云ハ ヤラ片々ノ御目ハ大ニオハスルソト云ケルコソ思合ラレ侍レ弥 陀ヲモホメソコナヒテ侍ルニヤ又餘行ノ往生ユルサヌ流ノ中ニ/k1-31r
モ義門マチマチ也或人師ノ義ニハ餘行ノ往生セヌト云ハ三心 ヲ具セサル時ノ事也三心ヲ具スレハ餘行モミナ念仏ト成テ往 生スヘシ名号ヲ唱トモ三心ナクハ往生スヘカラスト云リ此義ナ ラハ餘行ノ往生疑ナシモトヨリ三心ナクハ称名念仏トテモ往 生セス餘行ト念仏ト全クカハル事ナシ先達ハカヤウニ隔ル心ナ ク申テ機ヲススメ宗ヲヒロム其志トカナシ末学在家人ナントタ タ詞ハカリヲ聞テ餘行ヲソシルナルヘシ中比念仏門ノ弘通サカ リ成ケル時ハ餘仏餘経皆イタツラ物也トテ或ハ法華経ヲ河 ニナカシ或ハ地蔵ノ頭ニテタテスリナントシケリ或里ニハ隣家ノ 事ヲ下女ノ中ニカタリテトナリノ家ノ地蔵ハ既ニ目ノモトマテ スリツフシタルソヤト云ケリ浅猿カリケルシワサニコソ或浄土宗 ノ僧モ地蔵菩薩供養シルケ時阿弥陀仏ノソハニ立給ヘルヲ/k1-31l
便ナシトテ取リオロシテヤウヤウニソシリケリ或浄土門ノ人ハ地 蔵信セン物ハ地獄ニオツヘシ地蔵ハ地獄ニオハスル故ニト云リ サラハ弥陀観音モ利生方便ニハ大悲代受苦ト誓ハセ給テ 地獄ニ遊戯シテコソオハシマセ地蔵ニカキルヘシヤ此ミナ仏体ノ 源ヲシラス差別ノ執心フカキ故也又此国二千部ノ法華経ヨ ミタル持経者有ケリアル念仏者ススメテ念仏門ニ入レテ法 花経ヨムモノハカナラス地獄ニ入也浅猿キ罪障ナリ雑行ノ 者トテツタナキ事ソト云ケルヲ信シテサラハ一向ニ念仏ヲモ申 サスシテ年来キヤウヨミケン事ノ悔シサ口惜サトノミ起居ニイフホ トニ口ノイトマモナク心ノヒマモナシカカル邪見ノ因縁ニヤワロキ 病ツキテ物クルハシクシテ経ヨミタルクヤシヤクヤシヤトノミ口スサミテハテ ハ我舌モクチヒルモ皆クヒキリテ血ミトロニ成テクルヒ死ニニケリ/k1-32r
ススメタル僧ノ云ケルハヨノ人ハ法花経ヨミタル罪ハ懺悔シテソノ ムクヒニ舌唇モクヒキリテ罪消テ決定往生シツラントソ云ケル 又中比都ニ念仏門流布シテ悪人ノ往生スヘキ由ヲ云タテテ戒 ヲモ持チ経ヲモヨム人ハ雑行ニテ往生スマシキヤウヲ曼荼羅ニ 図シテ尊ケナル僧ノ経ヨミテ居タルニハ光明ササスシテ殺生スル 者ニ接取ノ光明サシ給ヘル様ヲカキテ世間ニモテアソヒケルコロ 南都ヨリ公家ヘ奏状ヲ奉ル事アリケリ其状ノ中ニ云彼地 獄絵ヲ見ル者ハ悪ヲツクリシ事ヲクヒ此曼荼羅ヲ拝スル者ハ 善ヲ修セシ事ヲカナシムトカケリ四句ヲ以物ヲ判スル時善人 ノ悪性モ有テ上ハ善人ニ似テ名利ノ心有リテマコトナキアリ 悪人ノ宿善有テ上ハ悪人ニ似テソコニ善心モ有道念モアラ ムハカカル事ニテ侍ヘキヲ愚痴ノ道俗ハ偏執我慢ノ心ヲモテ/k1-32l
持戒修善ノ人ヲハ悪人ナリ雑行也往生スマシキ者トテソシリ カロシメ造悪不善ノ者ヲハ善人也摂取ノ光明ニテラサルヘシ 往生決定トウチカタムル邪見オホキナル過ナルヘシ是ハ聖教ヲ モ学シ先達ニモチカツキタル人ノ中ニハマレナリ辺地ノ在俗ノ 中ニカカル風情ママニキコヘ侍リ念仏門ノミナラス天台真言 禅門ナントニモ辺国ノ末流ニハ多ク邪見ノ義門侍ニヤサレハ イカニシテモ智者ニ親近シ聖教ヲ知識トシテ邪見ノ林ニ入ル ヘカラス是故ニ心地観経ニハ菩提妙果ノ成シ難ニアラス真 ノ善知識ニ実ニ値カタキナリトトキ古徳ハ出世ノ明師ニ不 逢枉テ大乗ノ法楽ヲ服ストイヘリ天台ノ祖師モ利根ノ外 道ハ邪相ヲ正相ニ入レテ邪法ヲ以テ正法トシ鈍根ノ内道 ハ正相ヲ以邪相ニ入レ正法ヲ以邪法トスト釈シ給ヘリ六/k1-33r
祖大師モ邪人正法ヲ説ケハ正法邪法ト成リ正人邪法ヲ 説ケハ邪法正法ト成ルトノ給ヘリ下医ハ以薬為毒ト上医ハ 以毒為薬ト可准知中医ハ毒為毒薬為薬凡夫二乗准之 近代ハ正見ノ人マレニシテ如来ノ正法ヲ邪見ノ情ニマカセテ自 他共ニ邪道ニ入ヘキヲヤ牛ハ水ヲ飲テ乳トシ蛇ハ水ヲ飲テ 毒トス法ハ是一味ナレトモ邪正ハ人ニヨル能々コノ義ヲ知テ 邪見ノ過ヲ遁テ正真ノ道ニ入ヘキ也 沙石集巻第一下終 神護寺 迎接院/k1-33l