沙石集
巻1第9話(9) 和光の方便に依りて妄念を止むる事
校訂本文
上総国高滝といふ所の地頭、熊野へ年詣(としまう)でしけり。ただ一人ありける娘を、いつきかしづきて、「かつは、かれがため」とも思ひければ、あひ具してぞ詣りける。
この娘、見目(みめ)・形よろしかりけるを、熊野の師の房に、なにがしの阿闍梨とかやいふ若き僧ありけり。京の者なりけり。この娘を見て、心にかけて、いかにも忍びがたく思えけるままに、「われ、『浄行1)の志ありて、霊社にして仏法を行ぜん』と思ひ企つ。かかる悪縁にあひて。妄念おさへがたきこと、口惜し」と思ひて、本尊にも、権現にも、「この心、やめ給へ」と祈請しけれども、日にしたがひては、かの面影立ち添ひて忘れず。何ごとも思えざりければ、忍びがたくして、「心のやるかた」と、笈(おひ)うちかけて、あくがれ出でて、上総国へ下りける。
さて、鎌倉過ぎて、六浦(むつら)といふ所にて、便船(びんせん)を待ちて、上総へ越さんとて。浜にうち臥して休みけるほどに、歩み疲れてうちまどろみたる夢に見けるは、便船を得て、上総の地へ渡り、高滝へ尋ね行きたりければ、主(あるじ)、出で会ひて、「いかにして下り給ひたるぞ」といふ。「鎌倉の方ゆかしくて、修行にまかり出でて侍りつるが、近きほどと承りて、『御住居(すまゐ)も見奉らん』とて、参りて侍り」と言ふ。さて、さまざまにもてなしけり。
やがて、上るべき体に申しければ、「しばらく田舎の様も見給へかし」とて、とどめけり。もとよりその心ざしなれば、とどまりて、とかくうかがひ寄りて、忍び忍び通ひけり。互ひの心ざし浅からず。
さるほどに、男子一人、出で来ぬ。父母、これを聞きて、大きに怒りて、やがて不孝したりければ、忍びて、ゆかりありける人のもとに隠れ居て、年月を送るほどに、「ただ一人の娘なれば、力及ばず」とて、許しつ。この僧も若き者に、見目・形なだらかに、尋常の者なりける上、さかさかしく、手跡なんどもなだらかなりければ、「今は子にこそし奉らめ」とて、鎌倉へも代官に上(のぼ)せ、ものの沙汰なんどもさかさかしくしけり。孫、また形まことに人々しく見えければ、かしづきもてなしけり。子どもも両三人出で来ぬ。
この子、十三といひける年、元服のために鎌倉へ上る。さまざまの具足ども用意して、船あまたしたてて、海を渡るほどに、風激しく、波高きに、この子、船ばたにのぞみて、あやまちに海へ落ち入りぬ。「あれあれ」と言へども、沈みて見えず。胸ひしげて、あわて騒ぐと思ひて、夢覚めぬ。
「十三年が間のことを、つくづくと思ひ続くるに、ただ片時(へんし)の眠りの間なり。たとひ本意とげて、楽しみ栄えありとも、ただしばらくの夢なるべし。悦(よろこ)びありとも、また悲しみあるべし。よしなし」と思ひて、やがてそれより帰り上りて、熊野にて行ひけり。和光の御方便にてこそありけめ。
昔、荘周が片時の眠の中に胡蝶となりて、百年が間、花の園に遊ぶと見て、覚めて思へばしばらくのほどなり。荘子にいはく、「荘周が夢に胡蝶となるとやせん、胡蝶が夢に荘周となるとやせん」と言へり。まことには、うつつと思ふも夢なり。ともに夢なれば、分きがたきよしを言ふにこそ。
およそ、三界の輪廻、四生の転変、みなこれ無明の眠りの中の妄想の夢なり。されば、円覚経には、「始知衆生、本来成仏、生死涅槃、猶如昨夢」と説きて、まことの悟りを開きて見れば、無始(むし)の生死(しやうじ)、始覚(しがく)の涅槃、ただ一念の眠りなり。本覚不生(ほんがくふしやう)の心地のみこそ、眠りもなく、夢もなき、まことの心なれ。
古人いはく、「昨日の覚(さとり)、今日の夢、別なることなし。覚の境も、こと過ぎぬれば、夢のごとし。夢のことも、時にあたては、覚に似たり。誰の智あらん人か、夢と覚と異なりと思はん」と言へり。
まことに深きことわりこそ、覚りがたく侍れ。夢幻(ゆめまぼろし)の世上のこと、心あらん 人、疑ふべからず。
梁の武帝の時、夢相(むさう)ありけり。帝、これを試みんために、そら夢を語り給はく、「朕が寝殿の甍二つ、鴛(をしどり)となりて飛び去ると見たり。いかなる夢ぞ」と。夢相、奏していはく、「今日、臣下二人、夭亡すべき御夢」と。さるほどに、近臣二人、闘諍して、ともに夭亡す。帝、驚きて、相を召して、「昨の夢は、まことは、なんぢを試みんためなり。しかるに、このことたがはず。いかに」と仰せられければ、「かく仰せあらんと思し召す、すなはち夢なり」と申しけり。これ、夢と覚と同じき心なり。
法相には、常の夢と思へるは、独散(どくさん)の意識とも、闇昧(あんまい)の意識とも言へり。われらが覚と思へるは、明了の意識の夢と言へり。明闇、少し異なれども、生死の中の夢なり。唯識論の文、この心なるべし。
楽天2)いはく、「栄枯事過都成夢。憂喜心忘便是禅。(栄枯の事、過ぐれば都(すべ)て夢と成る。憂喜、心に忘る、便(すなは)ちこれ禅)」と。まことには、こと過ぎて、空(むな)しきのみにあらず。時にあたても、自性なきゆゑに空なり。このゆゑに、生にあたて不生なり。諸法をまことに夢と知りて、喜もなく、憂もなく、心地寂静ならば、自然に空門に相応すべきにや。
またいはく、「禅の功は自ら見る。人の覚る無し。合是愁時亦不愁(まさにこれ愁ふる時もまた愁へざるべし)」。文意のいはく、夢の中のことは、喜も憂も心をとどむべきことなし。われらが覚と思ひつけたる世間のこと、みなこれ夢なり。生を悦び、死を憂へ、会を楽しみ、離を悲しむこと、これ夢と知らざる心なり。
これらのことにすべて心動かずば、すなはち空門に入る人なり。口に言ふを禅とせず。心に諸念忘れて、寂静なるを禅と言ふべしとなり。荘子にいはく、「狗不以善吠為良。人不以善言為賢(狗、善く吠ゆるをもつて良とせず。人、善く言ふをもつて賢とせず。)」云々。されば、法門をよう言ふ人も、心に名利五欲の思ひ忘れずは、空門に遠し。梵網3)にいはく、「口便説空行在有中(口にはすなはち空を説けども、行は有の中に在り)」云々。
末代は、真実の智慧も道心もある人まれなれば、口には法を説けども、心には道を行ずることなし。されば、夢の中のことを、まこととのみ思ひて、執心深く、愛執あつし。唯識論にいはく、「未得真覚恒処夢中。故仏説為生死長夜(未だ真覚を得ず恒に処す。故に仏の説きて生死の長夜と為す)」と云々。慈恩大師4)は、「有心外法輪廻生死、覚知一心生死永棄(心外の法有れば生死に輪廻し、一心を覚知すれば生死永く棄つ)」と釈し給へり。
生死の長夜明けざること、心外に法を見て、妄境のために転ぜらるるゆゑなり。心の外に法を見ずは、法すなはち心、心すなはち法にして、生死を出づべしと言へり。心あらん人、一心の源を悟りて、三有の眠を覚ますべし。
翻刻
依和光之方便止妄念事 上総国高瀧ト云所ノ地頭熊野ヘ年詣シケリ只一人有リケ ルムスメヲイツキカシツキテカツハカレカタメトモ思ケレハ相具シテ ソ詣リケル此ムスメミメカタチヨロシカリケルヲ熊野ノ師ノ房ニナ ニカシノ阿闍梨トカヤイフワカキ僧有ケリ京ノ者也ケリ此ムス メヲ見テ心ニカケテイカニモ忍カタク覚ケルママニ我レ浮行ノ志 有テ霊社ニシテ仏法ヲ行セント思企ツカカル悪縁ニアヒテマウネ ンヲサヘカタキ事口惜ト思テ本尊ニモ権現ニモ此心ヤメ給ヘ ト祈請シケレトモ日ニ随テハカノ面影タチソヒテワスレス何事モ 覚サリケレハ忍カタクシテ心ノヤルカタト負ウチカケテアクカレ出テ 上総国ヘ下ケルサテ鎌倉スキテムツラト云所ニテ便船ヲマチテ カツサヘ越トテ浜ニウチフシテヤスミケル程ニアユミツカレテウチマ/k1-25r
トロミタル夢ニ見ケルハ便船ヲエテカツサノ地ヘワタリ高瀧ヘ尋 ユキタリケレハ主シイテアヒテイカニシテクタリ給タルソトイフ鎌倉ノ 方ユカシクテ修行ニマカリ出テ侍リツルカチカキホトト承テ御住 居モ見奉ラントテマイリテ侍ト云サテサマサマニモテナシケリヤカ テノホルヘキ体ニ申ケレハ暫ク田舎ノ様モ見給ヘカシトテトトメ ケリ本ヨリソノ心指ナレハトトマリテトカクウカカヒヨリテ忍々カ ヨヒケリタカヒノ心サシアサカラスサル程ニ男子一人イテキヌ父 母是ヲキキテオホキニイカリテヤカテ不孝シタリケレハシノヒテユカ リ有ケル人ノモトニカクレヰテ年月ヲ送ルホトニタタ一人ノムスメ ナレハ力ヲヨハストテユルシツコノ僧モワカキ者ニミメカタチナタラ カニ尋常ノ者ナリケル上サカサカシク手迹ナントモナタラカ也ケレ ハ今ハ子ニコソシ奉ラメトテ鎌倉ヘモ代官ニノホセ物ノ沙汰ナ/k1-25l
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