沙石集
巻1第6話(6) 和光の利益、甚深なる事
校訂本文
南都に、小輔僧都璋円(せういうそうづしやうゑん)とて、解脱上人1)の弟子にて、碩学の聞こえありしが、魔道に落ちて、ある女人に憑(つ)きて、種々のことども申しける中に、「わが大明神の御方便のいみじきこと、いささかも値遇(ちぐ)し奉る人をば、いかなる罪人なれども、他方の地獄へは遣(つか)はさずして、春日野の下に地獄を構へて取り入れつつ、毎日晨朝に、第三の御殿より、地蔵菩薩の灑水器(しやすゐき)に水を入れて、散杖(さんぢやう)をそへて、水をそそき給へば、一滴(ひとしたたり)の水、罪人の口に入りて、苦患(くげん)2)しばらく助かりて、少し正念に住する時、大乗経の要文・陀羅尼なんど唱へて聞かせ給ふこと、日々に懈(おこた)りなし。この方便によりて、やうやく浮び出でて侍るなり。学生どもは、春日山の東に香山(かうせん)といふ所にて、大明神般若を説き給ふを聴聞して、論議・問答なんど、人間にたがはず。昔学生なりしは、みな学生なり。まのあたり、大明神の御説法聴聞するこそ、かたじけなく侍れ」と語りける。
地蔵3)は本社鹿島4)の三所の中の一つなり。ことに利益めでたくおはするとぞ、申しあひ侍る。無仏世界の導師、本師付属の薩埵なり。本地・垂迹、いづれも頼(たの)もしくこそ。されば、和光の利益は、いづくも同じことにや。
「日吉の大宮5)の後にも、山僧、多く天狗となりて、和光の方便によりて出離す」とこそ、申し伝へたれ。それも諸社の中に、十禅師、霊験あらたにまします。これも、本地は地蔵薩埵なり。
とてもかくても、人身を浮けたる思出(おもひで)、仏法にあへるしるしには、一門の方便に取り付きて、出離を心ざすべし。心地観経には、「一仏一菩薩を憑むを要法とす」と説けり。されば、内には仏性常住の理(ことわり)を具せることを信じ、外には本地垂迹の慈悲方便を仰ぎて、出離生死の道を心中に深く思ひ染むべきをや。
三悪の火坑(くわきやう)、足の下にあり。六道の長夜、夢いまだ覚めず。爪上(さうじやう)の人身を憂け、優曇(うどん)の仏法にあひながら、なすことなく、勤むることなくして、三途の故郷(ふるさと)に帰りなば、千度悔い、百度悲しむとも、何の益かあるべき。多生にまれに浮び出でて、億劫に一度(ひとたび)あへり。心をゆるくして、空しく光陰を送ることなかれ。時、人を待たず。死、かねてわきまへず。ゆめゆめ勤め行ふべし。
翻刻
和光利益甚深事 南都ニ小輔僧都璋円トテ解脱上人ノ弟子ニテ碩学ノ 聞有シカ魔道ニ落テ或女人ニ付テ種々ノ事共申ケル中ニ我 カ大明神ノ御方便ノイミシキ事イササカモ値遇シ奉ル人ヲハ イカナル罪人ナレ共他方ノ地獄ヘハ遣サスシテ春日野ノ下ニ 地獄ヲ構テ取入ツツ毎日晨朝ニ第三ノ御殿ヨリ地蔵菩薩 ノ灑水器ニ水ヲ入テ散杖ヲソヘテ水ヲソソキ給ヘハ一滴リノ 水罪人ノ口ニ入テ苦愚暫ク助リテ少シ正念ニ住スル時大 乗経ノ要文陀羅尼ナント唱テ聞セ給事日々ニ懈リナシ此 方便ニヨリテ漸ク浮ヒ出テ侍也学生共ハ春日山ノ東ニ香 山トイフ所ニテ大明神般若ヲトキ給ヲ聴聞シテ論議モンタウナ ント人間ニタカハス昔学生ナリシハミナ学生也マノアタリ大明/k1-15r
神ノ御説法聴聞スルコソ忝ク侍レト語ケル地蔵ハ本社鹿島 ノ三所ノ中ノ一也殊ニ利益目出オハスルトソ申アヒ侍ル無 仏世界ノ導師本師付属ノ薩埵也本地垂迹何モタノモシク コソサレハ和光ノ利益ハイツクモ同事ニヤ日吉ノ大宮ノ後ニモ 山僧オホク天狗ト成テ和光ノ方便ニヨリテ出離ストコソ申伝 ヘタレ其モ諸社ノ中ニ十禅師霊験アラタニ御坐ス此モ本地 ハ地蔵薩埵也トテモカクテモ人身ヲウケタル思イテ仏法ニ アヘルシルシニハ一門ノ方便ニトリツキテ出離ヲ心サスヘシ心 地観経ニハ一仏一菩薩ヲ憑ヲ要法トスト説ケリサレハ内ニ ハ仏性常住ノ理ヲ具セル事ヲ信シ外ニハ本地垂迹ノ慈悲 方便ヲ仰テ出離生死ノ道ヲ心中ニフカク思染ヘキヲヤ三 悪ノ火坑足ノ下ニアリ六道ノ長夜夢イマタサメス爪上ノ人/k1-15l
身ヲウケ優曇ノ仏法ニアヒナカラナス事ナク勤ル事ナクシテ三 途ノフルサトニ帰リナハ千度悔百度悲ムトモ何ノ益カ有ヘキ 多生ニ希ニウカヒ出テ億劫ニ一タヒアヘリ心ヲユルクシテ空ク 光陰ヲ送ル事ナカレ時人ヲマタス死カネテワキマヘスユメユメ勤 メヲコナフヘシ
沙石集巻第一上終/k1-16r
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=-925%2C0%2C7011%2C4142