沙石集
序
校訂本文
それ、麁言軟語(そごんなんご)みな第一義に帰し、治生産業(ちしやうさんごふ)しかしながら実相にそむかず。しかれば狂言綺語(きやうげんきぎよ)のあだなる戯(たわむ)れを縁として、仏乗の妙なる道に入れ、世間浅近の賤(いやし)き事を譬へとして、勝義の深理を知らしめんと思ふ。
このゆゑに、老いの眠りを覚まし、徒(いたづら)なる手すさみに、見し事、聞し事、思ひ出づるに随ひて、難波江のよしあしをも選ばず、藻塩草手にまかせて、かき集め侍り。
かかる老法師は、無常の念々におかすことをさとり、冥途の歩々に近付くことを驚きて、黄泉の遠き路の粮(かて)をつつみ、苦海の深き流れの船をよそふべきに、あだなる興言を集め、虚(むな)しき世事を注(しる)す。
時にあたては、光陰を惜しまず、後においては、賢哲を恥ぢず。よしなきに似れども、愚かなる人の、仏法の大なる益(やく)をもさとらず、和光の深き心をも知らず、賢愚の品(しな)異るもわきまへず、因果の理(ことはり)定まれるをも信ぜぬために、あるいは経論の明らかなる文を引き、あるいは先賢の残せる誡(いましめ)をのす。
それ、道に入る方便、一つにあらず。悟りを開く因縁、これ多し。その大なる意(こころ)知れば、諸教、義異ならず。修すれば万行の旨、みな同じき者をや。
このゆゑに、雑談(ざふだん)の次(ついで)に教門を引き、戯論(けろん)の中に解行(げぎやう)を示す。これを見る人、拙き語をあざむかずして、法義をさとり、うかれたることを正さずして、因果をわきまへ、生死の郷(さと)を出づる媒(なかだち)とし、涅槃の都にいたるしるべとせよとなり。
これすなはち、愚老が志のみ。彼金を求むる者は、沙を集めてこれを取り、玉を翫(もてあそ)ぶ類(たぐひ)は、石を拾ひてこれを瑩(みが)く。よつて、沙石集と名付く。巻は十に満ち、事は百に余れり。
時に弘安第二の暦、三伏の夏の天、これを集む。林下の貧士無住。
翻刻
沙石集巻第一 序 夫麁言軟語ミナ第一義ニ帰シ治生産業シカシナカラ実相 ニソムカス然ハ狂言綺語ノアタナル戯(タワムレ)ヲ縁トシテ仏乗ノ妙ナル 道ニ入レ世間浅近ノ賤(イヤシ)キ事ヲ譬トシテ勝義ノ深理ヲ知シ メント思是故ニ老ノ眠ヲサマシ徒ナル手スサミニ見シ事聞シ事 思出ルニ随テ難波江ノヨシアシヲモエラハス藻塩草手ニマカセ テカキアツメ侍リカカル老法師ハ無常ノ念々ニオカス事ヲ覚リ 冥途ノ歩々ニチカツク事ヲ驚テ黄泉ノ遠キ路ノ粮(カテ)ヲツツミ苦 海ノ深キ流ノ船ヲヨソフヘキニ徒ナル興言ヲアツメ虚キ世事ヲ 注ス時ニアタテハ光陰ヲオシマス後ニヲヒテハ賢哲ヲハチス由ナ キニ似レトモ愚ナル人ノ仏法ノ大ナル益ヲモサトラス和光ノ深/k1-2l
キ心ヲモシラス賢愚ノシナコトナルモワキマヘス因果ノ理サタマ レルヲモ信セヌタメニ或ハ経論ノ明ナル文ヲ引或ハ先賢ノ残セ ル誡ヲノス夫道ニ入ル方便一ニアラス悟ヲヒラク因縁コレ多シ 其大ナル意知レハ諸教義コトナラス修スレハ萬行旨ミナ同キ 者ヲヤ是故ニ雑談ノ次ニ教門ヲヒキ戯論ノ中ニ解行ヲ示ス 此ヲ見人拙キ語ヲアサムカスシテ法義ヲサトリウカレタル事ヲタ タサスシテ因果ヲワキマヘ生死ノ郷ヲイツル媒(ナカタチ)トシ涅槃ノ都ニイ タルシルヘトセヨトナリ是則愚老カ志耳彼金ヲ求者ハ沙ヲアツ メテコレヲトリ玉ヲ翫(モテアソ/クワン)フ類ハ石ヲヒロヒテ是ヲ瑩(ミカク/ヱイ)ク仍沙石集ト 名ク巻ハ十ニミチ事ハ百ニアマレリ于時弘安第二之暦三伏 之夏之天集之林下貧士無住/k1-3r
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