撰集抄
巻9第11話(121) 覚英僧都事
校訂本文
そのかみ、陸奥国の方へさそらへまかりて侍りしに、信夫の郡葛の松原とて、人里遠く離れる所侍り。ひとへに山にもあらず、また、ひたぶる野ともいふべからず。いみじき丘と見えて、木草、よしありて茂り、清水、四方(よも)に流れ散れり。世をひそかにのがれて、この江のほとりに住みたきほどに見え侍り。
やうやく奥ざまにたづねいたりて侍るに、松の木の繁る下に、竹の笈(おひ)と麻の衣と残りて、その身はまかりぬと思ゆる所あり。いかなる人の跡ならん。まづ、悲しう思えて見るに、そばなる松の木を削りのけて、かく書きたり。
昔は応理円実の覚徒として1)、公家の梵筵に列(つらな)り、今は諸国流浪の乞食として、終身を葛の松原にとる。
世の中の人には葛の松原と呼ばるる名こそうれしかりけれ
于時(ときに)、保元二年二月十七日、権少僧都覚英、生年2)四十一、申刻に終りぬ
と書かれたり。
この僧都は、後二条殿3)の御子、富家入道殿4)の御弟にていまそかりけり。
花をのみおしみなれたるみよし野の木の間に落つる有明の月
といふ名歌詠み給へる人にこそ。
一乗院覚信大僧正の門弟にて住み給ひけるが、御年二十(はたち)あまりのころ、夜、にはかに発心して、さばかり寒きころおい、小袖脱ぎ捨て、一重なるものばかりにて、いづちとも人に知られで、まぎれ出で給ひにけり5)。その行く末を知り奉る人なかりければ、たづね奉るにも及ばで、この十箇廻あまり6)、むなしく年を送り給へりと、ほの承はり侍りき。はや、諸国流浪していまそかりけるが、この所にて終り給ひけるにこそ。かへすがへすあはれに思え侍り。
一寺に管主として、三千の禅徒にいつかれ給ふべき人の、名利の思ひを振り捨て、人には葛の松原と呼ばるる、なほ心にしめて、最後の時節を思え給ひけん、かたじけなきにはあらずや。『高僧伝』どもの昔の跡を聞く中にも、「またはけがさじ」の玄賓僧都のいにしへは、聞くも心の澄むぞかしな。この覚英の君は、なほたけありてぞ思え侍る。
世を捨つとならば、かくこそあらまほしく侍れ。あはれ、かなしかりける心かな。かりそめの名利につながれて、玄賓・覚英の心をよそにすることを。
翻刻
そのかみ陸奥国の方へさそらへまかりて侍しにしのふ の郡くつの松はらとて人里遠くはなれる所侍り偏 に山にもあらす又ひたふる野ともいふへからすい みしき岡と見えて木草よしありてしけり清水 よもになかれちれり世を窃に遁れて此江のほ/k299r
とりにすみたき程に見え侍りやうやく奥さまに 尋至りて侍に松の木の繁る下に竹の負と あさの衣と残りて其身はまかりぬと覚所 ありいかなる人の跡ならん先悲ふ覚て見るに そはなる松の木をけつりのけてかく書たり 昔は応理円実の覚徒して公家の梵筵 に列り今は諸国流浪の乞食として終身 をくつの松原にとる 世の中の人にはくつの松はらと よはるる名こそうれしかりけれ/k299l
于時保元二年二月十七日権少僧都覚英□ 年四十一申尅におはりぬとかかれたり此僧都 は後二条殿の御子冨家入道殿の御弟にて いまそかりけり 華をのみおしみなれたる三善野の 木の間におつるあり明の月 といふ名哥よみ給へる人にこそ一乗院覚信大僧 正の門弟にてすみ給けるか御年はたちあまりの 比夜俄に発心してさはかりさむき比おひ小袖ぬき すてひとへなる物はかりにていつち共人にしられて/k300r
まきれ出給ふにけりそのゆくすゑをしり奉る 人なかりけれは尋奉るにも及はて此十箇廻あ まりて空く年を送り給へりとほの承はり侍り きはや諸国流浪していまそかりけるか此所にて 終給けるにこそ返々哀に覚侍り一寺に管主 として三千の禅徒にいつかれ給へき人の名 利の思をふり捨て人にはくつの松原とよはるる 猶心にしめて最後の時節をおほえ給けんかたし けなきにはあらすや高僧伝とものむかしの跡 をきく中にも又はけかさしの玄賓僧都の古は聞/k300l
も心のすむそかしな此覚英の君は猶たけあり てそ覚侍る世をすつとならはかくこそあらまほしく 侍れあはれかなしかりける心かなかり初の名利に つなかれて玄賓覚英の心をよそにする事を/k301r