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text:senjusho:m_senjusho06-06

撰集抄

巻6第6話(54) 冨家殿事(春日御託宣)

校訂本文

鳥羽院1)の御位のころ、富家入道殿2)と申す人いまそかりけり。京極大殿3)の御むまご、後二条殿4)の御子にておはしましき。藤氏の嫡庶として、よろづ天下のことわざをとり行はせ給ひしかば、百寮重くし奉りしことは、さらに書き述ぶべくも侍らざりき。

しかはあれども、月日むなしく暮れ行きて、御髪(みぐし)は雪をいただき、御眉は霜の置きて見えさせ給ひしかば、御出家の御志ありて、「御いとま申さん」と思し召され侍りければ、春日の明神に御参り侍りけるに、十一二の幼き児童、にはかに気高くらうたき姿になりて、

  雖観事理皆不離識

  然此内識有境有心

  心起必託5)内境生故

  あな面白や、

と言ふに、禅定殿下6)、ただごとならず思し召して、おそれ7)給へるに、この童の言ふやう、「われはこれ、春日の第三の神なり。このたびの見参はことに嬉しく侍り。そのゆゑは、世の常無きことを思し召して、にはかに飾りおろさんとし給へる嬉しさに、随喜の涙のところせきをも知らせ奉らんとて、託宣し侍り。あひかまへて、忘れず、無常を心にかけ給へ。それぞ、われは嬉しと8)思ひ侍るべき。さても、二人の男子を持ち給へり。二人ながら、氏の長者につらなり給ふべし。忠通公9)は、世の政、素直にて、手跡も美しく、詩歌管絃巧みにましまし侍れば、よに良き人と申し侍るべし。しかはあれど、道心のおはせねば、わが心にはいたくもかなはず。弟の頼長公10)は全経11)を宗とし、世務切り通しにて、人の善悪をはかり給へること、掌を指すがごとし。されば、末代にはありがたきほどの人にておはすべけれども、神事・仏事おろそかにして、氏寺をなやまし給ふべき人なれば、われ、ともなはず」と御託宣なりて、あがらせ給へりと、伝へ承はるに、かたじけなくぞ思え侍る。

これをもて思ふに、道心ある者をば、おほきに悦ばせ給ふなり。まことに一切の衆生をば、神仏は我子よりもいとほしく、かなしく思し召すなるに、火宅の中に家居して、炎にこがれなんとするを、御心苦しく悲しく思し召され侍る。

いささかも心をおこして、世の無常をも知り、火宅をのがるるなかだちどもし侍るに、さこそ嬉しくも思し召すらめ。わが身にかへていとほしく思え侍らん独り子の、火の中に馳せ入り、煙に咽(むせ)び居たらんは、誰かこれを歎かざらん。また、火の中を走り出でて、よき所へ行かん子を見て、母、あに悦ばざるべきや。神仏の我らを思さるること、少しもたがふまじきことに侍り。

あはれ、心憂きわざかな。三世(みよ)の神仏たちの、さばかり力を入れて、救ひたてんとせさせ給へるに、まけじとすぐりて、心憂き目を見ることよ。

そもそも、御託宣宣の時、誦し給へる文は、『唯識章』とかやの文にて侍るなり。深き心をば、浅き身にてはいかで知り侍べきなれば、しばらくさしおきて、これをいはず。ただ、なんとなく

  雖観事理皆不離識

  然此内識有境有心

  心起必詫内境生故

と読みつづけたるに、心もそそろに澄み、涙もいたくぞ落ち侍る。よく貴き御法(みのり)にて、かかるおろかなる心をも、もよほすやらむ。

この文のせんは、「ただ、心をも心とて、な留(と)めそ」と言へるおもむきとせん。唯識至極の 観門なりとぞ承はる。

翻刻

鳥羽院の御位の比冨家入道殿と申人いまそ
かりけり京極大殿の御むまこ後二条殿の
御子にておはしましき藤氏の嫡庶として
よろつ天下のことわさをとり行はせ給しかは百
寮おもくし奉し事はさらにかきのふへくも
侍らさりきしかはあれとも月日空く暮行
て御くしは雪をいたたき御眉は霜の置て
みえさせ給しかは御出家の御志ありて御いと
ま申さんと思召され侍りけれは春日の明神に
御まいり侍けるに十一二のおさなき児/k171r
童俄にけたかくらうたき姿になりて
雖観事理皆不離識然此内識有境有心
心起必詫内境生故あな面白やといふに
禅定殿下只事ならす思召て長給へる
に此童のいふ様我是春日の第三の神也
此たひの見参は殊うれしく侍り其故は世の
常なき事を思食て俄にかさりをろさん
とし給へるうれしさに随喜の涙のところせ
きをもしらせ奉らんとて詫宣し侍りあひ
かまへて忘れす無常を心にかけ給へそれ/k171l
そ我はうれしく(と)思侍へきさても二人の男
子をもち給へり二りなから氏の長者に
つらなり給へし忠通公は世の政すなをにて
手跡もうつくしく詩哥管絃巧にまし
まし侍はよによき人と申侍へししかはあれと
道心のをはせねは我心にはいたくも叶はす
弟の頼長公は金経を宗とし世務きり
とをしにて人の善悪をはかり給へる事
掌をさすかことしされは末代にはありかた
き程の人にてをはすへけれ共神事仏/k172r
事おろそかにして氏寺をなやまし給ふへき
人なれは我ともなはすと御詫宣なり
てあからせ給へりと伝承にかたしけなく
そ覚侍る是をもて思ふに道心ある物をは大に
悦はせ給なり実に一切の衆生をは神
仏は我子よりもいとをしくかなしく思
召なるに火宅の中に家居してほのをに
こかれなんとするを御心くるしく悲く思
召され侍る聊も心をおこして世の無常
をもしり火宅をのかるるなかたちともし/k172l
侍るにさこそうれしくも思召らめ我身
にかへていとをしく覚侍らん独子の火の中に
馳入煙に咽びゐたらんは誰か是をなけか
さらん又火の中を走出てよき所へゆ
かん子をみて母豈悦さるへきや神仏の
我らをおほさるる事すこしもたかふまし
き事に侍りあはれ心うきわさかな
みよの神仏たちのさはかり力を入てすく
ひたてんとせさせ給へるにまけしとすく
りて心うきめをみる事よ抑御詫/k173r
宣の時誦給へる文は唯識章とかやの文にて
侍なり深き心をは浅き身にてはいかてしり侍
へきなれは且くさしおきて是をいわすたたなんと
なく雖観事理皆不離識然此内識有境有心
心起必詫内境生故とよみつつけたるに心も
そそろにすみ泪もいたくそおち侍るよく貴き
みのりにてかかるおろかなる心をも催すやら
む此文のせんはたたこころをも心とてなと
めそといへるおもむきとせん唯識至極の
観門也とそうけ給/k173l
1)
鳥羽天皇
2)
藤原忠実
3)
藤原師実
4)
藤原師通
5)
「託」は底本「詫」。以下すべて同じ。
6)
忠実を指す。
7)
「おそれ」は底本「長」。諸本「畏」にしたがい訂正。
8)
「と」は底本「く」に「と」と傍書。傍書を採用する。
9)
藤原忠通
10)
藤原頼長
11)
「全経」は底本「金経」諸本により訂正。
text/senjusho/m_senjusho06-06.txt · 最終更新: 2020/04/03 22:08 by Satoshi Nakagawa