上巻 9 鹿王
校訂本文
昔、広き野に林ありき。二つの鹿(しし)の王ありて、おのおの多くの鹿を随(したが)へたりき。国の王、出でて狩りし給ふに、鹿、みな逃げ走る。穴に落ち入り岩に当たりて、身を破り命を失ふ。
一つの鹿の王、これを見て悲しびをなして、王の前に行く。その形、高く大きにして、その角五つの色なり。人、みな驚き奇(あや)しぶ。鹿、跪(ひざまづ)きて王に申さく、「王のみづから狩り給ふにも、王の使(つかひ)の狩るにも、わが輩(ともがら)多く死ぬ。あるいは1)母と子と生きながらあひ別るること深く悲し。たとひ、多くの鹿を今日みな殺せりとも、一日(ひとひ)にくさり捨てて、日次(ひつぎ)に当つること小(すく)なかりなむ。王の厨(くりや)の用すらむ数を承りて、日ごとに勧みて進(たてまつ)らむ。王は常に鮮(あざら)かなるを用ちゐ、われは暫く命を延べむ」と申す。王、大きに奇(あや)しびて云はく、「日次に用ゐることは、一日(ひとひ)に一つには過ぎず。知らざりつ、汝が常に多く死ぬらむことをば。今云ふところ裁(ことはり)なり。汝が言(こと)2)に随(したが)はむ」と讃めて、狩らずして還りぬ。
二つの鹿の王、日交(ひまぜ)に互ひに進(たてまつ)る。この王の奉るには、ついでに当れる鹿に涙を垂れて誘(こしら)らへて云ふ、「命有る物はみな死ぬ。誰かこれを免れむ。道々に仏を念ぜよ。恨みの心を成して人に向ふな」と教へて遣(や)る。
今、一村の中に孕める鹿、ついで当れる日、おのが王に愁ふ、「子生まむこと久しからず。願はくば、異(こと)鹿を替へて、後の日にわれをば当てよ。産めらむ子も生ひ立たなば、後のために宛(あ)つるによかるべし」と云ふに、鹿の王、恚(いか)りて、「何に依りてか、心に任せて濫(みだりかは)しく、ついでをば遁るべき」と云ひて免さず成りぬれば、侘びてまた側(かたへ)の王に愁ふるに、聞きて云ふ、「悲しいかな、母の心。いまだ生まれぬ子をさへ悲しぶこと」と悲しびて、わが方の明日の鹿を呼びて、「今日替はりて3)行け」と語らふに、それまた愁へて云はく、「誰かみな暫(しばし)の命を惜まざらむと、明日(あす)行かむ事はついでに当れば4)遁れがたし。今夜の残りの命を捨て、今日死なむことは愁へとあり」と云へば、鹿の王の云はく、「この愁へも然るべし。われ、今日汝に替はりて命を捨てむ」と云ひて、みづから出でて行きぬ。
国の王、驚き迷ひ給ふ。「何に依りてか、鹿の王の今日みづから来たれる。村の鹿の失せにたるか」と宣(のたま)へば、鹿の王の云はく、「傍(かたへ)の村に一つの孕める鹿あり。今日のついでに当たれり。孕める子いまだ生まずと愁ふるを聞くに、忍びがたければ、われ替はりて死なむとするなり」と云へば、国の王、大きに悲しびて、涙を流して宣はく、「われは諸(もろもろ)の命を殺して、己(おの)が身を養ふ。汝は物を命を済(すく)ひて、己(おの)が身を捨てたり。悲しくもあるかな」とて、偈(げ)を説きて云はく、「吾はこれ実(じち)の畜生なり。名付けて人の頭(かしら)なる鹿(しし)となすべし。汝はこれ畜生なりといへども、名付けて鹿の頭なる人となすべし。実(じち)を持ちて人となす。形を持ちては人となさず。われ、今日より始めて、諸(もろもろ)の鹿を食はじ」。
この誓ひを成して、国の内に勅を下して、「狩せむ者は罪に為さむ」と誡めて則此の野を以て鹿の薗(その)と成してき。鹿苑(ろくをん)と云ふ名は、これより流ししなり。仏5)、始めてここに赴きて、法を説き給ふ。
また、昔の鹿王は今の釈迦如来なり。『六度集経』に見えたり。
翻刻
昔シ広キ野ニ林在キ二ツノ鹿ノ王有テ各ノ多クノ鹿ヲ随 ヘタリキ国ノ王出テ狩シ給フニ鹿シ皆逃ケ走ル穴ニ落入リ 岩ニ当テ身ヲ破リ命ヲ失フ一ツノ鹿ノ王此レヲ見テ悲ヒヲ 成シテ王ノ前ニ行ク其ノ形高ク大キニシテ其ノ角五ツノ色也 人皆驚キ奇フ鹿ヽ跪ツキテ王ニ申サク王ノ自ラ狩リ給フニモ 王ノ使ノ狩ルニモ吾カ輩ラ多ク死ヌ或野ハ母ト子ト乍生ナカラ 相ヒ別ルル事深ク悲シ仮使ヒ多クノ鹿ヲ今日フ皆殺セリトモ 一日ヒニ久佐利捨テ日ヒ次キニ当ツル事小ナカリナム王ノ厨ヤノ 用スラム数ヲ承テ日ヒ毎ニ勧ミテ進ツラム王ハ常ニ鮮ナルヲ/n1-27l・e1-24l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/27
用チヰ吾レハ暫ク命ヲ延ヘムト申ス王大キニ奇ヒテ云ク 日次キニ用ヰル事ハ一日ヒニ一ツニハ不過ス不知サリツ汝カ常ニ 多ク死ヌラム事ヲハ今所云裁也汝カ事ニ随ハムト讃メテ不 狩シテ還ヌ二ツノ鹿ノ王日ヒ交セニ互ヒニ進ツル此ノ王ノ 奉ルニハ次テニ当レル鹿シニ涙タヲ垂レテ誘ラヘテ云フ命有 ル物ハ皆死ヌ誰カ是ヲ免レム道々ニ仏ヲ念セヨ恨ミノ 心ヲ成シテ人ニ向フナト教ヘテ遣ル今一村ノ中ニ孕メル鹿 次テニ当レル日己ノカ王ニ愁フ子生マム事不久ス願ハ異ト 鹿ヲ替ヘテ後ノ日ニ吾レヲハ当ヨ産メラム子モ生ヒ立ナハ/n1-28r・e1-25r
後ノ為ニ宛ニ吉ルヘシト云ニ鹿ノ王恚テ何ニ依カ心ニ任テ 濫シク次ヲハ可遁ト云テ不免ス成リヌレハ侘ヒテ亦側ノ王ニ 愁ニ聞テ云フ悲イ哉ナ母ノ心未生レヌ子ヲ佐ヘ悲フ事 ト悲ヒテ我方ノ明日ノ鹿ヲ呼ヒテ今日替リリテ行ケト語フニ 夫レ又愁テ云ク誰カ皆暫ノ命ヲ不惜サラムト明日ス行カム 事ハ次テニ当レレハ難遁シ今夜ノ残ノ命ヲ捨テ今日死 ナム事ハ愁ヘト有ト云ヘハ鹿ノ王ノ云ク此ノ愁モ可然シ 吾レ今日フ汝ニ替テ命ヲ捨テムト云テ自ラ出テテ行キヌ 国ノ王驚キ迷ヒ給フ何ニ依テカ鹿ノ王ノ今日フ自ラ来レル村ノ/n1-28l・e1-25l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/28
鹿ノ失セニタルカト宣マヘハ鹿ノ王ノ云ク傍ノ村ニ一ツノ孕メル鹿シ 有リ今日乃次イテニ当レリ孕メル子未タ不生マスト愁フルヲ 聞クニ難忍ケレハ吾レ替テ死ナムトスル也ト云ヘハ国ノ王大キニ悲テ 涙ヲ流シテ宣ハク吾レハ諸ノ命ヲ殺シテ己カ身ヲ養フ汝ハ 物ヲ命ヲ済ヒテ己カ身ヲ捨タリ悲シクモ有ル哉トテ偈ヲ説テ 云ク吾ハ是実ノ畜生也名付テ人ノ頭ラ也鹿ト可為シ汝ハ 是畜生ナリト雖名付テ鹿ノ頭ラナル人ト可為シ実ヲ持テ 人ト為ス形ヲ持テハ人ト不為ス吾レ今日ヨリ始テ諸ノ 鹿ヲ不食ハシ此誓ヒヲ成シテ国ノ内ニ勅ヲ下シテ/n1-29r・e1-26r
狩リ為ム者ノハ罪ニ為ムト誡メテ則此ノ野ヲ以テ鹿ノ薗ト 成テキ鹿苑ト云フ名ハ是レヨリ流シシナリ仏始テ爰ニ赴テ 法ヲ説キ給フ又昔ノ鹿王ハ今ノ尺迦如来也六度集経ニ 見タリ/n1-29l・e1-26l