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text:sanboe:ka_sanboe1-08

三宝絵詞

上巻 8 堅誓獅子

校訂本文

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昔、波羅奈国(はらなこく)に山あり。仙聖山(せんしやうせん)と云ひき。五百の縁覚(えんがく)住みき。

山に一つの師子1)ありき。堅誓師子(けんじやうしし)と名づけき。身の皮、金(こがね)の色にして、力、千の師子に等し。音(こゑ)を出だして吠ゆる時に、飛ぶ鳥驚きて落ち、走る獣(けだもの)隠れ臥す。この師子の、縁覚の聖の木の下に居たる時を見て、日々に来たりて、喜びむつれて、経を誦(ず)し、法を説くを聞く。

独りの狩人(かりびと)来たりて、これを見て念(おも)ふ。「もし、これが皮を剥ぎて、王に奉りたらば、必ず官(つかさ)を給はり、財を得てむ。但し、これは獣(けだもの)の王なり。弓を以ても射るべからず。縄を以ても執(と)るべからず。まさに別(こと)謀りごとを構ふべし。これはただ法師に馴れ近づくなる。われ暫(しばら)く頭(かしら)を剃りて、袈裟(けさ)の中に弓を隠して、木の下に居たらむ。必ず来たりむつれむを、窃(ひそ)かに構へて射殺さむ」と念(おも)ひて、家に返りて、妻に語らふ、「われ、いまだ昔より金の色の獣(けだもの)ありと聞かざりき。今日これを見つ。もしたまたまこれを殺して、皮を剥ぎて、王に奉りたらば、わが家は悦びありて、孫の世々まて財(たから)に豊かになりならむ」と云ひて、俄(にはか)に鬚(ひげ)・髪(かみ)を剃りて、黒き衣(ころも)を着て、彼の山に行きて木の下に居たり。

師子、これを見て、悦びて踊りて走り来たりて、近づきてその足をねぶるに、袈裟に隠して弓を引きて毒の箭(や)をもつてこれを射つ。師子、吠えかまひて、この人を喰はむとするに、また念(おも)ひ返す、「われ、この人を食ひ殺さむこと甚(はなは)だ安けれども、形これ僧の形なり。衣(ころも)すでに法(のり)の衣なり。もし僧の身を壊(やぶ)りては2)仏の身を壊(やぶ)るに3)に成なむ」と念(おも)ひて、気(いき)を惜しみて痛きを忍ぶるに、痛く苦しきこと堪へがたければ、またなほ歯を噛みて喰ひてむとするに、また忍びて念(おも)ひ留まる。

「この人、内には悪の心を含めりけれど、外(ほか)にはなほ僧の姿なり。もしこの人の今日の命を殺しては、永く諸(もろもろ)の仏の重き誡めを破りつべし。事を忍ぶるは人に敬まはる。忍びぬは人に悪(にく)まる。いよいよ煩悩を発(おこ)して、永く生死を増して4)、悪しき所に生まれ、吉(よ)き共(とも)を離れ、正法を聞かず、菩提を遠ざかる。このゆゑに、われ、今悪しき心を発すべからず」と思ひ了(お)はりて、師子、偈(げ)を説きて云はく、「願はくは、みづから命をば亡(ほろ)ぼすとも、遂に悪しき心を発(おこ)して、法(のり)の衣(ころも)に向かはじ。願はくは、みづから命をば亡ぼすとも、悪しき心を発して、出家の人に向かはじ」と云ひ了りてすなはち死ぬ時に、大地六度(むたび)振ひて、鳥・獣(けだもの)驚き走る。雲なくして、血を雨(ふ)りて、日明らかなる光なし。

狩人、袈裟を脱ぎて、刀を以て師子の皮を剥ぎつ。悦び荷(にな)ひて家に返りぬ。すなはち国王に奉りたれば、深く奇(あや)しび悦び給ひて、「いかにしてこの皮をば得しぞ」と問はせ給へば、つぶさに上の件(くだり)のことを顕(あら)はして、構へ殺しし謀事(はかりごと)を申す。

王、聞きて、驚きて、悲び泣きて、涙を流し給ふ。「われ、昔、智者の説きしを聞きしかば、『もし、畜生の身の毛金の色なるは、必ずこれ菩薩なり』と云ひき。今、この悪しき謀事を成して、この菩薩を殺せり。われもし官(つかさ)を給ひ財(たから)を与へば、彼と心を同じくするに成りなむ」と宣(のたま)ひて、すなはちこの人を捕へて、その命を殺しつ。

王、この皮をもつて山の中に入りぬ。師子の死にける所に尋ね至り給ひて、栴檀(せんだん)を集め積みて、その空しき尸(かばね)を葬(はふむ)らしめ給ひ、皮を焼き骨を拾ひて供養しき。

昔の堅誓師子は今の釈迦如来なり。昔の国王は今の弥勒菩薩なり。『報恩経』に見えたり。

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昔波羅奈国ニ山有仙聖山ト云キ五百縁覚住キ山ニ一ノ
師子有キ堅誓師子ト名ケキ身ノ皮金ノ色ニシテ力ラ
千ノ師子ニ等シ音ヲ出シテ吠ユル時ニ飛フ鳥驚テ落チ
走ル獣モノ隠レ臥ス此ノ師子ノ縁覚ノ聖ノ木ノ下ニ
居タル時ヲ見テ日々ニ来テ喜ヒムツレテ経ヲ誦シ法ヲ
説ヲ聞ク独ノ狩リ人来テ是ヲ見テ念フ若是カ皮ヲ
剥テ王ニ奉タラハ必ス官ヲ給リ財ヲ得テム但シ是ハ獣モノノ/n1-25r・e1-22r
王ナリ弓ヲ以テモ不可射ス縄ヲ以テモ不可執ラスマサニ別ト
謀リ事ヲ可構シ是ハ只法師ニ馴レ近ツクナル我暫ク頭ヲ剃テ
袈裟ノ中ニ弓ヲ隠シテ木ノ下ニ居タラム必ス来タリムツレムヲ
窃カニ構テ射殺サムト念テ家ニ返テ妻ニ語フ我未タ
昔ヨリ金ノ色ノ獣モノ有ト聞サリキ今日フ是ヲ見ツ若シ
適タマ是ヲ殺シテ皮ヲ剥テ王ニ奉タラハ我カ家ハ悦ヒ
有テ孫ノ世々マテ財ニ豊ニ成ナラムト云テ俄ニ鬚ケ髪
ヲ剃テ黒キ衣モヲ着テ彼ノ山ニ行キテ木ノ下ニ居タリ
師子是ヲ見テ悦テ踊テ走リ来テ近ツキテ其ノ足ヲ祢不留ニ/n1-25l・e1-22l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/25

袈裟ニ隠シテ弓ヲ引テ毒ノ箭ヲ以テ是ヲ射ツ師子吠エ加末
比テ此人ヲ喰ムトスルニ又念ヒ返ス我レ此人ヲ食ヒ殺サム
事甚タ安ケレトモ形是レ僧ノ形ナリ衣モ已ニ法ノ衣ナリ
若僧ノ身ヲ懐リテハ仏ノ身ヲ懐ニ成ナムト念ヒテ気キヲ惜
ミテ痛キヲ忍フルニ痛ク苦シキコト堪ヘ難ケレハ又猶歯ヲ
噛ミテ喰ヒテムトスルニ又忍テ念ヒ留マル此人内ニハ悪ノ心ヲ
含メリケレト外カニハ猶僧ノ姿ナリ若此人ノ今日ノ命ヲ殺
シテハ永ク諸ノ仏ノ重キ誡ヲ破リツヘシ事ヲ忍フルハ人ニ敬マハル
忍ヒヌハ人ニ悪クマル弥ヨ煩悩ヲ発シテ永ク生死ヲ増ステ/n1-26r・e1-23r
悪キ所ニ生マレ吉キ共ヲ離レ正法ヲ不聞ス菩提ヲ遠サカル
此故ニ我今悪キ心ヲ不可発ト思ヒ了テ師子偈ヲ説テ云
ク願ハ自カラ命ヲハ亡ストモ遂ニ悪キ心ヲ発シテ法ノ衣モニ
不向ハシ願ハ自カラ命ヲハ亡ストモ悪キ心ヲ発シテ出家ノ人ニ
不向ハシト云ヒ了テ即死ヌ時ニ大地六度ヒ振ヒテ鳥獣モノ
驚キ走ル雲无シテ血ヲ雨テ日明カナル光无シ狩人袈裟ヲ
脱キテ刀ヲ以テ師子ノ皮ヲ波木ツ悦ヒ荷テ家ニ返ヌ即国
王ニ奉ツリタレハ深ク奇ヒ悦ヒ給テ何ニシテ此ノ皮ヲハ得シソト問ハセ
給ヘハ具サニ上ノ件ノ事ヲ顕ハシテ構ヘ殺シシ謀事ヲ申ス/n1-26l・e1-23l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/26

王聞キテ驚テ悲ヒ泣テ涙ヲ流シ給フ我レ昔シ智者ノ
説シヲ聞キキシカハ若畜生ノ身ノ毛金ノ色ナルハ必是菩薩也ト云キ
今此ノ悪キ謀事ヲ成シテ此ノ菩薩ヲ殺セリ我レ若シ官ヲ給ヒ
財ヲ与ヘハ彼ト心ヲ同クスルニ成ナムト宣ヒテ即チ此人ヲ捕ヘテ
其ノ命ヲ殺シツ王此ノ皮ヲ以テ山ノ中ニ入ヌ師子ノ死ニケル
所ニ尋ネ至リ給テ栴檀ヲ集メ積テ其ノ空シキ尸ヲ
葬ラシメ給ヒ皮ヲ焼キ骨ヲ拾ヒテ供養シキ昔ノ堅誓
師子ハ今ノ尺迦如来也昔国王ハ今ノ弥勒菩薩也報恩
経ニ見タリ/n1-27r・e1-24r

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/27

1)
獅子
2) , 3)
「壊」は底本「懐」。前田家本「破」により訂正。
4)
「増して」は底本「増すて」。文脈により訂正。
text/sanboe/ka_sanboe1-08.txt · 最終更新: 2024/08/06 17:13 by Satoshi Nakagawa