上巻 5 禅定波羅蜜(正闍梨仙人)
校訂本文
菩薩は世々(せぜ)に禅定波羅蜜(ぜんぢやうはらみつ)を行ふ。その心に念(おも)はく、「心は酔(ゑ)へる象のごとし。狂して繋ぎがたし。心は遊ぶ猿のごとし。捕らふれども留まらず。もし念(おも)ひを静めずは、常に心を乱しつべし。煩悩離れがたし。観念いかかでかなからむ」と思ひて、閑(しづ)かなる所に念を収めて、心を閑めて姦(さはが)しからず、定(ぢやう)と恵(ゑ)とあひ扶(たす)けて、善く菩提に至る。鳥の二つの翅(はね)、車の並べる輪のごとし。
喩(たと)ひ智1)あれども、もし禅定なければ、その心閑(しづ)まらずして、その覚(さと)り照らしがたきこと風に動く燭(ともしび)のごとく、波を乱れる水のごとし。もし智2)の照らす覚(さとり)に、禅定の閑かなる心を加へつれば、燭の光、風を留て、物を照らすこと閑かなり。池の水、波なくして景(かげ)を浮かぶること、明らかなるがごとし。惣(すべ)て心を一つの所に係けつれば、こととして成らずといふことなし。功徳の勝れ、妙なること、定(ぢやう)より過ぎたるはなし。
昔、仙人在りき。正闍梨仙人(しやうじやりせんにん)と名付づけき。独り閑かなる室に居て久く定に入り、目をひしぎ、気を収めて、日を経てたたず。
鳥、恒(つね)にこれを見るに株(くひぜ)のごとくして動かねば、その髻(もとどり)の中に栖(す)をくひて子を生みつ。仙人、定を出でて首(かうべ)に鳥の栖あるを知りぬ。「貝子(かひご)3)、落ちて破れぬべし。母、驚きて来たるまじ」。心に深くこれを憐れびて、すなはちまた定に入りぬ。貝子(かひご)の善(よ)く飛ぶを待ち、まさにすなはち定を出でき。
心を閑かにして動かざさりし、これを禅定波羅蜜を満つるとなり。
昔の正闍梨仙人は、今の釈迦如来なり。『智度論4)』に見えたり。
絵あり。
翻刻
菩薩ハ世々ニ禅定波羅蜜ヲ行フ其ノ心ニ念ク心ハ酔ヘル 象ノ如シ狂シテツ奈木難シ心ハ遊フ猿ノ如シ捕レトモ不 留ス若シ念ヲ不静スハ常ニ心ヲ乱ツヘシ煩悩難離シ観念 何カテカ无カラムト思テ閑カナル所ニ念ヲ収テ心ヲ閑テ不姦ス定ト/n1-20l・e1-17l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/20
恵ト相ヒ扶テ善ク菩提ニ至ル鳥ノ二ノ翅ネ車ノ並ヘル輪ノ 如シ喩ヒ音(智)有レトモ若シ禅定无ケレハ其ノ心不閑マラスシテ其ノ 覚リ難照キ事風ニ動ク燭ノ如ク波ヲ乱レル水ノ如シ 若シ音ノ照ラス覚ニ禅定ノ閑カナル心ヲ加ツレハ燭ノ光リ風ヲ 留テ物ヲ照ス事ト閑カ也リ池ノ水波无クシテ景ヲ浮フル事 明ナルカ如シ惣テ心ヲ一ノ所ニ係ツレハ事トシテ不成ト云フ事无シ 功徳ノ勝レ妙ナル事ト定ヨリ過タルハ无シ昔シ仙人在キ 正闍梨仙人ト名付キ独リ閑カナル室ニ居テ久ク定ニ 入リ目ヲヒシキ気ヲ収メテ日ヲ経テ不経タタス鳥リ/n1-21r・e1-18r
恒ニ是ヲ見ルニ株セノ如クシテ不動ネハ其ノ本取ノ中ニ栖 ヲ啗ヒテ子ヲ生ミツ仙人定ヲ出テテ首ニ鳥ノ栖有ヲ知リヌ 貝子落テ可破ヌヘシ母驚テ来タルマシ心ニ深ク此レヲ憐ヒテ 即又定ニ入ヌ貝子ノ善ク飛ヲ待チ正ニ即定ヲ出テキ 心ヲ閑カニシテ不動サリシ是ヲ禅定波羅蜜ヲ満ツルトナリ昔ノ正闍 梨仙人ハ今ノ尺迦如来也智度論ニ見タリ絵有/n1-21l・e1-18l