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唐鏡 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる
12 西晋 孝愍帝
校訂本文
次は孝愍帝1)と申しき。諱(いみな)は鄴、字は彦旗、武帝2)の孫、呉孝王晏が子なり。永嘉六年に皇太子と成りて、次の年四月に位に即き給ふ。建興と改元せらる。
覇杜の二陵を掘りあばきて、宝物をぬすみ、薄太后3)生きたるがごとくして、少しも変り給はざりけるこそ、不思議と申し侍りしか。この陵に、金玉綵帛、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。勅して、内裏に納め置かる。
四年秋八月、劉曜(りうよう)京師を攻むるに、人皆逃げ隠れて、行方を知らず。冬十月に飢饉甚だしくして、未だ一斗の直(あたひ)金二両にあたる。飢ゑ死ぬ者数知らず。御倉に索餅(さくべい)少分ありけるを砕きて、粥にてぞ帝には献(たてまつ)る。これも尽きぬれば、帝、「いかがすべき」とて、啼(な)き給ふ。
せん尽きて、文(ふみ)を劉曜がもとへ遣(つか)はして、やがて羊車に乗り給ふ。肉袒(にくたん)4)して璧を含みて降り給ふ。群臣泣き叫びて、御車を寄せて、帝の御手を取れば、また帝泣き悲しみ給ふ。御史中丞吉朗5)、これを見奉りて自殺しぬ。
劉曜が帝を随へ奉りて、宮へ返して後、平陽に捕へ奉る。麹允(きくゐん)といふ人及び群臣、なほ随ひ奉る。帝をば、光禄大夫懐安侯に成し奉る。劉聡、殿へのぞむ時、帝畏りて稽首し給ふ。麹允はこれを見て地に伏して泣き叫びて自殺しぬ。
五年冬十一月に、劉曜狩する時に、帝戎服とてあやしき衣を着せ奉りて、戟(げき)を持たせて馬の先に追ひ立てて、道を引かしむ。また、群臣大いに集めて宴会する時に、帝酒を行なはしめ、爵(さかづき)を洗はしめ、また蓋を取らしむ。晋臣、この座にある者、声をおします泣き悲しぶ。尚書辛賓(しんひん)は目もくれ心も迷ひて、帝を抱(いだ)き奉りて、泣きをめけば、劉聡嗔(いか)りて、これを殺しつ。
十二月に、帝をも殺し奉りにけり。御年十八、在位五年なり。武帝よりこの愍帝までは四代、合はせて五十四年なり。その間、寺を造らるること一百八十所。
翻刻
次孝愍帝と申き諱は鄴字彦旗武帝の孫呉孝王晏子か也 永嘉六年に皇太子と成て次の年四月に位に即玉ふ建興と改元せらる 覇杜の二陵をほりあはきて宝物をぬすみ薄太后いきたるか如くして 少しもかはり給はざりけるこそ不思議と申侍しか此陵に金玉綵/s164l・m291
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/164?ln=ja
帛不可勝計勅して内裏におさめおかる 四年秋八月劉曜(リウヨウ)京師をせむるに人皆逃隠て不知行方を 冬十月に飢饉甚たして未一斗の直金二両にあたる飢死者 数しらす御倉に索餅少分ありけるをくたきて粥にてそ帝には 献る是もつきぬれは帝いかかすへきとて啼たまふせんつきて文を劉曜か もとへ遣してやかて羊車にのり玉ふ肉祖(タン)して璧を含て降り玉ふ群臣泣叫て 御車をよせて帝の御手をとれは又帝泣悲たまふ御史中丞 吉良是をみ奉て自殺しぬ劉曜か帝を随へ奉て宮へかへして後平陽に とらへ奉る麹允(きくゐん)と云人及群臣猶随奉る帝をは光禄大夫懐 安侯に成奉る劉聡殿へのそむ時帝畏て稽首し玉ふ麹允は是をみて/s165r・m292
地に伏て泣叫て自殺しぬ 五年冬十一月に劉曜狩する時に帝 戎服とてあやしき衣をきせ奉て戟をもたせて馬のさきに追立て道を ひかしむ又群臣大に集めて宴会する時に帝酒を行なはしめ爵(さかつき)をあ らはしめ又蓋をとらしむ晋臣此座にある者声をおします泣悲ふ尚書 辛賓は目もくれ心も迷て帝をいたき奉て泣をめけは劉聡嗔てこれを殺しつ 十二月に帝をもころし奉にけり御年十八在位五年也武帝より 此の愍帝まては四代合て五十四年也其間寺をつくらるる事 一百八十所此後には東晋と号す帝王をは元皇帝と申き諱は睿(えい)字は/s165l・m253