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text:karakagami:m_karakagami6-05

唐鏡 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる

5 魏 曹髦

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高貴郷公1)、諱(いみな)は髦(ぼう)、字(あざな)は彦士(げんし)。文帝2)の孫なり。斉王芳3)捨てられて、公卿共議して立つ。

冬十月に洛陽に入り、車門にて輿より降り給ふ。臣下ども、「乗りながら入り給へ」と申すに、公の曰く、「われ皇后4)の召を蒙りて参る」とて、歩(かち)より大極の東堂に至りて、太后に見え給ふ。この日、皇帝の位に、大極殿にて即き給ふ。年号を正元と改めらる。

晋景王5)が曰く、「この帝はいかなる人ぞ」と。鐘会(しようくわい)答へて、「才は陳思6)に同じく、武は太祖7)に類す」と申す。景王が曰く、「なんぢが言ふごとくならば、社稷(しやしよく)の福(さいわひ)なり」とぞ聞こえける。

正元二年正月、司馬景王薨ず。

蜀の劉禅、延熙十八年なり。

呉の孫亮、五鳳二年なり。七月、陽羨里(やうしり)の山に大石自立す。

甘露五年に、太子舎人成斉、公8)を殺す。成斉、戈(ほこ)をもて公を刺すに、刃(つるぎ)背に通りて出づ。晋の文王9)、大いに驚きて、地になげて、「天下、われを思はじこといかん」とぞ歎きける。公、年二十、在位六年なり。

呉、永安二年也三月に、六・七歳の童子の異体なるが、青衣を着て群児と戯る。諸の児、畏れて問ふに、「われは熒惑星(けいこくせい)なり」とて曰く、「三公鉏司馬10)」と言ひて、天へ逃げて去(い)ぬ。遠くなるままに、疋練(ひつれん)のごとし。後五年に、蜀亡びて晋興り、呉司馬がために亡ぼされぬ。童子の言ひしがごとし。

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高貴卿公諱ハ髦(ホウ)字ハ彦士(ケンシ)文帝ノ孫也斉王芳ステラレテ
公卿共議シテタツ冬十月ニ洛陽ニ入車門ニテ輿ヨリヲリ給フ
臣下共乗ナカラ入給ヘト申スニ公ノ曰我皇后ノ召ヲ蒙テ参ル
トテ歩ヨリ大極ノ東堂ニ至テ太后ニミエ給此日皇帝ノ位ニ大極
殿ニテ即給年号ヲ正元ト改ラル晋景王カ曰此帝ハ何ナル人ソト
鐘会答テ才ハ陳思ニ同ク武ハ太祖ニ類スト申ス景王カ曰ク汝カ云コト/s157r・m276
クナラハ社稷ノ福(サイワヒ)ナリトソキコヘケル 正元二年正月
司馬景王薨
 蜀劉禅延熙十八年也
 呉孫亮五鳳二年也七月陽羨里(シリ)ノ山ニ大石
 自立
甘露五年ニ太子舎人成斉公ヲ殺ス成斉戈ヲモテ公ヲ
サスニ刃(ツルキ)背ニトヲリテイツ晋ノ文王大ニ驚テ地ニナケテ天下
我ヲオモハシ事イカントソナケキケル公年二十在位六
年也
 呉永安二年也三月ニ六七歳ノ童子ノ異体ナルカ/s157l・m277

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/157?ln=ja

 青衣ヲ著テ群児ト戯ル諸ノ児畏テ問ニ我ハ熒惑星也トテ曰ク
 三公鉏司馬(シヨシバ)ト云テ天ヘ逃テ去ヌ遠ナルママニ疋練(ヒツレン)ノ如シ後
 五年ニ蜀亡テ晋興リ呉司馬カタメニ亡サレヌ童子ノ云シカ
 コトシ/s158r・m278

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/158?ln=ja

1)
底本「高貴卿公」。曹髦。
2)
曹丕
3)
曹芳
4)
郭皇后
5)
司馬師
6)
曹植
7)
曹操
8)
曹髦
9)
司馬昭
10)
「三公鉏司馬如」(『捜神記』)。「魏・蜀・呉が亡びて、司馬(晋)が天下をとる」の意。
text/karakagami/m_karakagami6-05.txt · 最終更新: 2023/05/16 13:07 by Satoshi Nakagawa