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唐物語
第6話 石季倫といふ人ありけり。よろづの宝に飽きて・・・
校訂本文
昔、石季倫1)といふ人ありけり。よろづの宝に飽きて、世の貧しきを知らざりけり。金谷の園(その)のうちに、五百の舞姫(まひひめ)を集めて、喜び楽しむこと、夜昼を分かず。
このうちに緑珠と聞こゆる舞姫なん、あまたの中にも優れたりければ、身に代(か)ふばかり浅からず2)思へりけり。
かくて月日を送るに、時の政(まつりごと)を執れる人孫秀、この緑珠がたぐひなきありさまを聞く度(たび)に、人伝(ひとづて)ならざらんことを懇(ねんご)ろに思へりければ、堪へかねて、色に出でぬ。石季倫、「身をはかなきになすとも、心弱はからじ」と思へるを、この人、負けじ心のいちはやさに、兵(つはもの)を集め、勢ひをきはめて、心ざしをやぶる。
この時、緑珠3)ははるかに高き楼の上に居たりけり。石季倫、かの人の手に従ひて行く行く、目を見合はせて、「誰ゆゑにかは、かくなりぬ」と言ひけるに、堪へ忍ぶへき心地せざりけりければ、楼の上より身を投げて死なんとするを、「身に勝(まさ)る物やはある」と諫(いさ)むる人、あまたありけれど、つひに聞かず。
後れ居て歎かんよりは時の間に死なん命の惜しからなくに
いとかく思ひとりけむ、心のありがたさも言ひ尽すべからず。
翻刻
昔石季倫と云人ありけりよろつのたからに あきて世のまつしきをしらさりけり金 谷のそののうちに五百のまひひめをあつめて/m317
よろこひたのしむ事よるひるをわかす このうちに緑珠ときこゆるまひひめなんあ またのなかにもすくれたりけれは身にかふ はかりあさ(か歟)らすおもへりけりかくて月日を をくるに時のまつり事をとれる人孫秀 この緑珠かたくひなきありさまをきくたひに ひとつてならさらんことをねんころにおもへりけ れはたえかねて色にいてぬ石季倫身をはか なきになすとも心よはからしとおもへる をこの人まけし心のいちはやさにつは物をあつめ/m318
いきおひをきはめて心さしをやふるこの時緑季 ははるかにたかき楼のうへにゐたりけり石季 倫かの人のてにしたかいてゆくゆくめを見あはせて たれゆへにかはかくなりぬといひけるにたえ忍へ き心地せさりけりけれはろうのうへより身をなけ てしなんとするを身にまさる物やはあると いさむる人あまたありけれとついにきかす をくれゐてなけかんよりはときのまに しなんいのちのおしからなくに いとかく思とりけむ心の有かたさもいひつくすへからす/m319
text/kara/m_kara006.txt · 最終更新: 2017/10/24 21:39 by Satoshi Nakagawa