成尋阿闍梨母集
二巻(19) この方のふたがりたるほど律師四十五日の方違へに・・・
校訂本文
この方(かた)のふたがりたるほど、律師(りし)、四十五日の方違へに、三月十四日まかりたるに、つつじのいみじう咲きたるを、幼き者どもの取り寄せて、「これこれ」と持て来て見すれば、
拝まねど花盛りなる山寺につつじ見てきと人に語らむ
など言ひて、慰めて過ぐすほどに、すき過ぎ月日、いとど積るしるしには、立ち居ることをだに、やすくせずなりにて侍(はべ)める。「いかなる人、惜しむほどの死にをすらむ」とのみうらやましく。
仁和寺(にわじ)より帰りてのち、三月二十日ばかり、雨降り暗して、いとつれづれなるを、
思ふことなくて暮らしし春の日は雨のつれづれ知られやはせじ
思ふには、涙のみ曇りて、
我一人憂き世の歎くことはりを涙ならでは知る人もなし
昔、「ことはり知らぬ」と誰(たれ)か言ひけむとぞ思ゆる。
なほ、空も見えず、曇りて暮れぬれば、
拝むともまつに入り日の暮れぬめりなほいとはしきあめの下かな
とぞ思ふに、暮れふたがりたる空、恐しげなるに、見やりて、
ながめつつ身のうき雲のかかる世に長らへんとは思はざりしを
身のありさまの、若くより、ことにすがすがしからず、弱げなるものに、人も思ひ、われも思ひながら、めづらかにかかりける命にて、生きて侍る。いと心憂く、
いかなれば夢とぞ思ふ心にも身にもまかせぬ命なるらむ
とのみ歎かるるに、からうじて空見えて、月見えたり。
西へ行く月だに誘へ人知れず思ふ心はそらに知るらむ
なとぞ思ひつつ、臥しても、寝入ることもなく明けぬれば、例の西の方の空ながめやらる。
明けくれば雲居の方へながめやる空目(そらめ)はいつか絶えむとすらむ
命絶え入らむ折りを待つに、「院1)の御ご悩(なう)」とて騒ぐを、近ければ聞くに、前より、「御祓への使(つかひ)」とて、しげく行きちがふに、思ゆる、
奉るものならませばかくばかり長き命を身にて見ましや
口惜しき身にも替ふべきものならば今まで世をは聞きて経ましや
なとぞ思ゆる。
よろづにつけて忘られず。歎きつつ過ぎ行く。
翻刻
いててこのかたのふたかりたるほとりし 四十五日のかたたかへに三月十四日まかりたる につつしのいみしうさきたるをおさなき物 とものとりよせてこれこれともてきてみすれは おかまねとはなさかりなる山てらに つつし見てきと人にかたらん なといひてなくさめてすくすほとにすき/s64r
し月日いととつもるしるしにはたちゐ ることをたにやすくせすなりにてはべめる いかなる人おしむほとのしにをすらんとのみ うらやましくにわしより返てのち三月 廿日許あめふりくらしていとつれつれなるを おもふことなくてくらししはるの日は あめのつれつれしられやはせし 思ふにはなみたのみくもりて 我ひとりうきよのなけくことはりを なみたならてはしる人もなし むかしことはりしらぬとたれかいひけんとそ おぼゆる猶そらもみえすくもりてくれぬれは おかむともまつにいり日のくれぬめり/s64l
猶いとはしきあめのしたかな とそ思ふにくれふたかりたるそらおそろし けなるに見やりて なかめつつみのうきくものかかるよに なからへんとはおもはさりしを みのありさまのわかくよりことにすかすかしか らすよはけなるものに人もおもひ我も思ひ なからめつらかにかかりけるいのちにていきて 侍るいと心うく いかなれはゆめとそおもふこころにも 身にもまかせぬいのちなるらん とのみなけかるるにからうして天見えて月 みえたり/s65r
にしへゆく月たにさそへ人しれす おもふこころはそらにしるらん なとそ思ひつつふしてもねいることもなくあけ ぬれはれいのにしの方の天なかめやらる あけくれはくもゐのかたへなかめやる そらめはいつかたえんとすらむ いのちたえいらんおりをまつに院の御こなう とてさはくをちかけれはきくにまへより 御はらへのつかひとてしけくいきちかふに おほゆる たてまつるものならませはかくはかり なかきいのちを身にて見ましや くちをしき身にもかふへきものならは いままて世をはききてへましや/s65l
なとそおほゆるよろつにつけてわすられす なけきつつすきゆく四月一日りしの御房/s66r