成尋阿闍梨母集
一巻(4) 二月十六日門出し給ふとて騒ぐに心の内推し量るべし・・・
校訂本文
二月十六日、「門出し給ふ」とて騒ぐに、心の内推し量るべし。
なかにも、この孫(むまご)なる禅師の二人、いみじう泣きわぶる。聞くに、いとどものも思えず。
思ひわびて、仁和寺の律師(りし)のもとに、「かかる。出で立ち近くなりぬ」と聞こえたれば、おはしたり。「かばかり思ひ立ちたらん。いかがはせむ」とあり。
いはんかたなきに、阿闍梨、なべての人も読まぬ経、いみじう罪も救ひ給ふ、かき出だして、みづから供養して、泣く泣く聞かせ給ふ。法橋(ほけう)、また阿闍梨などいふ人々して、よう書き書かせ給ふ。例は貴くあはれに聞かまほしきことなれど、悲しきことに、耳にも聞こえず、目も見えぬやうになりはてて、泣くよりほかのこともなくて、律師も帰り給ひぬ。
「これらにあるほどに迎へよ」とやありけん、正月つごもりの日、仁和寺(にわじ)より車おこせて、迎へに賜ふ。
阿闍梨の御もとに、「車率(ゐ)てきたるを、なほ近くて、出で立ち給はんも聞かむ。今日はこの車返してむ」と聞こえ給ふに、驚きて、おはして、「なほ、今日渡り給へ。日次(ひつぎ)も悪しければ」とて、この候ふ孫の禅師どもして、おこし立てて、われも立ちそひておはする。
「顔をだに見む」と思へど、涙に霧渡りて、息のある限り泣かまほしけれど、年ごろものも高く言ひて聞かせぬ僧どもの、並み居たる折しも、「悲しきことと言ひながら、今さらにさま悪しき声も聞かせじ。ただ、われ失せて別れぬるなり」、阿弥陀仏に、「救ひ給へ」と念じて、車にかき乗せらるるほどの心地、推し量るべし。死に入りたるやにてこそはありしか。
率(ゐ)たる人に、「奉れ」とて、取らせ置きし。
忍べどもこの別れ路(ぢ)を思ふには唐紅(からくれなゐ)の涙こそふれ
しばしぞと待つ人もなき命にはこの世の仮の別れ路ぞ憂き
道芝に捨て置かれぬる露の身は蓮(はちす)の上もいかがとぞ思ふ
敷島を漕ぎ離るとも行末に来まほしくなる心付けなむ
唐土(もろこし)も天(あめ)の下にぞありと聞くこの日の本は忘れざらなむ
かの岸にほどなくこそは行きて来め心にかなふのりの筏(いかだ)は
車ぞとこしらふれども火の家に惑ふ心はやまずぞありける
「仁和寺(にわじ)へまかるぞ」と書きて、
歎きつつ日をめぐりてや過ぐしてむ出づるも入るも深山辺(みやまべ)の里
惜しみわび音(ね)のみ泣かるる別れ路は涙もえこそとどめざりけれ
別れ路を慕ふ心はもろともにいきてやわれもあらんとすらん
行く方の近きあふみの海ならば恋ひしき影はそこに見てまし
翻刻
たまひぬ二月十六日かとてし給とて さはくにこころのうちをしはかるへしなか にもこのむまこなるせんしのふた りいみしうなきわふるきくにいとと ものもおほえす思ひわひて仁和寺の/s9r
りしのもとにかかるいてたちちかくなりぬと きこえたれはおはしたりかはかりおもひ たちたらんいかかはせんとありいはんかた なきにあさりなへての人もよまぬ経 いみしうつみもすくひたまふかきい たしてみつからくやうしてなくなくき かせたまふほけう又あさりなといふ 人々してようかきかかせ給れいはたう とくあはれにきかまほしきことなれ とかなしきことにみみにもきこえす めもみえぬやうになりはててなくより/s9l
ほかのこともなくてりしもかへり給ひぬ これらにあるほとにむかへよとやありけん 正月つこもりの日にわしよりくるま おこせてむかへにたまふあさりの御も とにくるまゐてきたるを猶ちかくて いてたち給はんもきかんけふはこのく るまかへしてんときこえたまふにおと ろきておはして猶けふわたり給へ 日つきもあしけれはとてこの候まこの せしとんしておこしたててわれもた ちそひておはするかををたに見/s10r
むとおもへとなみたにきりわたりてい きのあるかきりなかまほしけれとと しころものもたかくいひてきかせぬ そうとものなみゐたるおりしもかな しきことといひなからいまさらにさま あしきこゑもきかせしたた我うせ てわかれぬるなりあみた仏にすく ひたまへとねんしてくるまにかき のせらるるほとの心ちをしはかるへし しにいりたるやにてこそはありしかゐ たるひとにたてまつれとてとらせおきし/s10l
しのへともこのわかれちをおもふには 千載 からくれなゐのなみたこそふれ しはしそとまつひともなきいのちには このよのかりのわかれちそうき みちしはにすておかれぬるつゆの身は はちすのうへもいかかとそおもふ しきしまをこきはなるとも行すゑに こまほしくなるこころつけ南 もろこしもあめのしたにそありときく 新古今 この日のもとはわすれさらなん かのきしにほとなくこそはゆきてこめ/s11r
こころにかなふのりのいかたは くるまそとこしらふれとも火のいゑに まとふこころはやますそありける にわしへまかるそとかきて なけきつつ日をめくりてやすくしてん いつるもいるもみやまへのさと をしみわひねのみなかるるわかれちは なみたもえこそととめさりけれ わかれちをしたふこころはもろともに いきてや我もあらんとすらん/s11l
ゆくかたのちかきあふみのうみならは こひしきかけはそこに見てまし/s12r