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text:jikkinsho:s_jikkinsho06-06

十訓抄 第六 忠直を存ずべき事

6の6 垂仁天皇の御時但馬毛理といふ人常世の国へ遣はしたりけるが・・・

校訂本文

垂仁天皇の御時、但馬毛理(たぢまもり)といふ人、常世の国へ遣はしたりけるが、そのあとに、御門、失せ給ひにけり。

御子、景行天皇の位につき給ふ年、返り来たれりけるが、「持ちて参りたる九種の香菓以下の物を、先皇の陵(みささぎ)に奉る」とて、涕泣していはく、「命を天に受けて、はるかに溺水を渡る。往来のあひだ、十年を経たり。今、天皇崩じて、また命ずることを得で、臣、独り生けりとも何の益(やく)かあらむ」。天に仰ぎて、叫びて、みづからはかなくなりにけり。

御門、群臣に仰せて、かの墓を垂仁の陵のかたはらに築(つ)かせられたりけり。

軍(いくさ)の中にて、君のために命を捨つるたぐひ、世の常に多かれど、かかるためしはまれなり。

唐土(もろこし)に衛の懿公と申しける王、心つたなくおはしまして、賢き臣下をば賞し給はで、鶴をのみ愛して、御幸(みゆき)のをりは同じ輿に乗せて、幸し給ひけるに、夷(えびす)の来て国を亡ぼす時、「鶴、君の怨を退くべし」と言ひて、防ぐ人なかりければ、夷、懿公を殺してみな食ひて1)、その肝ばかりを土の上に残して帰りにければ、懿公の臣、弘演といふ人、大に恥ぢ、おのれが腹を裂きて、君の肝を入れて死す。「主、恥ある時は、臣、死す」とぞ、世の人言ひける。「少人にして高位を踏むことを嫌ふ。鶴、軒に乗ることあり」とは、この心を書けるにや。

かれは、まことにさることはりもありぬべし。これは、まさしき皇子を位つき給ひて、させる恨みもなきに、それにも仕へ奉らで、あまつさへ思ひ切りて、たちまちに命までを捨てけんこと、そのたぐひありがたく、まれなり。

翻刻

七垂仁天皇ノ御時、但馬毛理ト云人常世ノ国ヘ遣シタリ
  ケルカ、其跡ニ御門失給ニケリ、御子景行天皇ノ位
  ニ付給年返来レリケルカ、持テ参タル九種ノ
  香菓已下ノ物ヲ先皇ノミササキニ奉ルトテ涕
  泣シテ云、命ヲ天ニ受テ遥ニ溺水ヲワタル、往来
  ノ間十年ヲヘタリ、今天皇崩シテ又命スル事ヲ
  得テ臣独生リトモ何ノ益カアラム、天ニ仰テサ/k37
  ケヒテ自ハカナクナリニケリ、御門群臣ニ仰テ彼
  墓ヲ垂仁ノミササキノ傍ニツカセラレタリケリ、
  軍ノ中ニテ君ノ為ニ命ヲスツルタクヒ、世ノ常ニ多
  カレト、カカルタメシハマレナリ、
八唐ニヱイノ懿公ト申ケル王、心ツタナクオハシマシテ、
  賢キ臣下ヲハ賞シ給ハテ、鶴ヲノミ愛シテ、ミユキ
  ノオリハ同コシニノセテ幸シ給ケルニ、エヒスノ来テ
  国ヲ亡ス時、鶴君ノ怨ヲ退ヘシト云テ、フセク人ナ
  カリケレハ、ヱヒス懿公ヲコロシテミナク亡テ、其肝ハ
  カリヲ土ノ上ニノコシテ帰ニケレハ、懿公ノ臣弘演ト
  云人、大ニハチ己カ腹ヲサキテ、君ノ肝ヲ入テ死ス、/k38
  主恥アル時ハ臣死ストソ世人云ケル、少人ニシテ
  高位ヲ踏事ヲキラフ、鶴軒ニ乗事アリトハ、
  此心ヲ書ルニヤ、彼ハ誠ニサルコトハリモアリヌヘ
  シ、此ハマサシキ皇子ヲ位付給テ、サセル恨モナ
  キニ、ソレニモ仕ヘ奉ラテ、剰思切テ忽ニ命マ
  テヲステケン事、其タクヒ有カタク希也、/k39
1)
底本「みなく亡て」。諸本「みなくらひて」。亡をヒの誤写とみて訂正。
text/jikkinsho/s_jikkinsho06-06.txt · 最終更新: 2015/12/26 13:07 by Satoshi Nakagawa