発心集
第八第10話(98) 金峰山に於て妻を犯す者、年を経て盲と為る事
校訂本文
河内国より、妻男(つまをのこ)あひ具して、御嶽1)へ参る者ありけり。夜に入りて、詣で着きて、いと苦しく思えければ、礼堂(らいだう)にうち休みつつ、妻男、さし並びて、あからさまに寄り臥したりけるほどに、いふかひなくまどろみにけり。
やや久しくありて、寝覚めたるに、傍(かたは)らに女あり。寝ほれたる心に、もの詣でといふこと、ふつと忘れぬ。わが家にあるやうに思えて、何とも思ひ分かず、この妻を犯しつ。
やうやう目覚めゆくほどに、思ひ出づれば、金剛蔵王の御前なりけり。ともかくも、いふはかりなし。「家にありて精進なんどはじめたるほどだに、いささかも怠ることあれば、時を過ごさず、恐しきことのみあるに、かばかりの誤りをしつ。ただ今、罸を蒙らんこと、疑ひなし。こはいかがすべき」と、妻男、驚き悲しぶ。
まづ、御前を出でて、河のほとりに二人行きて、よくよく水を浴みて、言ひ悲しみつつ、泣く泣くおこたり申して出でにけり。
たぐひなきほどのことなれば、人にも語らず。心の内に、「今や、今や」と待たれつつ、月日送れど、妻も男も、さらにその咎めと思ゆることなし。事故(ことゆゑ)なくて、年ごろ過ぎにけり。このことは、齢二十(よはひはたち)ばかりの折にやありけん。
さて、四十余年経て後、親しき者の、「御嶽へ参る」とて、あながちにけげしかりけるを、「さしも、あるべきことかは」など言ふほどに、おのづから言ひあがりて、「いでや、ことごとしくものたまふものかな。翁(おきな)は、そのかみ、しかじかの業を、まさしく蔵王の御前にて犯したりしかど、さらにこともなくて、すでに六十に余りたり。よろづのことは、ただ言ふと言はぬとなり」と言ふ。
これを聞く人、「今さら、あさまし」と驚き給へりけるほどに、かく言ひて、寝たりける夜のうちに、二つの目つぶれにけりとぞ。
これは近き世のことなり。すべて、仏神の化機かくのごとし。かつは凡夫の愚かなることをかがみ給ひ、かつは懺悔のなほざりならぬにより、その咎を免し給ひけるを知らず、不善の心をもて、垂跡(すいじやく)の御かまへ2)を軽しめ奉り、人の信心を乱らんとしけるゆゑに、古き誤り、さらに重き科(とが)となりにけるなるべし。
翻刻
於金峯山犯妻者経年為盲事 河内国ヨリ妻男アヒ具シテ御嶽ヘ参ル者アリケ リ。夜ニ入テ詣ツキテ。イト苦ク覚ヘケレバ。礼堂ニ 打ヤスミツツ。妻男サシナラビテ。アカラサマニ寄臥 タリケル程ニ。イフカヒ無クマドロミニケリ。良久ア リテ寝覚タルニ。カタハラニ女アリ。ネホレタル心ニ物 詣ト云事フツト忘ヌ。我家ニアルヤウニ覚ヘテ何ト/n21l
モ思ヒワカズ此妻ヲ犯ツ。ヤウヤウ目サメユク程ニ思ヒ 出レバ金剛蔵王ノ御前ナリケリ。トモカクモ云計 ナシ。家ニアリテ精進ナムド初タル程ダニ。イササ カモ怠ル事アレバ時ヲスゴサズ。オソロシキ事ノミ有 ニ。カハカリノ誤ヲシツ。只今罸ヲ蒙ン事無疑コハイ カカスベキト妻男オドロキ悲フ。先御前ヲ出テ 河ノ辺ニフタリ行テ。ヨクヨク水ヲアミテイイ悲ミツツ 泣々オコタリ申テ出ニケリ。無類程ノ事ナレバ人 ニモ不語。心ノ内ニ今ヤ今ヤト待レツツ月日送レド 妻モ男モ更ニ其トガメト覚ル事ナシ。事故/n22r
ナクテ年来スギニケリ。此事ハヨハイ廿計ノヲリ ニヤ有ケン。サテ四十余年経テ後。シタシキ者ノ 御嶽ヘ参ルトテ。アナガチニケゲシカリケルヲ。サシ モ可有事カハナドイフ程ニ。自ラ云アガリテ。イデ ヤ事々敷モノ給フ物カナ。翁ハソノカミシカシカノ 業ヲ正ク蔵王ノ御前ニテ犯シタリシカド。更事 モ無テ既ニ六十ニ余タリ。万ノ事ハ只云トイハヌ トナリト云。是ヲ聞人今更アサマシト驚給ヘリケ ル程ニ。カク云テ寝タリケル夜ノ中ニ二ノ目ツブレニケ リトゾ。是ハ近世ノ事ナリ。惣テ仏神ノ化機カク/n22l
ノ如シ。且ハ凡夫ノ愚ナル事ヲカカミ給ヒ。且ハ懺悔ノ ナヲザリナラヌニヨリ。其咎ヲユルシ給ケルヲ不知。 不善ノ心ヲモテ垂跡ノ御マカヘヲ軽シメ奉リ。人ノ 信心ヲミダラントシケル故ニ。フルキ誤サラニ重キ 科ト成ニケルナルベシ/n23r