発心集
第五第8話(55) 中納言顕基、出家籠居の事
校訂本文
中納言顕基1)は大納言俊賢2)の息(そく)。後一条の御門3)に時めかし仕へ給て、若うより司・位につけて恨みなかりけれど、心はこの世のさかえを好まず、深く仏道を願ひ、菩提を望む思ひのみあり。常のことぐさには、かの楽天4)の詩に、「古墓、何れの世の人。知らず姓と名と。化して路傍の土と為つて、年々春草生ひたり」といふことを口づけ給へり。いといみじき数寄人にて、朝夕琵琶を弾きつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。
かの後一条、隠れましましたりける時、歎き給ふさま、ことはりにも過ぎたり。御所のありさま、いつしかあらぬことになりて、はてには、火をだにも灯(とも)さざりけるを、尋ね給ひければ、「諸司(しょし)みな、今の御ことをつとむる間に、つかうまつる人なし」と聞こえけるに、いとど世の憂さ思ひ知られて、さるべき人、みな御門の御方へ参りけれど5)、「忠臣は二君に仕へず」と言ひて、つひに参らず。
御忌みの中のわざなど、つかうまつりて、やがて家を出で給ふ。その年ごろの上君達(うへきんだち)、袖をひかへて、別を悲しみけれど、さらにためらふ心なかりけり。
横川に登りて、頭(かしら)をろして、こもり給へりけるとき、上東門院6)より問はせ給ひたりければ、
世を捨てて宿(やど)を出でにし身なれどもなほ恋ひしきは昔なりけり
とぞ聞こえ給ひける。
後には大原に澄みて、二心なく行ひ給ひけるを、時の一の人7)、貴く聞き給ひて、忍びつつ、彼の室(しつ)に渡り給ひて、対面(たいめん)し給へることありけり。宵(よひ)より御物語など聞こえて、暁にそよふけて、この世のこと、一言葉も言ひまぜ給はず。いとめでたく貴く思されて、導き給ふべきことども、返す返す契り聞こえて、今帰りなんとし給ひける時、「さても、渡り給へる、いとかしこまり侍り。俊賢8)は不覚のものにて侍るなり」とてなむ、申し給ひける。
その時は、何とも思ひ分き給はず。帰り給ひて、このことを案じ給ふに、「させるついでもなかりき。よも、わが子のため、悪しきさまのこと言はんとてはの給はじ。『すぐれたることなくとも、見放たず、方人せよ』とこそはあらめ。世を背くといへども、なほ恩愛は捨てがたきものなれば、思ひ余られたるにこそ」と、あはれに思されて、その後、ことにふれつつ引立てとり申し給ひければ、みなしごなれど、早く大納言までぞのぼりにける。「美濃の大納言」と聞こゆるは、この君なりけり。
翻刻
中納言顕基出家籠居事 中納言顕基ハ大納言俊賢ノ息。後一条御門ニ時メ カシツカヘ給テ。ワカウヨリ司位ニツケテ恨ナカリケ レド。心ハ此世ノサカヱヲ好マズ深ク仏道ヲネガヒ菩提 ヲノソム思ヒノミ有。ツネノコトクサニハ彼楽天ノ詩ニ古 墓何世人。不知姓与名。化為路傍土年々春草生タ リトイフ事ヲ口ツゲ給ヘリ。イトイミジキスキ人ニテ 朝夕琵琶ヲヒキツツ罪ナクシテ罪ヲカウフリテ配 所ノ月ヲ見ハヤトナム願ハレケル。彼後一条カクレマシ マシタリケル時ナケキ給サマコトハリニモ過タリ。御所/n17l
ノアリサマ。イツシカアラヌ事ニナリテ。ハテニハ火ヲダニ モトモサザリケルヲ尋給ヒケレハ諸司ミナ今ノ御事 ヲツトムル間ニツカフマツル人ナシト聞ヘケルニ。イトト世 ノウサ思ヒシラレテサルベキ人ミナ御門ノ御方ヘマ イリケルト。忠臣ハ二君ニツカヘズト云テ終ニマイラズ。 御イミノ中ノ事ナドツカフマツリテ。ヤガテ家ヲ出給 其トシゴロノ上君達袖ヲヒカヘテ別ヲカナシミケレド。 更ニタメラフ心ナカリケリ。横川ニノボリテカシラヲロシ テ籠リ給ヘリケル時。上東門院ヨリ問セ給タリケレバ。 世ヲ捨テ宿ヲ出ニシ身ナレ共猶恋キハ昔ナリケリ/n18r
トゾキコエ給ヒケル。後ニハ大原ニスミテ二心ナク行 給ヒケルヲ時ノ一ノ人タウトク聞給ヒテ。シノビツツ 彼室ニ渡リ給ヒテ対面シ給ヘル事アリケリ。宵ヨリ 御物語ナドキコヘテ暁ニソヨフケテ此世ノ事一コト バモ云マゼ給ハズ。イトメデタクタウトクオボサレテ 道引給フベキ事トモ返々契リキコエテ。イマカヘリ ナントシ給ヒケル時。サテモ渡リ給ヘルイトカシコマリ 侍リ。俊賢ハ不覚ノモノニテ侍ナリトテナム申給ヒ ケル。其時ハナニトモ思ヒワキ給ハズ。帰リ給テ此事 ヲ案ジ給フニ。サセルツヰデモナカリキ。ヨモ我ガ子ノ/n18l
為アシキサマノ事イハントテハノ給ハジ。スグレタル 事ナクトモ。見ハナタズ方人セヨトコソハアラメ。世ヲ 背クトイヘドモ猶恩愛ハ捨ガタキ物ナレバ。思ヒア マラレタルニコソト哀ニオボサレテ。其後事ニフレツツ ヒキタテトリ申給ヒケレハ。ミナシゴナレド早ク大納 言マテゾノボリニケル。ミノノ大納言トキコユルハ此 キミナリケリ/n19r