文書の過去の版を表示しています。
宇治拾遺物語
第16話(巻1・第16話)尼、地蔵見奉る事
尼地蔵奉見事
尼、地蔵見奉る事
今は昔、丹後国に老尼ありけり。
「地蔵菩薩は暁ごとにありき給」といふ事をほのかにききて、暁ごとに「地蔵見たてまつらん」とて、ひと世界をまどひありくに、博打のうちほうけてゐたるがみて、「尼君は、さむきに、なにわざし給ぞ」といへば、「地蔵菩薩の暁にありき給なるにあひまひらせんとて、かくありく也」といへば、「地蔵のあるかせ給ふ道は、我こそしりたれ。いざ給へ。あはせまいらせん」といへば、「あはれ、うれしき事哉。地蔵のありかせ給はん所へ、我をいておはせよ」といへば、「我に物をえさせ給へ。やがていてたてまつらん」といひければ、「此きたる衣たてまつらん」といへば、「さは、いざ給へ」とて、隣なる所へいていく。
尼悦びて、いそぎ行に、そこの子に地蔵といふ童有けるを、それがおやをしりたりけるによりて、「地蔵は」ととひければ、おや「あそびにいぬ。いまきなん」といへば、「くは、ここなり。地蔵のおはします所は」といへば、尼うれしくてつむぎのきぬをぬぎてとらすれば、ばくちはいそぎとりていぬ。
尼は地蔵みまいらせんとてゐたれば、おやどもは心もえず「など、『このわらはをみん』と思らん」と思程に、十ばかりなる童のきたるを「くは、地蔵よ」と、いへば、尼、みるままに是非もしらず、ふしまろびておおがみ入て、土にうつふしたり。
童、ずはへを持てあそびけるままに来たりけるが、そのずはへして、手すさみの様に額をかけば、額よりかほのうへまでさけぬ。さけたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顔みえ給。
尼、おがみ入て、うちみあげたれば、かくて立給へれば、涙をながして、おがみ入まいらせて、やがて極楽へ参にけり。
されば、心にだにも深念しつれば、仏もみえ給なりけると信ずべし。