沙石集
巻10第1話(119) 仏教の宗旨を得る人の事
校訂本文
金剛院の僧正実賢、年たけて後、仏法の心地ある弟子に物語せられけるは、当初(そのかみ)、無下に若かりし時、高野詣の便宜に、和州の山寺巡礼しに葛城の辺の山里に行き暮れて、ある山賤(やまがつ)が家に立ち寄りて、宿を借るに、年たけたる法師出で合ひて、「見苦しげに候へども、入らせ給へ」と言ひしかば、立ち入りぬ。さて、粟の飯を折敷(をしき)に木の葉うち敷きて取り出だしたり。「何にても器物(きもつ)に入れてたべかし」と言ひしかば、「尋常の人と見奉れば、便なく」と言ひき。
さて、焼火(たきび)なんどして物語せしは、智慧のあひおはせば、ただ人とも覚え給はず。「わが身のこと、くはしく申し候はん。これは、この山賤が子にて侍(はんべ)るが、幼少の時、興福寺のある僧房に候ひて、学問つかまつりしが、器量も無下にも候はで、稽古し侍りしほどに、出家の後は学生の覚えありて、公請(くじやう)なんども勤め侍りしが、仏法の大意は生死の流転を断ち、菩提の妙果を期すべしとこそ見ゆるに、学者の意楽(いげう)、ただ今生の名利栄耀を心として、出身の思ひ、官途の望みのみにて、滅罪の行儀なく、唯識の観念欠けたる風情、仏意にもそむき、法門の掟にもかなはず覚え侍りしかば、公請も物憂く侍りしを、師匠にて候ひし僧、出身の心のなき者とて、常にはうけぬことにて侍りしほどに、父にて侍り候ひし者、労(いた)はること候ひしかば、「看病なんどつかまつる」とて、日ごろ仕へ侍りしほどに、凡夫の習ひのつたなさは、隣の百姓が女に落ち候ひぬ。
さて、父、死して後、ただ一人子にて侍りしままに、この家を継ぎて、山里の習ひなれば、粟なんどいふもの作りて過ぎ候へば、ひたすら山賤になり果てて、恥かしさに本寺へまかり通ふこともなし。年たけて後は、世間の愛習もなくなりて1)、当時もこれにうはにて候ふものなり。さるままに、昔、学せし仏法の忘れがたくして、本寺へ聖教を尋ねてこれに候ふ、御覧ぜよ」と言ふ。見れば、皮籠(かはご)五・六合あり。
さて、またすることは候はず。聖教を細やかに見候ふほどに、「近ごろ仏教の大意を心得て侍るなり。そのゆゑは、諸宗はみな、いまだ弘通(ぐづう)せぬ時候ひけり。祖師、弘通するゆゑに失せて候ふなり。法相は慈恩大師2)の時より失せ、天台宗は智者大師3)の時より失せ、真言は弘法大師4)の時より失せて候ふなり。有仏無仏性相常住の法なり。言語なく、定相なく、分限なく、格量なき所に、言説を用ゐ、格式を立つるより、真実の旨は失することなり。旨を広むるは、みな一門を立て勝劣を論じ、一義を正として是非を判ず。方なきところに法を立て、言なき法に言をあらはするゆゑに、言へば格立し、思へば境存す。すでに定相を立つ。何ぞ無礙(むげ)の法ならん。また、境界を存す、誰か無相の理と言はん。まことに一心ならば、誰(たれ)か思ひ、誰か思はれん。はたして無相ならば、何か縁じ、何か縁せられん。されば、迷の機に対して宗を立つことは、『狂人走れば、不狂人走る』と言ふがごとく、やむごとなき仮の方便なり。このゆゑに、教門あらはれず、諸宗立たざる時、真実の仏法なるゆゑを心得て侍るなり」とて、さまざまの法門めでたく語りき。
大聖の出世に会へる心地して、あまりに貴く覚えしかば、「法相の法門の大意、承りたく侍り」と言ふに、「君は仏法の棟梁になり給ふべき相おはします。あやしげなる住まゐこそ、御いたはしく思ひ奉れども、仏法のためなれば、何かは」とて、法相の本書の大綱、談ずること一両月に及ぶ。すべて、普通の学生のごとくにあらず。教門・宗旨、底に通り源を極めて、「まことに、仏意もかくこそ」と覚えしかば、権者に会へる心地して、わが身の一期の智慧、かの師匠の恩徳なり。
さて、「かかる者の、これにありといふこと、あなかしこ御披露な候ひそ。このほどの御情、ただこれに候ふべし」と言ひしかば、「子細に及ばず」と約束して、名残惜しく覚えながら、高野へ詣でて、また下向の時、寄りたりしには、いと心よくも思はずげにて、「申すべきことは大底申し候ひき」と言ひしかば。一夜留まりて帰りにき。
その後、あまりにおぼつかなく覚えしかば、一両年の後、また行き会ひたりしには、心地よげなる気色にて、「かかる者ありと、御披露はなかりけりと思え候ふ。先の小法師を御供に具せられて候ふ」とて、両三日留まりて、なほなほ仏法の大意物語して、帰りし後は、すべて聞くことなかりき。「かかる先達にこそ会ひたりしか」と、意ある弟子に語られけるよし、かの孫弟子の僧なん語り侍りき。
かの僧正は、近ごろの智者と聞こえき。ありがたき知識に会はれて、仏法の大綱、存知せられける。肇公5)の宝蔵論・肇論、仏法の大綱これにあり。この老人の意、天然とあひかなへり。
宝蔵論は最後の作、三帝仏法の大意、分明なり。肇論文、下にこれあり。一行禅師・善無畏三蔵の口伝を受け伝へ給へる大日経の疏にも、「菩提は人に授くること、手の中の菓を人に与ふるごとくに非ず。必ず無師自悟の智慧ありて得べし。心を得る妙は、人に授くべきにあらず6)」と言へり。高野大師7)の御言にも、「密教の本意は、心をもつて心を伝ふ。文字はこれ瓦礫、文字はこれ糟粕なり」とのたまへり。性霊集に見えたり。天台智者大師8)、南岳に三種の止観を伝へ給へるも、文字をば伝へ給へりといへども、「証不由他。(証は他に由らず。)」と言ひて、まことの自証はわれと得給へり。
教門の言語義理は、習ひ伝ふといへどとも、言を離れ義を忘れて、知るところは不伝の妙なり。われとみづから知るべし。これを仏祖不伝の妙と言ふなり。一行禅師の疏にも、「人の疵をかぶれる、痛みあること疑ひなしといへども、まさしく痛みを知ることは、われ疵をかぶりて知るがごとし」と言へり。祖師のいはく、「水を飲みて、冷暖自知する」と言へる、この心なり。水は冷く湯は温なりと習ひ知るといへども、まさしく飲み触れずは、いかでか知らん。真実の意を得ること、これになずらふべし。
老子なほいはく、「大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり」と。大道の代には、人ごとに孝道を行ふゆゑに、自然に孝行その身に振舞ひ、その意にあり。このゆゑに、人の教へなく、言に出づることなし。病なき時、薬なきがごとく、仁義礼智信といふ言葉なし。「不孝の子、悪逆の輩、代にありし時、仁義の教へ現はれたり」と言ふなり。河上公いはく、「『大道廃れて仁義あり』と言ふは、大道の代には家々に孝子あり、戸々に忠臣あり。仁義現はれず、大道廃れて用ゐられず、悪逆生じて、すなはち仁義の伝ふべき道あり。『智慧出でて大偽あり』と言ふは、智恵の君、徳を賤しみ言を貴び、質を卑しみ文を貴び給ふゆゑに、人これをもて、文を学びて偽りをなす。されば、五帝の象をたれ、蒼頡が書を作る。三皇の縄を結び、木を刻みしにしかず」と言へり。「人の心、素直なりし時は、木を刻み、縄を結び、しるし違(たが)へず。文字を並ぶる代には偽りあり」と言へり。
これがごとく、仏教も凡夫の感なくば、あらはるべからず。ただ寂静・凝然なり。凡聖、跡なし。迷ひの衆生、種々の見を起こし、処々に着を生ずるゆゑに、やむことなくして文字をあらはし、言説を起こしてこれを引導するなり。
ゆゑに法華9)にいはく、「但以仮名字引導於衆生。(但し名字を仮るを以て衆生を引導す)」と言ふ。「衆生処々著。引之令得出。(衆生、処々に着す。これを引きて出だすことを得しむ。)」とも説けり。肇論いはく、「存称謂者封名。志器象者耽形。名也極於題目。形也尽於方円。方円有所不写。題目有所不伝云々。(存称と謂ふは名を封ず。志器象とは形に耽る。名や題目に極む、形や方円を尽くす。方円は写さざる所有り。題目は伝へざる所有りと云々)」。
これ、まことに諸宗のおのづから言象の外にあること、疑ひなかるべし。法華にも、「諸法寂滅相不可以言宣。(諸法寂滅の相は言を以て宣ぶべからず)」と言へるは、まことの所なり。「以方便力故、為五比丘説。(方便の力を以てする故に、五比丘の為に説く。)」は、やむごとなくして、仮なる名字をもて引導し給ふことなり。祖師の失なふことは、まことにはあるべからず。ただ凡夫のつたなきゆへに、和光同塵の心なるべし。方便なくしては、真実の所現はれがたきゆゑに、慈悲をもて、大権跡を垂る。一向に祖師を軽(かろ)しめば、また大きなる誤りならん10)。
和光の方便、三国の風、みな同じなり。維摩居士11)の示長者の身方便を、肇公の讃むる言葉にいはく、「非本無以垂迹。非迹無以顕本。本迹雖異不思議一也云々。(本にあらざれば以て迹を垂ること無し。迹にあらざれば以て本を顕はすこと無し。本迹は異なりといへども、不思議一つ也と云々)」。上宮12)の維摩13)の御疏にも、多く肇公の言葉を用ゐ給へり。祖師、みな和光の方便なり。その意、大は相似たり。
楞伽14)にいはく、「われ、得道の夜より泥洹(ないをん)の夜まで、一字をも説かず」と。されば、真実のところには言説なし。また悟道の縁を言はば、ただ文字に限らず、山河大 地、何ものか実相にあらざらん。
「色香中道なり。森羅万象ことごとく仏身なり」と言へり。ゆゑに東坡居士15)、谷川の声を聞きて、道を悟りて頌にいはく、「渓声便是広長舌。山色豈非清浄身。夜来八万四千偈。他日如何挙示人。(渓声すなはちこれ広長舌。山色あに清浄身にあらざらんや。夜来八万四千の偈。他日いかん人に挙示せん。)」
仏意を明らめば、何ものか仏法にあらざらん。六塵の説法、たふることなし。仏頂16)には、「三科七大本如来蔵」と言へり。まことに仏法にすき、菩提を願ふ心あらば、文字の上にもあれ、境界のところにもあれ、自然に意を得べし。しかれば、言説に対しては言説を忘れ、分別のところには分別を明きらむる力あらば、言説の赴くところ、分別の落ちゐる境(さかひ)、おのづから知りぬべし。もし言説に着し、分別に滞らば、いかでか妙なる仏意を知るべき。
言説念慮はこれ幻化虚偽の夢中の妄想なり。ゆゑに法華17)にいはく、「是法非思量分別之所能解。(是の法は思量分別のよく解する所にあらず。)」と。まことなるかな。法すなはち心、心すなはち法ならば、眼みづから眼を見ざるがごとし。されば、心をもつて心を知らんとせんは、わが目をもつて、おのれが目を見んとせんがごとし。あに遠からざらんや。
このゆゑに、心を忘れて心を知り、言を忘れて言を用ゐる、これ道人の姿、達人の儀なり。楞厳経18)に、一つの譬へを説けり。演若達多(えんにやくだつた)といふ者、朝、鏡を見る。悪しく鏡を持ちて、面(おもて)の見えざる時、「鬼魅の所為にて、わが頭失せぬ」と思ひて、おほきに愁へ歎き、狂心にして走り求む。人ありて教へて、よく鏡を見せしむる時、「先に失なへる頭を今得たり」と思ひて、これを悦ぶ。これを迷ひの衆生の意に喩ふ。
わが本覚の実体は霊性天然なり。失すべきにあらず。しかるに、知見に知を立て、覚にそむき、塵をとめて、「妙明の霊覚を失なへり」と思ひて、種々に欣求し修行して、「菩提を得たり」と思ふ。頭を失せたりと思ひ、また得たりと思ふがごとし。しかれば、本覚を失なへりと思ふ、流転生死も夢なり。仏果を得たりと思ふ、始覚の涅槃も夢なり。
円覚19)にいはく、「始知衆生本来成仏、生死涅槃猶如昨夢。(始めて衆生本来より成仏せりと知れば、生死涅槃なほ昨の夢のごとし。)」と言ひて、生死の迷妄のみならず、始覚の菩提も夢なりと言へり。本来の知見、天然の霊覚、万物に障(さ)へられず、六塵に汚されざるところ、無我の大我、自己の宝蔵なり。この所は、凡にあらず、聖にあらず、迷もなく、悟もなし。しひて本地の風光、本来の面目と言へり。
このゆゑに、思益経にいはく、「諸仏の出世は、衆生をして、生死を出でて、涅槃に入らしめんがためにあらず。ただ生死と涅槃との二見を断たしめんとなり」。二見はすなはち同じく夢なるゆゑなり。夢覚むるを、仮(かり)に現(うつつ)といふ。現の相も、まことには無し。されば、一代の教門は、愚痴の衆生をこしらふる方便なれば、仮の言説なり。ゆゑに、天台の師も、教権理実(けうごんりじつ)といひて、およそ教門はみな権(かり)なりと言へり。理実といへるも、理といふ相を取らば、これまた夢の心なり。教の権に対して、しばらく実証の処を理といへり。理処を執せば、また権なるべし。
三論師20)も、「二諦唯是教門。不開境理。(二諦はただこれ教門。境理を開かず。)」と言へり。これも境理と言へる相なし。二諦教門は至理にあづからすと言ふばかりなり。諸宗みな、機を引く方便の教門異なれども、実証のところ変るべからず。法相にも、言説を立つるをば、依詮(えぜん)と言ふ。有為有相なり。安立諦とも言ふ。実証のところをば、廃詮と言ふ。無為無相なり。これを非安立諦と言ふ。されば、言を立て心を起こすは、幻化虚妄の境界なり。
一切の教門は、頭を失へる狂人に向ひて、「頭は失せぬぞ」と教ふるがごとし。これ、やむごとなき言葉なり。頭を失はぬ者に向ひて言ふは、いたづらごとなり。このゆゑに、真実に本心を得なば、いかが外に仏法を求め、うとく言説を用ゐん。かの山中の老僧、すでにこの境に入りて、諸宗の先達をも、「宗を失ふ人」と言へり。これはまことに失ふにはあらず。やむごとなくして、一門の方便を立つるなり。
しかれども、法体にうとき、教門の旨を得ざる学者を失と言へり。ゆゑに、書にいはく、「智師にあひて21)、師の意を知る」と言へり。この老僧、智すでに師に超えて、師の意教の旨を得たり。超仏越祖といへるも、まことには、いかでか仏祖に越えん。この心なるべきをや。
およそ、世間出世、格を越えて格に当たるは、当たらずといふことなし。格の中にして、格を出でざるは、あるいは当たり、あるいは当たらず。礼儀を知らず無礼なるは、いふかひなし。格を知らざる者なり。礼を知りて、時折節もわきまへず、ただかたく礼を守るは、かたくななることあるべし。これ、格を出でざる者なり。折を知り時に随ひて、格を越え、礼にかかはらずして、ものの意を得て振舞ふ。これ、まことの達人なり。「諸道の達者、その道の意を得る者、必ずしも師説にかかはらず」と言へり。これ、道々の不伝の妙なり。
南都のある寺に、如法経を行ひける道場の幡(はた)に火つきて燃ゆるを、ある沙弥、ことうるはしき体にて、老僧に申しけるは、「道場の幡に火のつきて候へば、行水して入て消ち給ふべきか」と言ふ。これ、格を出でざる姿なり。折にこそよれ、急ぎ入りて消つべし。
武州のある寺の長老、宋朝に渡りて、かの寺の行儀を移し行ふゆゑに、十三人の僧を、十二人は寺官にさして、点心営みける時、一人の僧をば堂僧とて、点心を食はせず。大きなる寺に、堂僧多かるゆゑに、官人ばかりに点心するを守(まぼ)る格式、をこがましくこそ。このことは、宋朝まで聞こえたる勝事なり。またある寺には、三人してからをりの行道(ぎやうだう)し、ある寺には、四人して二行の列を引く。これみな格を守るゆゑなり。僧多かる時の行なり。少なき時の行儀にあらず。
在家出家をいはず、格式を知らず、礼儀を存ぜざるは多し。格を知れる人の、格を越えて、かへりて格に当たる人、まことにまれなり。和泉式部、保政22)にすさめられて、ある巫(かんなぎ)を語らひて、貴布禰(きふね)にて敬愛の祭(まつり)をせさせける。保政、あらあら聞きて、かの社の木陰に立ちて、隠れて見ければ、年たけたる御子、赤幣立て並べたるめぐりを、様々に作法して、鼓(つづみ)を打ち、前をかき上げて叩きて、三返めぐりて、「これていにせさせ給へ」と言ふに、面(おもて)うち赤めて返事もせず。「いかに、これほどの御大事に、今はこればかりになりて、かくはせさせ給はぬ。さらば、なじに思し召し立ちける」と責むれば、保政、「くせ事見てんず」と、をかしく思ふほどに、かくぞ詠じける。
ちはやぶる神の見る目も恥かしや身を思ふとて身をや捨つべき
かの心の内、わりなく優に覚えければ、「保政これに候ふぞ」と言ひて、具して帰りて、心ざし浅からずなんありける。
これこそ、格にかかはりて振舞ひたらましかば、やがてぞうとまれなまし。格を越えて、かへりて格に当たりて、祈念もかなひけるなるべし。
開田の御室23)、東大寺にて受戒し給ひけるに、雪おびただしく降り、風吹きて、戒壇院の石壇の上にも雪積りたり。石壇の上には足駄(あしだ)は履かぬことなれば、「あの御足駄、脱がれ候へ、脱がれ候へ」と、大衆ども申しければ、すでに脱がんとし給ひけるを、ある大衆、「凶の田舎大衆かな。折にこそよれ、ただ召さし候へ」と申しければ、脱ぎ給はず。「げにも、法式はさることなれども、いとけなき禅師の君の、雪の上を裸足にておはせんこと、いたはしく思ひて、格にかかはらず申しける心、わりなし」と、供奉の人々も思ひ合ひけり。
さて、後に尋ねられければ、中道房24)の、いまだ太輔房とて、大衆の中にてさかさかしく申されける。そのゆゑにや、当時まで、御室の御気色しかるべきやうにて、真言の秘事なんど御許しありけりと聞こゆ。
人は情(なさけ)もあり、心もあるべきものなり。およそ、格を知らざるは、いふかひなし。格をかたく振舞ふは世の常の人なり。格を越えてその意を得る、これ達人なり。
凡夫の仏法を知らず、因果を信ぜざるは、格を知らざるがごとし。二乗の生死涅槃の執かたくして、生死の有を捨てて、涅槃の空を証するは、格をかたく執する人のごとし。ただ、大乗の菩薩のみ、大乗の意を得て、生死即涅槃の旨を達して、大智のゆゑに生死の泥(でい)に染(せん)せず。万法の空寂を達し、大悲のゆゑに涅槃の空に住せず。四生の迷徒を救ふ。これ格を越えて格に当たる姿なり。これ第四の無住涅槃なり。
唯識論に四種の涅槃を釈す。第一は本来自性清浄涅槃、これ凡聖無有の真如の体なり。第二は有余。第三は無余。無余、これは小乗の涅槃なり。第四の無住涅槃、これ大乗の菩薩の姿なり。煩悩所知の障を断ちて、衆生を利する姿なり。
論にいはく、「大悲般若常所輔翼。由斯不住生死涅槃。利益有情窮未来際。用而常寂。故名涅槃。(大悲般若常に輔翼する所。これによりて生死涅槃に住せず。有情を利益して未来際を窮む。用ゐて常に寂なり。故に涅槃名づく。)」と云々。涅槃の翻語にあまたこれあり。不生不滅・寂静・円寂・安楽などなり。これは寂静の心なるべし。
法華25)の四要品26)には、観音品27)、涅槃に当たる。種々利益、これこの無住涅槃なり。有相無相不二なるゆゑ、性相空有全く同じ。これ、まことの大行なり。ひとへに一法に住するは、大乗の行にあらず。この法門、心得べし。法華に「具三十二相28)、乃是真実滅。(三十二相を具す、すなはちこれ真実の滅。)」と言へる、この心なり。滅は、すなはち寂滅涅槃なり。肇論にこの法門多く見えたり。弥寂弥動し、弥動弥寂と言へり。
凡夫は生死に着す。智慧なきゆゑに。二乗は涅槃に着す。慈悲なきゑに。ただ菩薩の意(こころ)、深広無礙にして妙なり。仰ぎて学ぶべし。大乗の修行、これらをわきまへて、信心を堅固にし、偏少邪路に入るべからず。よくよく思ひとくべき道理なり。
この物語は秘事なり。しかれども、心の中に朽ちさじとて書き付け侍り。心あらん人は、さだめて感じ給ふべし。
翻刻
沙石集巻十 上 得仏教之宗旨人事 金剛院ノ僧正実賢年タケテ後仏法ノ心地アル弟子ニ 物語セラレケルハ当初無下ニワカカリシ時高野詣ノ便宜ニ 和州ノ山寺巡礼シニ葛木ノ辺ノ山里ニ行クレテ或山カ ツカ家ニタチヨリテ宿ヲカルニ年タケタル法師出アヒテ見苦 ケニ候ヘトモ入セ給ヘトイヒシカハ立入ヌサテ粟ノ飯ヲ折敷 ニ木ノ葉ウチシキテ取出シタリ何ニテモ器物ニ入テタヘカシト イヒシカハ尋常ノ人ト見奉レハ便ナクトイヒキサテ焼火ナント シテ物語セシハ智慧ノ相御坐セハタタ人トモ覚エ給ハス我身 ノ事委ク申候ハン是ハ此山カツカ子ニテハンヘルカ幼少ノ時 興福寺ノ或僧房ニ候テ学問仕シカ器量モ無下ニモ候ハテ/k10-366l
稽古シ侍シホトニ出家ノ後ハ学生ノ覚ヘ有テ公請ナントモ ツトメ侍シカ仏法ノ大意ハ生死ノ流転ヲタチ菩提ノ妙果 ヲ期スヘシトコソ見ユルニ学者ノ意楽タタ今生ノ名利栄耀 ヲ心トシテ出身ノ思官途ノ望ノミニテ滅罪ノ行儀ナク唯識 ノ観念カケタル風情仏意ニモソムキ法門ノヲキテニモカナハ ス覚ヘ侍シカハ公請モ物ウク侍シヲ師匠ニテ候シ僧出身ノ 心ノナキ者トテ常ニハウケヌ事ニテ侍シ程ニ父ニテ侍候シ者 労事候シカハ看病ナント仕トテ日来ツカヘハンヘリシ程ニ凡 夫ノ習ノツタナサハ隣ノ百姓カ女ニオチ候ヌサテ父死シテ後タ タ一人子ニテ侍シママニ此家ヲツキテ山里ノ習ナレハ粟ナン ト云物ツクリテスキ候ヘハヒタスラ山カツニナリハテテハツカシサ ニ本寺ヘマカリカヨフ事モナシ年タケテ後ハ世間ノ愛習モナ/k10-367r
ナクナリテ当時モコレニウハニテ候者也サルママニ昔学セシ仏 法ノワスレカタクシテ本寺ヘ聖教ヲ尋テ是ニ候御覧セヨト云 見レハ皮籠五六合有サテ又スルコトハ候ハス聖教ヲコマヤカニ 見候程ニ近比仏教ノ大意ヲ心得テ侍也其故ハ諸宗ハミ ナ未タ弘通セヌ時候ケリ祖師弘通スル故ニウセテ候也法 相ハ慈恩大師ノ時ヨリウセ天台宗ハ智者大師ノ時ヨリウ セ真言ハ弘法大師ノ時ヨリウセテ候也有仏無仏性相常 住ノ法也言語ナク定相ナク分限ナク格量ナキ所ニ言説ヲモ チヰ格式ヲタツルヨリ真実ノ旨ハウスル事也旨ヲ弘ルハ皆一 門ヲ立テ勝劣ヲ論シ一義ヲ正トシテ是非ヲ判ス方ナキ処ニ 法ヲ立テ言ナキ法ニ言ヲ顕スル故ニ言ヘハ格立シ思ヘハ境 存ス既ニ定相ヲ立ツ何ソ無礙ノ法ナラン又境界ヲ存ス誰/k10-367l
カ無相ノ理トイハン実ニ一心ナラハ誰カ思ヒタレカ思ハレン ハタシテ無相ナラハ何カ縁シ何カ縁セラレンサレハ迷ノ機ニ対 シテ宗ヲ立事ハ狂人ハシレハ不狂人ハシルト云カ如クヤム事 ナキカリノ方便也此故ニ教門アラハレス諸宗タタサル時真 実ノ仏法ナル故ヲ心ヱテ侍也トテ様々ノ法門目出ク語キ 大聖ノ出世ニアヘル心地シテ餘リニ貴ク覚ヘシカハ法相ノ法 門ノ大意承リタク侍リト云ニ君ハ仏法ノ棟梁ニ成給ヘキ 相御坐アヤシケナル栖居コソ御イタハシク思奉レ共仏法ノ 為ナレハナニカハトテ法相ノ本書ノ大綱談スル事一両月ニ 及フ都テ普通ノ学生ノ如クニ非ス教門宗旨底ニトヲリ源 ヲキハメテ実ニ仏意モカクコソト覚シカハ権者ニアヘル心地 シテ我身ノ一期ノ智慧彼師匠ノ恩徳也サテカカル者ノ是ニ/k10-368r
アリト云事穴賢御披露ナ候ソ此ホトノ御情タタ是ニ候ヘシ ト云シカハ子細ニヲヨハスト約束シテナコリオシクオホエナカラ高 野ヘ詣テ又下向ノ時ヨリタリシニハイト心ヨクモ思ハスケニテ 申ヘキコトハ大底申候キト云シカハ一夜トトマリテカヘリニキ 其後アマリニオホツカナク覚シカハ一両年ノ後又ユキアヒ タリシニハ心地ヨケナル気色ニテカカル者有ト御披露ハナカリ ケリトオホヱ候サキノ小法師ヲ御供ニ具セラレテ候トテ両三 日トトマリテ猶々仏法ノ大意物語リシテ帰リシ後ハ都テキク 事ナカリキカカル先達ニコソアヒタリシカト意有弟子ニカタラ レケル由彼孫弟子ノ僧ナンカタリ侍キカノ僧正ハ近比ノ智 者トキコヱキ有カタキ知識ニアハレテ仏法ノ大綱存知セラレ ケル肇公ノ宝蔵論肇論仏法ノ大綱有之此老人意天然/k10-368l
ト相叶ヘリ宝蔵論ハ最後ノ作三帝仏法大意分明也肇 論文下ニ有之一行禅師善無畏三蔵ノ口伝ヲ受伝給ヘ ル大日経ノ疏ニモ菩提ハ人ニサツクル事手ノ中ノ菓ヲ人ニ アタフルコトクニ非ス必無師自悟ノ智慧有テ得ヘシ心ヲ得 ル妙ハ人ニサツクヘキニヲラストイヘリ高野大師ノ御言ニモ 密教ノ本意ハ心ヲ以心ヲツタフ文字ハコレ瓦礫文字是糟 粕也トノ給ヘリ性霊集ニ見ヘタリ天台智者大師南岳ニ三 種ノ止観ヲツタヘ給ヘルモ文字ヲハツタヘ給ヘリトイヘトモ証 不由他ト云テ誠ノ自証ハ我ト得給ヘリ教門ノ言語義理ハ 習伝トイヘトモ言ヲハナレ義ヲ忘レテ知トコロハ不伝ノ妙也 我トミツカラ知ヘシ是ヲ仏祖不伝ノ妙トイフ也一行禅師ノ 疏ニモ人ノ疵ヲカフレル痛有事疑ナシトイヘトモマサシク痛ヲ/k10-369r
知事ハ我疵ヲカフリテ知カ如シトイヘリ祖師ノ云水ヲ飲テ 冷煗自知スルトイヘル此心ナリ水ハ冷ク湯ハ温也ト習知ト 云トモマサシク飲フレスハ争カシラン真実ノ意ヲ得事コレニ ナスラフヘシ老子猶云大道廃テ仁義アリ智慧出テ大偽 有ト大道之代ニハ人コトニ孝道ヲ行フ故ニ自然ニ孝行 其身ニフルマヒ其意ニアリ此故ニ人ノヲシヘナク言ニイツル 事ナシ病ナキ時薬ナキカ如ク仁義礼智信トイフコトハナシ不 孝之子悪逆之輩代ニアリシ時仁義ノヲシヘアラハレタリト イフ也河上公云大道廃テ仁義アリトイフハ大道ノ代ニハ 家々ニ孝子アリ戸々ニ忠臣アリ仁義アラハレス大道スタレ テ用ヒラレス悪逆生テ則チ仁義ノ伝ヘキ道アリ智慧出テ大 偽有ト云ハ智恵ノ君徳ヲ賤シミ言ヲ貴ヒ質ヲイヤシミ文ヲ/k10-369l
タトヒ給フ故ニ人是ヲモテ文ヲマナヒテイツハリヲナスサレハ 五帝ノ象ヲタレ蒼頡カ書ヲツクル三皇ノ縄ヲムスヒ木ヲキサ ミシニシカスト云リ人ノ心スナヲナリシ時ハ木ヲキサミ縄ヲ結 シルシタカヘス文字ヲナラフル代ニハ偽リ有トイヘリコレカ如 ク仏教モ凡夫ノ感ナクハアラハルヘカラスタタ寂静凝然也凡 聖アトナシ迷ノ衆生種々ノ見ヲオコシ処々ニ著ヲ生スルユ ヘニヤム事ナクシテ文字ヲアラハシ言説ヲ起シテコレヲ引導スル也 故ニ法華曰但以仮名字引導於衆生ト云衆生処々著 引之令得出トモ説リ肇論曰存称謂者封名志器象者耽 形名也極於題目形也尽於方円方円有所不写題目有 所不伝云々コレ誠ニ諸宗ノヲノツカラ言象ノ外ニ有事ウタカ ヒナカルヘシ法華ニモ諸法寂滅相不可以言宣トイヘルハマ/k10-370r
コトノ所也以方便力故為五比丘説ハヤム事ナクシテ仮ナル 名字ヲモテ引導シ給事ナリ祖師ノウシナフ事ハ実ニハ不 可有タタ凡夫ノツタナキユヘニ和光同塵ノ心ナルヘシ方便ナ クシテハ真実ノ所アラハレカタキユヘニ慈悲ヲモテ大権跡ヲタ ル一向ニ祖師ヲカロシメハ又大キナルアヤマリナラシ和光ノ 方便三国ノ風皆同也維摩居士ノ示長者ノ身方便ヲ肇 公ノホムル詞ニ云非本無以垂迹非迹無以顕本々迹雖 異不思議一也云々上宮ノ維摩ノ御疏ニモ多用肇公詞給 ヘリ祖師皆和光ノ方便也其意大ハ相似タリ楞伽云我 得道ノ夜ヨリ泥洹ノ夜マテ一字ヲモ不説トサレハ真実ノ処 ニハ言説ナシ又悟道ノ縁ヲイハハタタ文字ニカキラス山河大 地ナニモノカ実相ニアラサラン色香中道也森羅万象悉ク/k10-370l
仏身也ト云リ故ニ東坡居士谷川ノ声ヲ聞テ道ヲ悟テ頌 曰渓声便是広長舌山色豈非清浄身夜来八万四千 偈他日如何挙示人仏意ヲアキラメハ何モノカ仏法ニアラサ ラン六塵ノ説法タフルコトナシ仏頂ニハ三科七大本如来 蔵トイヘリマコトニ仏法ニスキ菩提ヲネカフ心アラハ文字ノ 上ニモアレ境界ノ処ニモアレ自然ニ意ヲ得ヘシ然ハ言説ニ 対シテハ言説ヲ忘レ分別ノトコロニハ分別ヲアキラムル力アラハ 言説ノヲモムクトコロ分別ノヲチヰルサカヒヲノツカラ知ヌヘシ 若言説ニ著シ分別ニトトコホラハ争カタヱナル仏意ヲシルヘ キ言説念慮ハコレ幻化虚偽ノ夢中之妄想也故ニ法華云 是法非思量分別之所能解ト誠哉法即心々即法ナラハ 眼ミツカラ眼ヲ見サルカ如シサレハ心ヲ以テ心ヲシラントセン/k10-371r
ハ我目ヲ以テ自レカ目ヲミントセンカ如シ豈遠カラサランヤ 此故ニ心ヲワスレテ心ヲシリ言ヲワスレテ言ヲモチヰル是道人 ノ姿達人ノ儀ナリ楞厳経ニ一ノ譬ヲ説リ演若達多ト云 者朝鏡ヲ見ルアシク鏡ヲモチテ面ノ見ヘサル時鬼魅ノ所為 ニテ我頭ウセヌト思テオホキニ愁ヘ歎キ狂心ニシテ走求ム人ア リテヲシヘテヨク鏡ヲ見セシムル時サキニウシナヘル頭ヲ今得タ リト思テ是ヲ悦フ是ヲ迷ノ衆生ノ意ニタトフ我本覚ノ実 体ハ霊性天然也ウスヘキニ非ス然ルニ知見ニ知ヲ立テ覚ニ ソムキ塵ヲトメテ妙明ノ霊覚ヲウシナヘリト思テ種々ニ欣 求シ修行シテ菩提ヲ得タリトオモフ頭ヲウセタリト思又得タリ ト思カ如シ然ハ本覚ヲウシナヘリトオモフ流転生死モ夢也 仏果ヲ得タリトオモフ始覚ノ涅槃モ夢也円覚云始知衆/k10-371l
生本来成仏生死涅槃猶如昨夢ト云テ生死ノ迷妄ノミナ ラス始覚ノ菩提モ夢也ト云リ本来ノ知見天然ノ霊覚万 物ニサヘラレス六塵ニケカサレサル処無我ノ大我自己ノ宝蔵 ナリ此所ハ凡ニ非ス聖ニ非ス迷モナク悟モナシシヰテ本地ノ 風光本来ノ面目トイヘリ是故ニ思益経云諸仏ノ出世ハ 衆生ヲシテ生死ヲ出テ涅槃ニイラシメンカ為ニ非ス只生死ト 涅槃トノ二見ヲタタシメントナリ二見ハ即同ク夢ナルユヘ也 夢サムルヲカリニウツツトイフウツツノ相モ誠ニハナシサレハ一 代ノ教門ハ愚痴ノ衆生ヲコシラフル方便ナレハカリノ言説ナ リ故ニ天台ノ師モ教権理実トイヒテ凡ソ教門ハミナ権ナリ トイヘリ理実トイヘルモ理ト云相ヲトラハ是又夢ノ心ナリ教 ノ権ニ対シテ暫ク実証ノ処ヲ理トイヘリ理処ヲ執セハ又権ナル/k10-372r
ヘシ三論師モ二諦唯是教門不開境理トイヘリ是モ境理 トイヘル相ナシ二諦教門ハ至理ニアツカラスト云ハカリ也諸 宗皆機ヲ引ク方便ノ教門コトナレトモ実証ノトコロカハルヘ カラス法相ニモ言説ヲ立ルヲハ依詮ト云有為有相也安立 諦トモイフ実証ノトコロヲハ廃詮ト云無為無相ナリ是ヲ非 安立諦トイフサレハ言ヲ立テ心ヲオコスハ幻化虚妄ノ境界 也一切ノ教門ハ頭ヲ失ヘル狂人ニムカヒテ頭ハウセヌソトヲ シフルカコトシコレヤム事ナキ詞也頭ヲ失ハヌ者ニ向テ云ハイ タツラ事也此ユヘニ真実ニ本心ヲヱナハ何カ外ニ仏法ヲ求 メウトク言説ヲモチヰン彼山中ノ老僧既ニ此境ニ入テ諸宗 ノ先達ヲモ宗ヲ失フ人トイヘリ是ハ実ニ失フニハアラスヤム事 ナクシテ一門ノ方便ヲ立ルナリ然トモ法体ニウトキ教門ノ旨ヲ/k10-372l
ヱサル学者ヲ失トイヘリ故ニ書ニ云智師ニ過テ師ノ意ヲ知 ルトイヘリ此老僧智ステニ師ニコヱテ師ノ意教ノ旨ヲ得タリ 超仏越祖トイヘルモ誠ニハ争カ仏祖ニ越ン此ココロナルヘキ ヲヤ凡ソ世間出世格ヲコエテ格ニアタルハアタラストイフ事ナ シ格ノ中ニシテ格ヲ出サルハ或ハアタリ或ハアタラス礼儀ヲ不 知無礼ナルハ云カヒナシ格ヲシラサル者ナリ礼ヲシリテ時折 節モワキマヘス只カタク礼ヲ守ルハカタクナナル事アルヘシ是 格ヲ出サルモノナリ折ヲシリ時ニ随テ格ヲコヘ礼ニカカハラス シテ物ノ意ヲ得テ振舞是マコトノ達人ナリ諸道ノ達者ソノ道 ノ意ヲ得者必スシモ師説ニカカハラストイヘリ是道々ノ不伝 ノ妙ナリ南都ノ或寺ニ如法経ヲヲコナヒケル道場ノ幡ニ火 ツキテモユルヲ或沙弥コトウルハシキ体ニテ老僧ニ申ケルハ道/k10-373r
場ノ幡ニ火ノツキテ候ハ行水シテ入テケチ給ヘキカト云是格 ヲ出サルスカタナリオリニコソヨレ急キ入テケツヘシ武州ノ或寺 ノ長老宋朝ニ渡リテ彼寺ノ行儀ヲウツシオコナフ故ニ十 三人ノ僧ヲ十二人ハ寺官ニサシテ点心営ミケル時一人ノ僧 ヲハ堂僧トテ点心ヲクハセス大ナル寺ニ堂僧オホカル故ニ官 人ハカリニ点心スルヲマホル格式オコカマシクコソ此コトハ宋 朝マテ聞タル勝事也又アル寺ニハ三人シテカラヲリノ行道シア ル寺ニハ四人シテ二行ノ列ヲヒク是皆格ヲマホルユヘナリ僧 ヲホカル時ノ行也スクナキ時ノ行儀ニアラス在家出家ヲイ ハス格式ヲシラス礼儀ヲ存セサルハ多シ格ヲシレル人ノ格ヲ 越テ還テ格ニアタル人実ニ希也和泉式部保政ニスサメラレ テ或カンナキヲカタラヒテ貴布禰ニテ敬愛ノマツリヲセサセケ/k10-373l
ル保政粗聞テカノ社ノ木カケニタチテカクレテ見ケレハ年タケタ ル御子赤幣タテナラヘタルメクリヲ様々ニ作法シテツツミヲ打 マヘヲカキアケテタタキテ三返メクリテ是テイニセサセ給ヘト云 ニ面打アカメテ返事モセス何ニ是ホトノ御大事ニ今ハ是ハ カリニナリテカクハセサセ給ハヌサラハナシニ思食タチケルトセム レハ保政クセ事見テンストヲカシク思ホトニカクソ詠シケル チハヤフル神ノミル目モ恥カシヤ身ヲ思フトテミヲヤスツ ヘキ彼心ノウチワリナク優ニ覚ヘケレハ保政コレニ候ソトイヒ テ具シテ帰テ心サシアサカラスナンアリケルコレコソ格ニカカハリ テ振舞タラマシカハヤカテソウトマレナマシ格ヲ越テカヘリテ格 ニアタリテ祈念モ叶ヒケル成ヘシ開田ノ御室東大寺ニテ受 戒シ給ケルニ雪ヲヒタタシクフリ風フキテ戒壇院ノ石壇ノ上/k10-374r
ニモ雪ツモリタリ石壇ノ上ニハ足駄ハハカヌ事ナレハアノ御ア シタヌカレ候ヘヌカレ候ヘト大衆共申ケレハ既ニヌカントシ給ケルヲ或 大衆凶ノ田舎大衆カナ折ニコソヨレ只メサシ候ヘト申ケレハ ヌキ給ハスケニモ法式ハサル事ナレトモイトケナキ禅師ノ君ノ 雪ノ上ヲハタシニテヲハセン事イタハシク思テ格ニカカハラス申 ケル心ワリナシト供奉ノ人々モ思アヒケリサテ後ニタツネラレ ケレハ中道房ノ未タ太輔房トテ大衆ノ中ニテサカサカシク申 サレケルソノユヘニヤ当時マテ御室ノ御気色シカルヘキ様ニテ 真言ノ秘事ナント御ユルシ有ケリト聞ユ人ハナサケモ有心モ 有ヘキ者也凡ソ格ヲシラサルハイフカヒナシ格ヲカタクフルマフ ハヨノツネノ人也格ヲコヱテ其意ヲウルコレ達人也凡夫ノ仏 法ヲシラス因果ヲ信セサルハ格ヲシラサルカ如シ二乗ノ生死/k10-374l
涅槃ノ執カタクシテ生死ノ有ヲステテ涅槃ノ空ヲ証スルハ格ヲ カタク執スル人ノ如シ只大乗ノ菩薩ノミ大乗ノ意ヲ得テ 生死即涅槃ノ旨ヲ達シテ大智ノ故ニ生死之泥ニ染セス万 法ノ空寂ヲ達シ大悲之故ニ涅槃ノ空ニ住セス四生ノ迷徒 ヲ救フ是格ヲ越テ格ニアタルスカタナリ是第四ノ無住涅槃 ナリ唯識論ニ四種ノ涅槃ヲ釈ス第一ハ本来自性清浄涅 槃是凡聖無有ノ真如ノ体ナリ第二ハ有餘第三無餘 々々是ハ小乗ノ涅槃也第四ノ無住涅槃是大乗ノ菩 薩ノスカタナリ煩悩所知ノ障ヲタチテ衆生ヲ利スルスカタ也 論云大悲般若常所輔翼由斯不住生死涅槃利益有情 窮未来際用而常寂故名涅槃ト云々涅槃ノ翻語ニアマタ是 アリ不生不滅寂静円寂安楽等也是ハ寂静ノ心ナルヘシ/k10-375r
法華ノ四要品ニハ観音品涅槃ニアタル種々利益コレコノ 無住涅槃ナリ有相無相不二ナルユヘ性相空有全ク同コ レマコトノ大行ナリ偏ニ一法ニ住スルハ大乗ノ行ニアラス此 法門心ウヘシ法華ニ其三十二相乃是真実滅トイヘル コノ心也滅ハスナハチ寂滅涅槃也肇論ニ此法門オホク見 ヘタリ弥寂弥動シ弥動弥寂トイヘリ凡夫ハ生死ニ著ス智 慧ナキ故ニ二乗ハ涅槃ニ著ス慈悲ナキユヘニ只菩薩ノ意 深広無礙ニシテ妙ナリ仰テマナフヘシ大乗ノ修行コレラヲワキ マヘテ信心ヲ堅固ニシ偏少邪路ニ入ヘカラス能々思トクヘ キ道理也コノ物語ハ秘事也然トモ心ノ中ニ朽サシトテカキ ツケ侍リ心アラン人ハ定感給ヘシ 沙石集巻十上終/k10-375l