ユーザ用ツール

サイト用ツール


text:shaseki:ko_shaseki09b-08

沙石集

巻9第8話(117) 妄執に依りて魔道に落つる人の事

校訂本文

中ごろ、なにがしの宰相とかや聞こえし、才学も優に、賢人の覚えありける人、出家して、高野山に隠れ居て、念仏の行を宗(むね)として、真言なんどもうかがひて、道心者の聞こえありけり。平生の願に、「最後の時、念仏の数返は時によるべし、まさしく最後の十念をば、のどかに心を澄まして唱へ、第十の念仏一返をば、ことに声うち上げて、思ひ入れてのびのびと申して、やがて引き入らばや」と念願して、願のごとく、少しもたがはず念仏して、息絶えにけり。

その後一両年ありて、同法の僧、物狂ひなりけるが、口走りて、やうやうのこと言ふを聞けば、かの入道の霊なり。姿・声(こは)ざし、少しもたがはず。同法ども、思はずに思えて、「御臨終めでたかりしかば、決定の御往生とこそ心安く思ひあへるに、いかなる御ことにて、かくはおはしますぞ」と言へば、「年ごろ、思ひ染み願ひしことにて、十念はせしかども、妄念の残りて、往生もしそこなひぬるなり。そのゆゑは、当世の御政(まつりごと)の濁れること、常に心にかかりて、『われ、その官にありて、そのことを司りて引き直さば、さりとも、これほどのことはあらじ』なんど、よしなきこと、ややもすれば心の中ばかり人知れず思はれし。妄執忘れがたくして、かかるよしなき道に入れり」とぞ語りける。

世を捨てて深き山に住み、まことの道に入れども、思ひ染みぬる妄念捨てがたきにこそ。まして、塵労(ぢんらう)の中にして、心濁り妄縁に封着せば、道に遠からんこと疑ひなし。さしも賢人・道心者と聞こえし上、その執心も世のため人のため、利生の一分にてもありぬべし。あながちに罪あるべしとも思えねども、まことの道に入る時は、法執とて仏法を愛するまでも道の障りなり。まして、夢幻の世の政(まつりごと)、心にかくるにも足らぬことを、常は思ひ続けむ。いかでか、観念の心も乱れざらん。念仏の妨げともなりぬべし。よしなき道に入りけんこともことわりなり。されば、人の臨終は知りがたきものなり。

常州に真壁の敬仏房とて、明遍僧都の弟子にて、道心者と聞こえし高野上人なりけり。人の臨終を「よし」と言ふをも、「いざ、心の中知らず」とぞ言ひける。また、高野にありける古上人は、「弟子あれば、往生はせんずらん。後世こそ恐しけれ」とぞ言ひける。子息・弟子なんどは、父母・師長の臨終の悪しきをも、ありのままに言はんもかはゆく覚ゆるかにて、よきやうに言ひなす。よしなきことなり。悪しくはありのままに言ひて、われもねんごろにとぶらひ、よそまでもあはれみとぶらはんことこそ、亡魂の助かる因縁どもなるべけれ。

末代は、多くは往生とのみ言ひあへり。悪人の中に、まれに臨終おだしければ、これを見て、「悪人も臨終よし。悪業恐るべからず」といふ見(けん)を起して、罪を恐れず。ほしいままに三悪四趣の業をのみなすこと、世に多し。「濁世には多く魔往生あるべし」と言へり。悪人なれども、心を改めて十念成就し、宿善開発したらんは、まことに往生すべし。宿善もなく、正念にも住せざらん人の、ことごとしく往生とのみ申しあへらん、心得がたし。

悪人も心を翻して往生せんは、教門の許すところなり。悪人と言ふべからず。善人も妄念あて臨終悪しきことあるうべし。これまた善業の悪しきにあらず。妄念は強く善業は弱きゆゑなり。この理(ことわり)を信じて、因果を乱るべからず。

高野の遁世聖ども、臨終する時、同法寄り合ひて、評定(ひやうぢやう)するには、「おぼろげに往生人なし」と言へり。ある時、端座合掌し念仏唱へて、引き入りたる僧ありけり。「これこそ一定の往生人よ」と沙汰しけるを、ある上人は、「これをも往生と定めがたし。そのゆゑは、まことに来迎にあづかり往生するほどの者は、日ごろ悪しからん面も、心地よき気色なるべきに、眉すぢかひて、物すさまじげなる面(おも)ざしなり。魔道に入りぬるにや」とぞ申されける。一両年の後に、人に託して、魔道に落たるよし語り侍りけり。かの上人、かしこく見とがめられけり。

また、高野上人の遁世のことを物語せしは、「遁世は第三重(だいさんぢう)に立ち入りて、まことに捨てたる人なり。一つには、世を捨つるは安し。おのづから貧しくして1)世にも捨てられ、あるいはまた愛別のかなしみもあり、また2)思ひのほかのこと出で来て、世にも立ちまじるべきことなくて、世を遁(のが)るることも侍り。二つに、身を捨つる。これも思ひ捨てて、非人となり飢寒を忍びて、しひて行ずれば、身はならはしのものにて、わづかに命を継ぐことあれば、年月を送りて、姿ばかりは捨てたるものなり。第三に心を捨つといふは、五塵・六欲・名聞・利養、かつて心にかからず、執心・執着なくして、浮世を夢のごとく悟り、身命を幻のごとく思ひて、心の底より清き、心を捨つと言ふなり。この心にて、念仏・修善をも怠らず、あるいはまた観念・坐禅も深く思ひ入り、出離解脱の道は物にさへられず、念縁に転ぜられぬ道人なりと語りき。

当世の遁世、多くは第一第二重は見え侍り。第三重はまれなるにや。遁世の人の中に、随分に仏法を学し、座禅観念する人も、偏執多く、法門に付けても、振舞ひに付けても、是非我相薄しとも見えぬことのみ侍るをや。澆季(げうき)の習ひならし。

迦葉仏、在世の国王の十夢の中に、大象の窓を出づる、身は出でつつ、なほ尾にかかへられて出でやらぬと見て、仏に問ひ奉りしには、「釈迦仏の遺法(ゆゐはふ)の弟子、出でがたき家を出でたりといふとも、なほ名利のために出離せざらんこと」とこそ合はせ給ひけれ。まめやかに名利を拾つるこそ、隠遁の形、出家の姿なれ。

されば、仏道に思ひ入らば、この心を得て、まことに遁るべし。古人の言葉には、「鈍なる者は財と色とを愛し、利なる者は名と見(けん)とに着す」と言へり。このゆゑに、あるいは世を捨てたる姿をかへて、名聞にする人もあり。あるいは徳を隠すよしにて、放逸なる者もあり。よくよく心行を察して、名利の穴を出で、執着の氷を溶くべきをや。

翻刻

  依妄執魔道落人事
中比ナニカシノ宰相トカヤ聞シ才学モ優ニ賢人ノ覚ヘ有ケ/k9-351l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=350&r=0&xywh=-7404%2C249%2C19987%2C3835

ル人出家シテ高野山ニ隠居テ念仏ノ行ヲ宗トシテ真言ナント
モウカカヒテ道心者ノ聞ヱ有ケリ平生ノ願ニ最後ノ時念仏
ノ数返ハ時ニヨルヘシマサシク最後ノ十念ヲハノトカニ心ヲス
マシテ唱ヘ第十ノ念仏一返ヲハコトニ声打アケテ思ヒ入テノ
ヒノヒト申テヤカテ引入ハヤト念願シテ願ノコトクスコシモタカハス
念仏シテ息絶ニケリ其後一両年有テ同法ノ僧物狂也ケル
カ口ハシリテヤウヤウノ事云ヲキケハカノ入道ノ霊也スカタコハ
サシ少シモタカハス同法共思ハスニ覚テ御臨終目出カリシカ
ハ決定ノ御往生トコソ心安ク思ヒアヘルニ何ナル御事ニテ
カクハ御坐スソトイヘハ年来思ソミ願ヒシ事ニテ十念ハセシ
カトモ妄念ノ残リテ往生モシソコナヒヌル也其故ハ当世ノ御
政コトノ濁レル事常ニ心ニカカリテ我其官ニ有其事ヲツカサ/k9-352r
トリテヒキナオサハサリトモ是程ノ事ハアラシナントヨシナキ事ヤ
ヤモスレハ心ノ中ハカリ人シレス思ハレシ妄執ワスレカタクシテカ
カル由ナキ道ニ入レリトソカタリケル世ヲステテフカキ山ニスミ
実ノ道ニ入レトモ思ヒソミヌル妄念ステカタキニコソマシテ塵労
ノ中ニシテ心濁リ妄縁ニ封著セハ道ニトヲカラン事疑ヒナシサ
シモ賢人道心者ト聞ヘシ上ソノ執心モ世ノタメ人ノタメ利
生ノ一分ニテモアリヌヘシアナカチニ罪アルヘシトモオホヱネトモ
実ノ道ニ入時ハ法執トテ仏法ヲ愛スルマテモ道ノ障也マシテ
夢幻ノ世ノマツリコト心ニカクルニモタラヌ事ヲ常ハ思ツツケ
ム争カ観念ノ心モミタレサラン念仏ノ妨トモナリヌヘシヨシナ
キ道ニ入ケン事モ理リナリサレハ人ノ臨終ハ知リ難キ者ナリ
常州ニ真壁ノ敬仏房トテ明遍僧都ノ弟子ニテ道心者ト/k9-352l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=351&r=0&xywh=-2159%2C499%2C5805%2C3451

聞ヘシ高野上人ナリケリ人ノ臨終ヲヨシト云ヲモイサココロ
ノ中シラストソ云ケル又高野ニ有ケル古上人ハ弟子アレハ
往生ハセンスラン後世コソオソロシケレトソ云ケル子息弟子
ナントハ父母師長ノ臨終ノアシキヲモアリノママニ云ンモカハ
ユク覚ユルカニテヨキヤウニ云ナスヨシナキ事也アシクハ有ノマ
マニ云テ我モ懇ニ吊ヒヨソマテモアハレミトフラハン事コソ亡
魂ノタスカル因縁共ナルヘケレ末代ハ多クハ往生トノミイヒ
アヘリ悪人ノ中ニマレニ臨終オタシケレハ是ヲ見テ悪人モ臨
終ヨシ悪業恐ルヘカラストイフ見ヲ起シテ罪ヲ恐レス恣ニ三
悪四趣ノ業ヲノミナス事世ニ多シ濁世ニハ多ク魔往生ア
ルヘシトイヘリ悪人ナレトモココロヲ改テ十念成就シ宿善開
発シタランハ実ニ往生スヘシ宿善モナク正念ニモ住セサラン/k9-353r
人ノコトコトシク往生トノミ申アヘラン心ヱカタシ悪人モ心ヲ
ヒルカヘシテ往生センハ教門ノユルス処也悪人ト云ヘカラス善
人モ妄念アテ臨終悪キ事有ヘシ此又善業ノアシキニ非ス
妄念ハツヨク善業ハヨハキ故也此理ヲ信シテ因果ヲミタルヘ
カラス高野ノ遁世ヒシリ共臨終スル時同法ヨリアヒテ評定
スルニハオホロケニ往生人ナシトイヘリ或時端坐合掌シ念
仏唱テ引入タル僧有ケリ是コソ一定ノ往生人ヨト沙汰シ
ケルヲ或上人ハ是ヲモ往生ト定メカタシ其ユヘハ誠ニ来迎ニ
アツカリ往生スル程ノ者ハ日来アシカラン面モ心地ヨキ気色
ナルヘキニ眉スチカヒテ物スサマシケナル面サシナリ魔道ニ入ヌ
ルニヤトソ申サレケル一両年ノ後ニ人ニ託シテ魔道ニ落タル由
語リ侍ケリ彼上人カシコク見トカメラレケリ又高野上人ノ/k9-353l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=352&r=0&xywh=-2188%2C480%2C5805%2C3451

遁世ノ事ヲ物語セシハ遁世ハ第三重ニタチ入テ実ニステタ
ル人ナリ一ニハ世ヲスツルハ安シヲノツカラ貪クシテ世ニモステ
ラレ或ハ又愛別ノカナシミモアリヌ思ノ外ノ事イテキテ世ニ
モタチマシルヘキ事ナクテ世ヲノカルル事モ侍リ二ニ身ヲスツ
ル是モ思捨テ非人トナリ飢寒ヲ忍テシヰテ行スレハ身ハナ
ラハシノ物ニテワツカニ命ヲツク事アレハ年月ヲ送リテ姿計
ハステタルモノナリ第三ニ心ヲスツトイフハ五塵六欲名聞
利養カツテ心ニカカラス執心執著ナクシテ浮世ヲ夢ノ如クサト
リ身命ヲ幻ノ如ク思テ心ノ底ヨリ清キ心ヲスツトイフナリ此
ココロニテ念仏修善ヲモヲコタラス或又観念坐禅モフカク思
ヒ入リ出離解脱之道ハ物ニサヘラレス念縁ニ転セラレヌ道
人也ト語リキ当世ノ遁世多クハ第一第二重ハ見ヘ侍リ第/k9-354r
三重ハ希ナルニヤ遁世ノ人ノ中ニ随分ニ仏法ヲ学シ坐禅
観念スル人モ偏執多ク法門ニ付テモ振舞ニ付テモ是非
我相ウスシトモ見ヘヌ事ノミ侍ヲヤ澆季ノ習ナラシ迦葉仏
在世ノ国王ノ十夢ノ中ニ大象ノ窓ヲイツル身ハイテツツ猶
尾ニカカヘラレテイテヤラヌト見テ仏ニ問奉リシニハ釈迦仏
ノ遺法ノ弟子出離キ家ヲ出タリト云共猶名利ノタメニ
出離セサラン事トコソアハセ給ケレマメヤカニ名利ヲ拾ルコソ
隠遁ノカタチ出家ノスカタナレサレハ仏道ニ思入ラハ此心ヲ
ヱテ実ニノカルヘシ古人ノ詞ニハ鈍ナル者ハ財ト色トヲ愛シ
利ナル者ハ名ト見トニ著ストイヘリ此故ニ或ハ世ヲステタル
姿ヲカヘテ名聞ニスル人モ有リ或ハ徳ヲカクスヨシニテ放逸
ナル者モ有リ能々心行ヲ察シテ名利ノ穴ヲイテ執著ノ氷ヲ/k9-354l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=353&r=0&xywh=-2388%2C470%2C5805%2C3451

トクヘキヲヤ/k9-355r

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=354&r=0&xywh=-894%2C-1%2C6967%2C4142

1)
「貧しくして」は底本「貪クシテ」。諸本により訂正
2)
「また」は底本「ヌ」。「又」の誤植とみて訂正。


text/shaseki/ko_shaseki09b-08.txt · 最終更新: 2019/04/06 18:52 by Satoshi Nakagawa