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text:shaseki:ko_shaseki08a-06

沙石集

巻8第6話(99) 経を焼き目を失ふ事

校訂本文

洛陽のある在家に、修行者の僧、宿れり。夜うち更けて、寝覚めに聞けば、はらはらと物の鳴る声す。

「何の鳴るにや」と思ふほどに、「あら悲し、あら口惜し」と、大きに驚き騒ぎたる声のしければ、この客僧驚きて、内へさし入りて見れば、一間なる所に、火鉢に火をおきて、紺紙(こんし)に金泥(こんでい)にて書きたる経、取り散らして居たる者あれば、「いかに」と問へば、「日ごろしつることの積りて、口惜しきことにあひ侍り。大般若1)の泥を取らむとて焼きつるほどに、目二つながら抜けて、ただ今、火鉢に落ちぬる」とて、泣き悲しむことかぎりなし。家中の者、騒ぎ集まりて、泣き悲しみけり。

いかばかり当来の苦患あらん。多劫2)地獄に落ち、生々世々、目なく愚痴闇鈍の者にこそ生まれんずらめ3)。今生一旦のこの身のために、長劫の苦患に沈み果てなんことの、かへすがへすも愚かにこそ。

近代は、湯屋にとめ湯して、「女房入り参らせん」とて、ひさひさとひしめきて、後に見れば、泥仏の金泥を洗ひ落して、仏をば黒々として、うち捨てて行くことありと申しあへり。かの罪障、いかばかりならん。

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  経焼目失事
洛陽ノ或在家ニ修行者ノ僧ヤトレリ夜ウチフケテネサメニキ
ケハハラハラト物ノナル声ス何ノナルニヤト思ホトニアラカナシア
ラ口惜シト大ニ驚キサハキタル声ノシケレハコノ客僧驚キテ
内ヘサシ入テ見レハ一間ナル所ニ火鉢ニ火ヲヲキテ紺紙ニ金
泥ニテカキタル経トリチラシテ居タル者有レハ何ニト問ヘハ日/k8-295l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=294&r=0&xywh=-2254%2C551%2C5375%2C3195

来シツル事ノツモリテ口惜キ事ニアヒ侍リ大般若ノ泥ヲトラ
ムトテ焼ツルホトニ目二ナカラヌケテ只今火鉢ニ落ヌルトテナ
キカナシム事カキリナシ家中ノ者サハキアツマリテナキカナシミケ
リイカハカリ当来ノ苦患アラン多却地獄ニ落生々世々目
ナク愚痴闇鈍ノ者ニコソウマレフランメ今生一旦ノ此身ノタ
メニ長劫ノ苦患ニシツミハテナン事ノ返々モヲロカニコソ近
代ハ湯屋ニトメ湯シテ女房入参ラセントテヒサヒサトヒシメキテ
後ニ見レハ泥仏ノ金泥ヲ洗ヒ落シテ仏ヲハ黒々トシテ打捨テ
行事有ト申アヘリカノ罪障イカハカリナラン/k8-296r

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=295&r=0&xywh=-115%2C441%2C5805%2C3451

1)
大般若経
2)
「多劫」は底本「多却」。諸本により訂正。
3)
「生まれんずらめ」は底本「ウマレフランメ」。諸本により訂正
text/shaseki/ko_shaseki08a-06.txt · 最終更新: 2019/02/19 18:25 by Satoshi Nakagawa