撰集抄
巻6第8話(56) 佐野渡聖事
校訂本文
永暦の末の八月のころ、信濃国佐野の渡を過ぎ侍りしに、花ことにおもしろく、虫の音声々に鳴きわたりて、行き過ぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、たまぼこのゆきかふ道のほかに、少し草かたぶくばかりに見ゆる道あり。
「いかなる道にかあらん1)」とゆかしく思えて、たづねいたりて侍るに、薄(すすき)・苅萱(かるかや)・萩・女郎花を手折りて、庵結びて居たる僧あり。「齢(よはひ)四十(よそぢ)あまり五十にもやなりぬらん2)」と見えたり。前に、けしかる硯・筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。
庵(いほり)の内を見入れ侍れば、手折りて庵(いほ)につくれる草に、紙にて札を付けたり。
薄(すすき)の遣戸(やりど)には、
すすきしげる秋の野風のいかならん夜鳴く虫の声の寒けさ
苅萱(かるかや)の蔀(しとみ)には、
山かげや暮れぬと思へばかるかやの下置く露もまだき色かな
蘭(ふぢばかま)のふすまには、
露のぬきあだに折るてふふぢばかま秋風待たで誰に貸さまし
荻の花の戸には、
夕されば籬(まがき)の荻に吹く風の目に見ぬ秋を知る涙かな
女郎花の咲けるには
をみなへし植ゑし籬(まがき)の秋の色花をしろたへの露ぞかはらぬ
萩の咲けるには
萩が花うつろふ庭の秋風に下葉も待たで露は散りつつ
と札を付けて座禅し給へり。
ことにやさしく、貴く思えて、「なにわざの人ぞ。いづくより、ここへは来たり給ふにや」と言ふに、「この春より」とばかり答へて、そののちは何ごとを問ひしかども、つひにものものたまはざりき。
さるほどに、日もかたぶけば、名残はつきせねども、泣く泣く別れて、まかり侍りしが、結縁せまほしくて、麻の衣を脱ぎて、かの庵(いほ)に置きて出で侍りき。
かくて、西の方へ歩み出でたれば、まことにけはしき山あり。山水清く流れて、岩のありさま見る目めづらかに、「絵に描くともこれには似じ」と、心とまるほどなる所あり。川の水上をたづね行けば、「一町あまり来ぬらん」と思ふほどに、木の葉さし覆ひて、六十(むそぢ)あまりにたけたる僧いまそかりけり。「ここにもまた、かかる人おはしけり」と思ふに、胸さはぎて急ぎ寄りて見れば、うるはしく坐して、眠(ねぶ)るやうにて、息絶え給へる人なり。
木の枝に、紙にて札を付け給へり。
紫の雲待つ身にしあらざれば澄める月をぞいつまでも見る
といふ歌の札なり。
あはれに悲しく侍りて、「上の聖の同行にこそ」と思ひて、急ぎ行き、「しかじか」と言ふに、「いとあはれにこそ」とて、硯引き寄せて、紙にかくなん、
迷ひつる心の闇を照しこし月もあやなく雲隠れぬる
と書き終りて、筆を持ちながら、眠(ねぶ)るやうにして終られぬ。あさましく悲しくて、袂に取り付きてをめけども、かひぞ侍らぬ。
また、「山かげに住み給へる人は、いかがおはする」と思ひて、泣く泣く走り行きて見侍れば、首前にかたぶきて居給へり。
さて、あるべきに侍らねば、「煙となし奉らん」と思ひて、火打ちて、「すでに焼き奉らん」とし侍りしほどに、あまりに悲しかりしかば、閑居の友ともし奉らまほしくて、涙をのごひて、おろおろかの姿を絵に留め取りてのち、煙となし奉て、野辺の聖の方へ行きて見れば、彼も首はかたぶき給ひしかば、同じく姿を写し留めて、同じ火にて焚きあげて、その夜は野辺に留りて、終夜(よもすがら)念仏して、「一仏浄土へ」と乞ひ願ひ侍りて、明けぬれば、庵の歌ども取りて、泣く泣く去り侍りき。
あはれ、貴かりけることかな。生死、心にまかせ給へりけるぞ、ありがたく侍る。めでたき禅僧なんどにておはしけるにこそ。歌さへ末世にはあるべしとも思えぬほどに侍り。所がら心も澄むべきありさまに侍り。人里も侍らず、また、持ち貯(たくは)へる物も見えず。何として、しばしのほどの命をもささへ給ひけるぞや。われ、世を背きて広き国々を経巡(へめぐ)りしに、貴き人々あまた見侍りしかども、かかる人にいまだ会はず侍りき。
さても、最後臨終にもあひ、煙ともなし奉り、骨を拾ひ、高野にもよぢ登り、かの聖たちの筆の跡をも取り留め、歌をも詠じ侍れば、「さだめて、かの二所の力にて、われも浄土へ導かれ奉らん」と思えて、嬉しく侍り。
詠み置き給へる歌、書き置き給へる文字、世の末にはたぐひ侍らじかし。
翻刻
永暦のすゑの八月の比信濃国佐野の渡をす き侍りしに花殊面白く虫の音声々に啼 わたりて行すきかたく侍て野辺に徘佪し侍に 玉ほこのゆきかふ道のほかにすこし草かたふく はかりにみゆる道ありいかなる道にあらんと床しく 覚て尋いたりて侍るにすすきかるかや萩女良花 を手折て庵結てゐたる僧ありよはゐ四そちあ まり五そちにもやなりぬらんとみえたり前に/k175r
けしかる硯筆はかりそ侍りける実に貴け なる人に侍りいほりの内を見入侍れは手 折ていほにつくれる草に紙にて札をつけ たり薄のやりとには すすきしける秋の野風のいかならん よる啼虫の声のさむけさ かるかやのしとみには 山かけや暮ぬとおもへはかるかやの したをく露もまたき色かな 蘭のふすまには/k175l
露のぬきあたにおるてふふちはかま
あき風またて誰にかさまし
荻の花の戸には
夕されはまかきの荻にふく風の
目にみぬ秋をしる涙かな
女良花のさけるには
をみなへしうへし籬の秋の色は
なをしろたへの露そかはらぬ
萩のさけるには
萩か花うつろふ庭の秋風に/k176r
した葉もまたて露は散つつ
と札をつけて座禅し給へり殊にやさしく
貴く覚てなにわさの人そいつくよりここへは
来り給ふにやといふに此春よりとはかり答て
其後は何事をとひしかとも終に物もの給は
さりき去程に日もかたふけは名残はつ
きせね共泣々別てまかり侍しか結縁せ
まほしくてあさの衣をぬきて彼いほにをきて
出侍きかくて西の方へあゆみ出たれはまことに
けはしき山あり山水きよくなかれて岩/k176l
のありさま見る目めつらかに絵にかくとも 是にはにじと心とまる程なる所あり河の水上 を尋行は一町あまりきぬらんと思程に木 のはさしおほひて六そちあまりにたけたる 僧いまそかりけりここにも又かかる人をはし けりとおもふにむねさはきていそきよりて見 れはうるはしく坐してねふるやうにていき たえ給へる人なり木の枝にかみにて札 をつけ給へり 紫の雲まつ身にしあらされは/k177r
すめる月をそいつまても見る
と云哥のふたなり哀に悲く侍て上の聖の同
行にこそとおもひていそき行しかしかと云にいと
あはれにこそとて硯ひきよせて紙にかくなん
まよひつる心のやみをてらしこし
月もあやなく雲かくれぬる
とかきをはりて筆をもちなからねふる様に
して終られぬあさましくかなしくて袂にとり
つきてをめけとも甲斐そ侍らぬ又山かけに住
給へる人はいかかをはすると思て泣々はしり行て/k177l
見侍れは首前にかたふきてい給へりさて あるへきに侍らねは煙となし奉らんと思ひて火 打てすてにやき奉らんとし侍し程にあまり にかなしかりしかは閑居の友ともし奉まほし くて泪をのこひてをろをろかの姿を絵に ととめとりて後煙となし奉て野への聖の方 へ行てみれは彼も首はかたふき給しかは同 く姿をうつしととめて同火にてたきあけて 其夜は野へに留りて終夜念仏して一仏 浄土へと乞願侍てあけぬれは庵の哥とも/k178r
とりて泣々さり侍きあはれ貴かりける事
かな生死心にまかせ給へりけるそありかたく侍る
目出禅僧なんとにてをはしけるにこそ哥さへ末
世にはあるへし共覚ぬ程に侍り所から心もす
むへきありさまに侍り人里も侍らす又持たく
はへる物もみえす何としてしはしの程の命を
もささへ給けるそや我世を背て広国々を経
廻しに貴人々あまた見侍しかともかかる人に
いまたあはす侍きさても最後臨終にも
あひ煙ともなし奉り骨を拾高野にも/k178l
攀のほり彼聖たちの筆の跡をもとり留哥 をも詠し侍れは定て彼二所の力にて 我も浄土へ道ひかれ奉らんと覚て嬉しく 侍りよみをき給へる哥かき置給へる文字世の すゑにはたくひ侍らしかし/k179r