撰集抄
巻5第6話(39) 中納言局発心
校訂本文
待賢門院1)に、中納言の局といふ女房おはしましき2)。女院におくれ参らせられてのち、さまを替へ小倉の山の麓(ふもと)に行ひすましておはし侍りきと承りしかば3)、長月の始めつかた、かの御室、たどりたどりまかりにき。
草深く茂りあひて、ゆきかふ道も跡絶え、尾花・くず花露しげくて、のきも籬(まがき)も秋の月澄みわたり、前は野辺、つまは山路なれば、虫の音、あはれに、哀猿(あいゑん)の声、ことに心すごし。荻の上、風枕にかよひ、松の嵐、閨(ねや)におとづれて、心すごきすみかに侍り。
さて、かの局に対面申したりしに、はじめの言葉に、「浮世を出で侍りし始めつかたは、女院の御事の、常には心にかけて、『あはれ、いかなる所にかいまそかるらん』と、悲しく覚え、誰々の人も恋ひしく思え侍りしかども、今はふつに思ひ忘れて、つゆばかり歎く心の侍らぬ也。さすが行ふかひ侍ればや、憂喜の心に忘られぬるなるべし。おろかなる女の心だにもしかなり。年久しく世をそむき、まことの道に思ひ立ちて、月日重ね給ふそこの御心の中、いかに澄みて侍らむ」とぞのたまはせし。ありがたかりける心ばせかな。
まことに、「憂喜、心に忘れぬれば4)すなはちこれ禅なり」と昔の智者の言葉なれば、いかにも、「これを忘ればや」と思ひ侍れど、やや心と心にかなはでとめやらぬに、この局の忘られけん、げに、この世一つの宿善にもよも侍らじ。二・三・四・五の仏の御前にて、多くの宿善を殖え給へるが、いささかの縁によりて、おひ出でぬるなるべし。
われは、つたなしといへども、世をそむくことも、かの局よりははるかの先なり。また、すべて名利を思はず、「ひとへに仏の道に」とこそ思ひ侍れども、「はや、かの局の心ばせにも劣り侍りぬる恥しさよ」と思ひ、帰る道すがら、また案ずるやうは、「恥かしさ思ふこそ、憂喜の忘れぬなれ」と思ひとりぬ。帰りて心をたづれば5)、「さては、またいかがせむ」と思ひかねて、小倉山を出で侍り。
また、そののち三年(みとせ)経てのち、この局、重くわづらふよし承り侍りしかはば、「とぶらひも聞こえん」とてまかりたりしかば、はや息終りにけり。西に向き、掌を合はせ、威儀を乱さずして終りにけり。
「『憂喜の心に忘れたり』と侍りしは、まことにて侍りけり」と思ひさだめて、泣く泣く帰りにき。
翻刻
待賢門院に中納言の局と云ふ女房をかし ましき女院におくれまいらせられて後さまをか へ小倉の山の麓におこなひすましておはし侍り/k123r
きうけたまはりしは長月の始つかたかの御室た とりたとり罷にき草深く茂りあひてゆきかう道も 跡たえ尾華くす華露繁くてのきもまかきも 秋の月すみわたり前は野へつまは山路なれは虫 の音哀にあい猿のこゑ殊に心すこし荻の上 風枕にかよひ松の嵐閨に音信て心すこき すみかに侍り扨かの局に対面申たりしに始の 詞に浮世を出侍し始つ方は女院の御事の常 には心にかけてあわれいかなる所にかいまそかるらん と悲く覚誰々の人も恋しく覚侍りしか共/k123l
いまはふつに思忘れて露はかり歎く心の侍ら ぬ也さすか行かひ侍れはや憂喜のこころに忘ら れぬるなるへしをろかなる女の心たにもしか也年 久く世を背実の道に思立て月日重給そ この御心の中いかにすみて侍らむとその給はせ し有難かりける心はせかな誠に憂喜心に 忘れぬは則是禅也と昔智者の詞なれは いかにも是を忘れはやと思ひ侍れとやや心と 心に叶はてとめやらぬに此局のわすられけん けに此世一の宿善にもよも侍らし二三四五/k124r
の仏の御前にて多の宿善をうへ給へるか聊 の縁によりておい出ぬる成へし我はつたなしと いゑ共世をそむく事も彼局よりは遥のさき也 又都名利をおもはす偏仏の道にとこそ思ひ 侍れ共はや彼局の心はせにもおとり侍りぬるは つかしさよと思ひ帰る道すから又案するやう ははつかしさ思ふこそ憂喜の忘れぬなれと 思ひとりぬ帰て心をたつれは(たつぬれはイ)さては又いかかせむと 思ひかねて小倉山を出侍り又其後三とせ経て 後此局おもく煩ふよし承り侍しかは訪も/k124l
聞えんとて罷たりしかははやいき終にけり西に
向き掌を会威儀を乱すして終にけり憂
喜の心に忘れたりと侍りしは実にて侍り
けりと思定て泣々かへりにき/k125r