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撰集抄

巻4第7話(32) 明雲僧正庵室(淡路国)

校訂本文

いにしへ、淡路国にしばらく徘徊し侍りしことありしかば、その国見歩(あり)き侍りしに、藤野の浦といふ所侍り。前は南向き、海、漫々として際(きは)もなし、後は北、山、嶮岨(けんそ)にして、今にさがしき所侍り。渚にそひて干潟をまもりて、かの所には至るに侍り。おぼろけにも、人のかよふ浦にも侍らず。

しかあれども、藤野といふ名の、何となくむつまじく思えて侍りしかば、たどるたどるまかりて侍りしに、あやしくあさましき庵(いほり)の、破れて残り侍り。めづらかに思えて、見侍りしかば、庵の主は見え給はで、墨染の袈裟と硯とばかり見え侍り。かたはらなる板に、「北嶺禅閣大僧正明雲の室也」と書かれ侍り。「さては、この所に住み給ふ世のおはしけるよ」と、あはれにかしこく思えて、そぞろに涙の落ち侍りき。

「いまだ、この所を出で給はざりければこそ、硯・袈裟をば残し置きていまそかるらめ」と思ひ侍りしかば、その日の傾くまで侍りしに、夕べになりて、僧正、山の上よりいまそかり。山桜の花をなん手折給ひて、下り給へり。

「こはいかにとよ。何とてたづね至りたるにや。都のかたに、なにわざの言の葉か侍らん。今は天台1)を離れて、かくて侍らんとこそ、思ひとりたれ」とのたまひ侍りしに、御返事、申すまでにも及ばず、随喜の涙せきかねて侍り。その夜は、御庵のかたはらに侍りて、何となく述懐2)ども申し出でて、互ひに袖をしぼりて、さて、あるべきにも侍らざりしかば、泣く泣く別れ奉りき。

公家にも用ゐられ、寺にも重くし奉り、よろづ執務していまそかりしかば、「さきらはいまそかりとも、おほかたにてこそいまそかるらめ。わきて身にしむまでは、後の世のこと、思し入れ給はじ」と、この日ごろは思ひけがし奉りけんこと、あさましともおそろしきわざなるべし。

げに、何とあるやらん、高位にのぼり給ふ人は、いかにも情のわりなく、道心などもいまするぞとよ。豊かなるべき人ぞ、かやうにこそ後世を恐れて、人もなぎさのほとりに行きて、立つ波、吹く風につけて無常をも観ぜさせ給へるに、何をするともなきつたなき人の、いたづらとあるままに、その事なき偽(いつはり)をかまへ、あるまじきことのみを思ひて、ますます流転の絆を多くわが身に付けて、この身を引き損ずるわざかな。「憂し」といひても、なほあまりは多かるべし。

されば、しづかに思ひめぐらし給へ。昔さかりありし人も、今は衰へ、昨日めでたかりし姿も、今日はやつれ、あすか川の淵は瀬になり、瀬はまた淵となり、木草も同じく枯野の原となり、山も枯れ、海もあせぬる世の中に、きはまりてあやうき身をもて、何のいさみかあればか、「ここ住みよし」と思はん。いとほしく、かなしき妻子も、そひ果つべきにあらず。つひに別れの期あるべし。たとひ、万年が間、命を保ちて侍りとも、別れのし悲く、命の惜しからん、おしなべて、いづれもひとしかるべし。

さて、心とかかる憂き所にとどまりて、悲しみを受くることを、など、「憂し」と思ふことのなくて、昨日も過ぎ、今日も暮れて侍るらん。朝(あした)にも消えずして、夕べに及ぶまで命の長らへ侍るをば、「げに不思議」と思ふべきに、いつまでもあらむずらむやうにのみ思ひて、後世のわざをば、つゆばかりも思はで、いかがして夕べの煙を立て、朝をむかふるたよりのあらんずるのみ、東西に走りめぐる姿、げに思ひ入りて見侍れば、あはれにも侍るかな。

翻刻

以往淡路国にしはらく徘徊し侍りし事あり
しかは其国見ありき侍りしに藤野の浦と
云所侍り前は南向海漫々としてきはもなし後は
北山けんそにして今にさかしき所侍り
渚にそひてひかたをまもりて彼所にはいたるに/k107r
侍りおほろけにも人のかよふうらにも侍らす
しかあれとも藤野といふ名の無何むつまし
くおほえて侍りしかはたとるたとる罷りて
侍りしにあやしくあさましきいほりのや
ふれて残侍りめつらかに覚えて見侍りし
かは庵の主は見え給はて墨染の袈裟と
硯とはかり見え侍り傍なる板に北嶺禅閣大僧
正明雲の室也と被書侍扨は此所に住給ふ世の
おはしけるよと哀に賢く覚てそそろに泪の落
侍りきいまた此所を出給はさりけれはこそ硯袈裟をは/k107l
残し置ていまそかるらめと思侍りしかは其日
の傾まて侍りしに夕に成て僧正山の上より
いまそかり山桜の華をなん手折給て下り
給へりこはいかにとよ何とて尋いたりたるにや都の
かたになにわさの言の葉か侍らん今は天台を離て
かくて侍らんとこそ思ひとりたれとの給ひ侍
りしに御返事申迄にも不及随喜の涙せき
かねて侍り其の夜は御庵の傍に侍て何となく木懐
とも申出て互に袖をしほりてさて有へきにも
侍らさりしかはなくなくわかれたてまつりき/k108r
公家にも被用寺にも重くし奉よろつ
執務していまそかりしかはさきらはいま
そかりとも大方にてこそいまそかるらめわ
きて身にしむまては後の世の事おほし
入給はしと此日比は思けかし奉りけん事浅猿
ともおそろしきわさなるへしけに何とある
やらん高位にのほり給ふ人はいかにも情のわり
なく道心なともいまするそとよゆたかなるへ
き人そかやうにこそ後世を恐れて人もなき
さのほとりに行て立浪吹風に付て無常/k108l
をも観ぜさせ給へるに何をするともなきつた
なき人のいたつらとあるままにその事なき
偽をかまへあるましき事のみを思てま
すます流転のきつなをおほく我身に付て
此身を引損するわさ哉うしと云ても
なを余はおほかるへしされは閑におもひめくら
し給へ昔さかり有し人も今は衰へ昨日目
出かりし姿も今日はやつれあすか川のふち
は瀬に成せは又ふちと成木草もおなしく
かれのの原となり山もかれ海もあせぬる/k109r
世の中にきはまりてあやうき身をもて何の
いさみかあれはかここすみよしと思はんいとをし
く悲き妻子もそひはつへきにあらすつ
ゐに別れの期あるへしたとひ万年か間
命を保て侍りとも別の悲く命のおしからん
をしなへていつれもひとしかるへしさて心と
かかるうき所にととまりてかなしみをうくる
事をなとうしと思ふ事のなくてきのふも
すき今日もくれて侍るらんあしたにもきえ
すして夕へに及まて命のなからへ侍るを/k109l
はけに不思儀と思へきにいつまてもあらむ
すらむやうにのみ思て後世のわさをは露斗
もおもはていかかして夕への煙を立朝を向る
たよりのあらんするのみ東西にはしり廻る
姿けに思入て見侍れは哀にも侍るかな/k110r
1)
比叡山
2)
「述懐」は底本「木懐」。諸本により訂正
text/senjusho/m_senjusho04-07.txt · 最終更新: 2016/06/11 15:02 by Satoshi Nakagawa
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